3-2
また来てくれたんだね、と三卜先輩は微笑んだ。
この先輩は、地学部の部長にして、どうやら実質的に唯一の部員だ。先輩は定位置らしい地学準備室の椅子を器用に回してこちらを向いた。不敵な笑み。けど小さい。モサモサした髪をなで回したい。なんとなく犬のお腹みたいな撫で心地を想像している。
「実は、今日は謎があって」
「お、謎班!?」
そこで初めて先輩の身体が動いた。椅子から立ち上がったのだけれど、やっぱり小さい。多分私の小六の頃の身長より低いと思う。
「はい、これなんですが」
「折りたたみ傘? それ昨日も持ってたよね」
「これ、昨日ここに来る前に拾った忘れ物なんです」
「あ、霧島さんのじゃなかったの」
「これあまり女子高生が持ってるやつじゃないと思いますけど」
黒くてコンパクトで機能性抜群ですみたいな折りたたみ傘である。
「え。私似たようなの持ってるけど」
「すみません、東京とかだと女子高生にこういうの流行ってるらしいですよ」
「絶対流行ってないだろ。まあ私が女子高生かどうかの疑義は置くとして、それがどういう謎なの?」
「はい、実は」
「あ、ちょっと待って」
聞けば、こうだという。
「なんですか今の」
「慣例だから。謎に入る前の」
「今、私の地の文に入り込みませんでした?」
「いや、そういうの東京とかだと流行ってるらしいよ」
絶対流行ってないだろ。
よく分からないが、仕方がないので私は説明する。
聞けばというか、語る側なのでは?
*
昨日の放課後、3棟3階から階段を上がって屋上に出る扉の前で、一年の男子が制服からジャージに着替えているところに鉢合わせた。そそくさとその男子は立ち去ったが、折りたたみ傘を置き忘れていった。
昨日はその後、私は地学準備室を訪れて先輩から地学部の説明を受け、しばらく雑談した後に家に帰った。そして今朝、忘れ物の折りたたみ傘を返却すべく、一年一組から順番にクラスを回っていった。
どのクラスにも、あの男子はいなかった。
しかし、朝のホームルームの直前に登校してくる可能性だってあるから、時間差で見逃したのかも知れないと思って、昼休みも学年中を回った。
タイミングによって見逃すかもしれないから何度も回った。
やっぱり、どのクラスにもあの男子はいなかった。
どうやら、この県立流鶯高校一年に、あの男子は存在しないようなのである。
「今日休みだったとかじゃないの?」
「いえ、確認したのですが、今日欠席の人は三組に一人だけで、その人は女子です」
「朝と昼休みでたまたま両方教室にいなかったってことはあるんじゃない? 朝は遅刻ギリギリで、昼休みは即トイレに行ったとか」
「そう思って、昼休みは何周かクラスを回りました。午後の授業が始まる寸前まで廊下を往復してギリギリに戻ってくる人も監視したんです。でもいませんでした」
「それだけ教室を探し回って見つけられなくて、今日の欠席者というわけでもないのなら、確かに謎だね」
先輩は楽しそうに頷いて、再び椅子に座り、私も座るように促した。
「ただ、不思議ではあるけれど、それでもまだ単純な見間違いや見落としで今日は見つけられなかった、っていうのが自然な解釈になってしまうんじゃないかな」
「はい、私もそう思って、こうなったらと思って教卓の座席表も確認してきたんですが、やっぱりいなかったんです。どのクラスにも」
「名前を探したってこと?」
「はい、及川っていう名字なんです。あ、読み方は『およかわ』かも知れないですが」
「名前が分かってたのか。どうやって分かったの?」
「ジャージのここに書いてあったからです」
私は自分の腰を指さす。流鶯高校の指定ジャージは学年色にネーム刺繍入りなのだ。子供じゃないんだから名前なんて書かなくて良いと思う。そのやたら派手な色と相まって、着たまま下校させたくなくて嫌がらせのために入れてるんじゃないだろうかと思えてしまう。
「霧島さんよく見てるね。そんなの見えたの一瞬でしょ?」
「目に入ったので」
別に覚えるつもりはなかったのだけれど、忘れ物を返すことを意識すると名前は重要だと思ったのだ。
「しかし名前が出席簿に存在しないんじゃ、謎の度合いは上がってくるね。幽霊とかかな?」
「いきなり幽霊ですか」
「東京とかだと流行ってるらしい」
「地学部は幽霊まで守備範囲なんですか?」
「守備範囲だよ。ストライクゾーンだよ。地学部は全てだから」
「本当に全てなんですね」
「ゆりかごから墓場まで」
「幽霊、墓場より後ですけど」
「いやまあ、言いたいことは分かる。いきなり幽霊を持ち出さなくてももう少し現実的な範囲の可能性から考えた方が良いだろうね、常識的には」
「はい」
「例えば、この謎のエピソード自体が霧島さんの創作、とか」
「それ現実的なんですか?」
「地学部謎班への加入試験突破のために頑張って考えてきた……というパターンだね」
「加入に試験があるんですか。そもそも私、まだ入部と決めたわけでは」
「私がこの謎を解いたとき、霧島さん、君は入部することになる」
「試験が逆転している」
「他には、そのジャージは友達に借りたもので、霧島さんが目撃した男子は実際にはこの学校の生徒ではない、とか」
「それだと、教室で見つけられないのは説明がつきますけど、ジャージの持ち主の及川君が別に存在しないとおかしいですよ」
「じゃあ、男子だと思ったのは霧島さんの勘違い、実は及川さんは女子で、さっきの三組の一人だけの欠席者なんだ。だから今日見つけられなかった。昨日、及川さんは男子の制服で男装していて、そこから着替えてジャージに戻るところだった。何か事情があって男装していたから、だから隠れて着替えをしていた」
「いえ、欠席者も及川っていう名前じゃないですし、あれは男子ですよ」
「何でそんな自信あるの」
「立派な大胸筋でした」
「霧島さんよく見てるね。そんなの見えたの一瞬でしょ?」
「目に入ったので」
ううむ、と先輩は考え込んだ。けれど楽しそうだ。
「違う角度から考えてみよう。そもそも霧島さんがその男子を見つけた場所が不自然だよね。廃病院だっけ?」
「幽霊か」
「大胸筋がすごい幽霊」
「うわ」
「東京とかだと」
「絶対流行ってない」
「どこだっけ、廃病院。屋上の入り口?」
「はい、ええと、ここですね。いや廃病院じゃないですけど」
私は手帳を取り出して、学校の見取り図を指し示した。4階のページに、1棟と2棟は教室が並んでいるところ、3棟は屋上へ出る行き止まりだけが書いてある。
先輩のモサモサの頭が私の手帳を覗き込んで、変な声を上げた。
「ええ、これ何? 霧島さん描いたの?」
「そうです。昨日はこれを描いていて階段を上っていったんですけど」
趣味だった。自分の入った高校の全容をまず把握しようと、この数日は少しずつ校舎を歩き回って書きためていたのだ。
「うわ、すごいなこれ。手書きで? いやこの線は手書きだよね。自分で歩いてこれ描いたの? 地図作りの天才か? 歩く伊能忠敬?」
「伊能忠敬、歩いて地図作ってましたけど」
「おお、これすごいな、あ、視聴覚準備室ってこっち側にあるんだ。知らなかった」
先輩が大げさに感心するので嬉しくなってしまう。昨日も地図が趣味だとは先輩に言ったけれど、実際にこういうのを見せてはいなかった。
「いやぁ、こんなの描けちゃうのはすごいよ霧島さん。地図が趣味ってこういうことだったんだ。あ、地図と言えば、話変わっちゃうんだけどさ、私の中で三大『未だに解けてない謎』の一つの地図があるんだけど、霧島さんも地図を描くんだったら」
そう言って先輩は再び立ち上がり、バッグの中をごそごそと探って、ファイルを取り出した。
「昔、知らないお姉さんに」
けれど、そこまで言って先輩は急に目を剥いた。パチン、と手を片目に押しつける。もう片方の目は宙を睨んで、眉がギリリと歪む。
「ぐ」
変な声が先輩の口から漏れた。
「大丈夫ですか先輩?」
目が痛むのかと思って慌てて聞く。
「……あ、いや、あの、何でもない」
先輩がさっと目を押さえた手を離して、一瞬の逡巡の後に携帯を取り出す。携帯に視線を落としながら、
「ああ、ごめん霧島さん、ちょっと急用で……すぐ戻るから、ごめん、ちょっと待っててくれるかな。部室のものは自由に見てて良いから」
と早口で言って、私の返事も聞かずあっという間に地学準備室を出て行ってしまった。
急に静かになった。
なんだろう今のは。
やっぱりあの先輩はちょっと不思議だ。携帯に呼び出しがあったような感じでごまかしていたけれど、その前の目が痛んだようなあの素振りはなんだろう。謎の答えを出して貰えるかもと思ってここに来たのに、逆に謎が増えてしまった。
先輩がいなくなると、なんだか急に地学準備室が音を吸い込むようだった。通常の教室の半分ほどの幅しかない小部屋で、部の備品なのか学校の設備なのか分からない標本や図書の類いが雑多に並んでいる。手持ち無沙汰な私は、せっかくだし何か見るものはないかと見回すけれど、すぐに目に入ったのは先輩がバッグから取り出したファイルだった。グレーの薄いファイル。
これは先輩の私物だ。部室のものは自由に見て良いとは言われた。言われたけど、常識的に考えてこれのことを言っているのではない。
けれど、先輩が慌てて机の上に置いた拍子に、グレーの薄いファイルから少しだけ紙が飛び出している。そこに描かれている線に妙な胸騒ぎを覚える。
私は良くないことをしていると知りながら、その紙をファイルから引き出した。
取り出してみれば、それは。その地図は。
手帳のページに描かれた碁盤の目の地図は。
紛れもなく、幼い頃の私の筆跡で描かれていた。