2-8
チャンスは帰り道に転がっていた。
帰り方角の違いで、そのままJRに乗って帰る霧島に対して、私と出雲泉水はアカトラに乗り換える。日曜日の夕方、家に帰る人々が程々に乗っていて、混んでいるとも空いているとも言えない。だから決して、二人きりというわけではないのだけれど、霧島がいなくなると急に会話の総量が減るので、二人になったというのがやけに意識された。コミュニケーションモンスターという触媒がなくなると、琥珀色の瞳ふたつがやけに眩しく見えて、落ち着かない。心なしか、出雲泉水がさっきから私の方をうかがっているように思える。考えすぎか。
地下ホームから地上に出て、窓の外からくすんだ夕明かりが差し込んでくる。
今日は結局雨は降らなかった。本州付近は高気圧に覆われている。けれども今夜遅くには低気圧が東シナ海に進み、大気の状態はまた不安定になる。梅雨の中に一瞬だけ、神様がくれたチャンスだったのかもしれない。
ここしかないと思った。
ここしかないと思ったが、ここで良いのか? 姉の声が聞こえた気がした。いやいや、普通に金曜日の事故について釈明するという話なのだから、愛の告白ではないのだから、ラブではないのだから、ムードとかは別に気にしなくて良いんだ、電車の中で良いだろう。電車じゃないな。なんて言うのが良いんだ。新交通システムの車両の中。回りくどすぎない? 春島新交通1号線の車両の中。長い。大体2号線いつまでたっても出来ないのに1号線名乗らなくて良いだろ。トラム。言わないだろ。じゃあもう電車でいいだろ。何を無駄な思考で時間を稼いでいるんだ。早くしろ。
「あの」
二人でほとんど同時だった。さすがに気まずい。吸血鬼は気まずそうには見えない。
「あの」
もう一度言ったのは、出雲泉水の方だった。
「あの、部長さんにお話ししたいことがあるのですが」
「あ、うん」
「目の、話なのですが」
終わったと思った。
*
聞けば、こうである。
3棟3階の美術室の前の廊下の天井に設置された大きな目玉の謎。
出雲泉水は学校内を徘徊している途中でそれを見つけ、大いに不思議に思ったのだという。天井に取り付けられた、薄い板にペンキのような塗料で描かれた派手な目玉の模様。
それは鳥避けの模様に似ている。しかし校舎の廊下の天井で鳥避けというのは意味不明だ。
それは隈取りの防犯ステッカーのデザインに似ている。しかし校舎の廊下の天井で防犯というのも意味不明だ。
目的がわからない、大きな目玉。何か特別で、謎。
「確かに不思議だよね、あれは」
目の話などというから、私はてっきり、金曜日に出雲泉水が木から落ちてきたときに垣間見たであろう、私が話していた相手のことかと思った。全然そうではなかったので、終わってはいなかった。かなりほっとした。そのほっとした様子が、出雲泉水にも伝わったかもしれない。
「あの、部長さん、あれがわかるのですか」
吸血鬼がこちらを向いている。
「ああ、まあ。この間の霧島風に言うと、もう解いたから安心していられる」
だって、あの目玉はめちゃくちゃ目立つ。ド派手で、ド悪目立ちする。真っ赤なロードスターと金髪美少女吸血鬼の組み合わせくらいド目立つ。どう考えても気になるし、だから、去年のうちにその謎は解いている。
「っていうか、話って、それ?」
「そうですが」
お前は何を言っているんだくらいの態度だった。私は、何でそんな話をわざわざ帰り際に呼び止めてまで話すんだと思ったが、すぐに理解した。
これは謎なのだ。
謎班の活動ということか。
出雲泉水は今日、地学部の活動だと呼び出されて、てっきり謎班の活動だと思っていたから、この謎を携えてきた。それなのに謎の話に全然ならないし、私も霧島も、やたらと地学部らしい活動をしているから、それに驚いていたということか。
それがわかったら急に笑えてきた。変な緊張がほどけて、怪訝な顔でこっちを見ている吸血鬼が急に愛らしく思えてきた。
「わかったわかった、私が悪かった、そうだよ、謎班の活動だ。しかし、よりにもよって今日、この場にそれを謎として持ってくるなんて」
と、私たちの乗った車両が古町駅に到着する。単に車両と言っておくのが一番楽だ。
「出雲さん、ここで降りるんでしょう? 私も降りる。もう少しその謎の話をしよう」
*
美術室の前だからまず普通に考えたと思うけれど、あれは元は美術部の作品だよ。十年くらい前の。姉が同じ高校だったんだけど。私の五つ上。姉が入学したときにはもうあったって。そのさらに一回り上の先輩が作ったらしい。
で、どういう意味の作品なのかというと、美術部には伝わっていない。聞いてみたけどね。知らないってさ。自分たちの美術室出てすぐの天井にあれがあって、意味を考えないって、異常だと思わない? 普通、気になるでしょ。なんか、気にならないらしいんだよね。芸術家って変わってるよね。まあだから、聞き込みで意味を調べることは出来なかった。
でも作品名はわかった。『泣かないで』、だってさ。やっぱりあの模様は目玉らしいなということはわかるけれど、あれだけギョロッと睨んでおいて泣かないでっていうのは妙な話だ。芸術家ってやっぱり変わってるよ。
ああ、そうだね。確かに姉に聞けばその時点で答えはわかったかもしれないんだけど……。姉はそういうのを、よく知ってるというか、わかったりするから……。まあ、私は聞かなかった。謎は自分で解決したいからね。
それで次に何を考えたかというと、生徒側に手がかりなしならば、体制側、学校側、教師側ってことで。
おかしいと思わない? あんなものが廊下の天井に貼ってあるって、いくら美術室の前といっても、普通は認められないでしょう。
……あれ、この感覚伝わらないかな。うちの高校だとほら、例えば部活の勧誘の掲示物とかも、生徒会の掲示許可が必要だったりするんだけど。そうそう。いや、生徒会が強いって、権力持ってるとかでなくて、純粋に手続き上のもので、学校側がルールの大本だよ。え? そんな漫画じゃあるまいし、生徒会にそんな権力とかないでしょ。出雲さんの前の学校にはあったんだ。なんて学校だっけ? え? 今なんて言った? うーん……。それってどんな字を書くの? 学校の名前、ここに書いてもらっても良い? ……ああ、ごめん、その手だと難しいね。じゃあやめよう。まあいいや、それはまた今度の話として、そうそう掲載許可の話ね。もう落ち着いたけど、四月なんかは、どの部も派手に勧誘したくてたまらないわけだよ。もう1枚でも多く勧誘ポスターを貼りまくって貼りまくって、貼りまくって、ともかく貼りまくりたいわけだ。飢えた獣だよ、私たちは。でも、そういうのが変にエスカレートしないように、貼れるポスターの枚数とか場所は決まってるわけ。
そういう学校なのに、あの天井には目玉がある。
おかしいでしょう? 普通はあんな作品、認められないよ。アートだという主張で通るなら、他の部だってみんなアートを主張して宣伝しだすよ。私は天気予報サービスだって言って天気図を貼りまくろうかな。霧島の地図作品もオマケについてくる。
だからあの目玉は、何らかの理由で学校に認められている存在だということだよ。これがヒント1。
ということは、美術部の顧問の先生とかに聞けば、正解がわかるかもしれないけれど、そういう風に正解を聞いて教えてもらって終わりというのは面白くないから、私はもう少し調べて考えることにした。受験勉強じゃなくて、アルバイトじゃなくて、部活動だからね。答えに近づく最短ルートを選ぶ必要はない。
なぜあの目玉は学校に認められているのか。認めるに足る価値や、理由があるのか。
芸術的価値でないことは確かだ。私に芸術の素養はないから、もしかしたらあれは芸術作品なのかもしれないけれど、学校がその存在を認めているのは芸術的価値に由来するものではない。それはわかる。だってあの目玉、ハッキリ言って愉快ではないでしょ。あれがあそこにあっても。
では何か機能があるのか。私も出雲さんと同じことを考えたよ。鳥避け。いやいや室内の天井に置いて意味はない。防犯。いやいや学校の廊下だぞ。
行き詰まったら足で稼ぐ。改めて3棟3階で目玉を観察した。目玉は、というか目玉が描かれている板は、一辺が廊下の幅と同じだけの正方形。薄い板で、天井との間に隙間は見えない。落ちてきたら危ないから、多分しっかり接着されているんだろう。しかしこういう取り付け方を見るに、ははん、わかってきたぞ。……あれ、わからない? つまりあの目玉は、ああして天井に張り付いていることで、学校にとって存在を認めるに足る価値があるんだよ。
一度ひらめいたら、あとはその仮説を検証する作業だ。周囲の天井を調べた。
ヒント2。3棟3階の天井は、西側だけ新しい。美術室のある東側は古い。
まあ言葉で言われてもわかりにくいよね。写真なんて撮ってないから、見せようもないけど。明日見てみたら良いと思うよ。でもヒント3は今ここで見せられる。
ヒント3。こうして地図のモードを衛星写真に切り替えてみる。本当にこのアプリ便利だよね。ほら、うちの学校の屋上を空から見たとき、3棟だけが綺麗に整った灰色をしている。1棟と2棟は汚れというか、痛んだ黒い線がたくさん走っているね。そう、3棟の屋上防水は、比較的最近に補修工事がされている。
ヒント4。十年前に、春島は豪雨を経験している。さっきも言ったように土砂災害を経験したのは一部の地域だけで、流鶯高校を含む市内中心部は被害は出ていない、ということにはなっているけど、土砂災害の被害が出ていないというだけだよ。雨がたくさん降ったら、うちみたいなボロ校舎では、多少の被害は出る。
ヒント5。うちの校舎はオンボロ。県立高校には予算が全然ない。
そう。あの目玉は、天井の雨漏りの跡を隠すためにあそこに取り付けられている。
美術部の芸術家は、汚い雨漏り跡が残ってしまった天井を隠す善意であれを作って、もう雨漏りしないようにっていう意味で『泣かないで』なんて名前をつけた。そのセンスにはかなり疑問があるし、あれに一般人には理解できない芸術的価値があるのかどうか、少なくとも私にはわからないけれど、万年金欠の我が校は、そこに経済的価値を見いだした。あの作品の守りを良いことに、3棟西側の天井の張り替えを省略したんだ。東側は綺麗にやり替えて、屋上防水もやり直したけど、西側の天井は古いままにした。さすがに腐ったりとかしないような処理くらいはしてあるんだと思いたいけれども。まあ、確かにわざわざあの目玉を外して西側の天井を綺麗にするお金があるんなら、先にあの地獄みたいなトイレを綺麗にして欲しいって、出雲さんもそう思うよね。