2-10
月曜日。
放課後。
部室。
昨日の好天はやはり唯一のチャンスだったのか、じとじとと雨が降り続けていた。窓の外に見える景色には何の興味深いところもなく、晴れていればうるさいはずの運動部たちのかけ声も聞こえない。
部室の戸が開く。
戸が引かれるよりも前にドタドタいうやかましい足音がしなかったので、であれば、開けたのが誰かは考えるまでもなかった。
「原稿を書きました」
出雲泉水は一枚の紙を差し出した。A4版。私がいつも謎を奉納するときに書いているような、何の飾り気もない、ただの文書の打ち出し。
「これも、展示できないでしょうか」
*
読めば、こうだという。
水害碑とは違うが、この流鶯高校にも身近な水害を伝える遺構がある。それが、3棟3階の美術室の前の廊下の天井に取り付けられた目玉だ。
これは、かつて美術部に所属していた生徒による作品で、『泣かないで』という題名だけが美術部員に伝わっているが、一体なぜあのような場所に取り付けられているのかは、よく知られていない。私たち流鶯生にとってはあまりにも身近だが、いざ意味を聞かれると答えられない。そういう存在だ。
だが、実はこれも、この春島の水害の歴史を刻むもののひとつなのだ。
××年の台風12号による豪雨(水害碑4を参照)において、ここ流鶯高校を含む東区にも期間降水量500mmを超える雨が降った。浸水こそしなかったが、当時老朽化が進んでいた3棟では雨漏りが発生したという。雨漏りの跡というのは、天井板にかなり汚く残ってしまうもので、それに心を痛めた当時の美術部員が制作したのが『泣かないで』だという。跡を覆い隠し、廊下の色を明るくしてあげようという趣向で、その後3棟の他の部分の天井は改修されたが、美術室前はあえて作品をそのまま残してあるのだという。目玉の部分の少し手前に、古い天井板が見えているのが確認できる。
そこまでが印刷された文字で、その下に、入部届と同じほっそりとした筆跡でこう書き足されていた。
目玉を見たことがない来校者の方も、見慣れてしまったが意味は知らなかったという在校生も、この機会に3棟3階、美術室の前まで見に行ってみてはいかがだろうか。なお、美術室では美術部による作品展示も行われているので、そちらも是非訪問を!
*
……そうきたか。
確かに私も、あれはある意味でこの高校の水害碑だと思っていた。だから、よりにもよってそれを謎として出雲泉水が持ってきたときには、引きの強さに驚いたのだ。
しかし、そうはいっても展示のネタにするにはハードルが高く感じられた。まず事実確認をした方が良いだろうし、それよりなにより、美術部に無断でネタにしてしまうというわけにもいかないだろうと思った。わざわざ美術部に経緯を説明するという発想はなかった。
「美術部と話したんだ?」
「そこは、霧島さんにご相談したところ、話をしてくださいました」
それで最後のところは今日になって手書きでつけたしたというわけだ。宣伝もつけて流鶯祭での美術部の集客に貢献する形にしてやれば、向こうも願ったり叶ったりというわけだ。私は舌を巻いた。モンスターを手懐けたか。
また超えてきたと思った。真剣に出雲泉水が天井の目玉を剥がしにかかるのを心配していたのだが、随分と見くびっていたと思った。
この子はクラスメイトの名前も覚えていないし、学校をふらふらとうろついているし、会話していてもどこか上の空だったりする。超然とした吸血鬼は、常識とか社交性というものを持ち合わせていないのかと思っていたけれど、そうではなくて……。
「あの、どうでしょうか」
出雲泉水がこちらをじっと見ていた。
何のことを言われているのか、一瞬わからなかった。
琥珀色は、案外と細く揺れていた。
「いや、良いと思う。すごい。良い展示になるよ、ありがとう」
私の書いた最後の分とあわせて、霧島にうまいことまとめてもらおう。これは実際、本当に、きっと良い展示になる。
私だけでも、霧島だけでも、二人だけでも、きっと作ることは出来なかった、良い展示になる。
「私も参加出来て、嬉しいです」
きっと、これが彼女と初めて出会ったときの会話であったなら、全く嬉しそうには見えないぞと私は思ったことだろう。今では少しは見慣れてきて、琥珀色の双眸が嬉しそうに感じられる。流鶯祭の展示に自分も参加したくて、頑張ってこの原稿を書き上げたのだろう。短い記述だが、すでに完成しているパートの原稿も霧島から貰うか何かして参照し、丁寧に調べて書いたように見える。意気込みが感じられた。謎を解いて自己満足に浸りたいというわけでもなければ、謎を白日の下にさらして広く知らしめてやろうと考えているのでもない。太陽を必要とせずに輝く金髪が眩しくて、私は彼女から目をそらしてしまう。
落とした視線の先、もう一度原稿を見る。末尾に書き足された部分の筆跡に目がとまる。
達筆である。
すらりと細身のボディ。
どこか優雅なとめ・はね・はらい。
瀟洒な文字だった。
あの入部届と同じ。そこにどうしても目がとまる。私の目が、借り物の、謎を捉える目が、止まる。
そこに謎がある。
気配がある。
息遣いがある。
顔を上げると出雲泉水は表情を変えずにそこに立っている。空中に何か、捜し物をしている。彷徨う視線。昨日と変わらぬ制服姿。筆跡と同じく線の細い身体、しかし存在感を放つ黄金に輝く髪。さすがに校舎内では日傘を差してはいない。昨日と変わらず固定ギプスを肩から吊っている。
そこに目がとまる。
目を閉じるとあの入部届が浮かぶ。謎を探すため、特別を探すためにと彼女が提出してきた入部届。そこに書かれていたプロフィールを読み直す。重要な個人情報が書かれている。
住所。
電話番号。
好きな食べ物。
得意科目。
利き手。
出雲泉水は、左利きだ。その左腕は、ギプスで痛々しく固定されている、ように見える。
解くべき謎だ。次の問題だ。
だってそれは、昨日会ったときにも不思議だとは思った。吸血鬼というのは、元は動く死体だ。つまり不死だ。骨折なんか、しないだろう普通。治癒能力があるはずじゃないか。それが骨折してギプスをつけている。変だとは思ったが、そういうものなのかと流してしまっていた。しかし、今日は、左手でこの文字が書けている。左利きだというのは間違いなく本当だ。ファミレスでわざわざ私の方に回り込んで座った。食卓で右利きの人間の右隣に座ると左手がぶつかるからだ。あれは骨折した左手を庇ったわけではなく、普段から身体に染みついたからこそスムーズに出る、左利きの人間の習慣的な動きだ。では、左利きだが右手でも文字が書ける可能性はあるか。矯正されたりして右手でも書けるという人はいると聞くけれど、この筆跡は入部届の時と同じクオリティのように見える。それに、昨日の川辺で、どうしても聞き取れない前の学校の名前を書いてくれるように頼んだとき、出雲泉水は左手を出しかけてやめ、難しいと言ったのだ。右手では上手く書けないのだ。そうだとすれば、この原稿の最後の部分を書いたのは左手だ。今はあの左手は、それらしく吊られているが、折れてはいない。だが、昨日は折れていたはずだ。そもそも昨日の時点で折れていなくて、最初からずっと折れたふりをしているというのは意味がよくわからない。それだったらそもそも偽装する必要がない。木から落ちたところは私しか見ていないし、そのときに骨折は確認していない。日曜日に会って初めて骨折を知ったのだ。初めから骨折していないのなら、木から落ちたけど運良く無傷でしたという設定で十分押し通せる。一方、昨日は折れていて、今日は折れていないというのなら、昨日の続きでまだ折れているように偽装するのは意味がある。一夜にして骨折が治ったら、それこそ普通の人間ではありえない。私や霧島に怪しまれてしまう。いや、私は別にもう怪しまないかも知れないけど……。ただ霧島もいるのだし、だから、昨日の続きで骨折を偽装しているパターンの方が自然だ。
昨日は折れていた。今日は折れていない。
なぜだ。ここに謎がある。解くべき謎がある。
「あの、部長さん」
出雲泉水は言う。
「私、実はもう一つ気になっている、目の話があるのですが」
目の話。終わったと思った。
「部長さんの言うとおり、直接聞いて確認するのではなくて、謎解きをしてみようと思います」
琥珀色の視線が私の脳をぐらつかせる。
終わっていないかもしれない。
「そうだね。私も頑張って謎を解くよ。それも地学部の活動だ」
雨はまだ降っている。どれだけ降るか、本物ではない私には、想像もつかない。
第2話『吸血鬼はなぜ目玉の謎を白日の下にさらすのか?』完
■参考文献
藤本理志・小山耕平・熊原康博 (2016). 広島県内における水害碑の碑文資料. 広島大学総合博物館研究報告 Bulletin of the Hiroshima University Museum 8: 91-113.




