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駅から降り立った私たちは、案内板の地図で行く先を確認した。バス乗り場に置かれた地図はかろうじて日除けの下にあったけれど、ここから一歩踏み出せばしっかりと夏の日に焼かれることだろう。まだ踏み出していないのに汗が染み出してくるようだった。
「ええと、とりあえず川渡るんですよね。このあたりでしたっけ?」
コミュニケーションモンスターが指さす。
「多分ね」
私は言いながら携帯を取り出して、アプリの地図と照らし合わせた。目的地はアプリに保存してある。最近ちゃんと使い始めたけれど、本当にこれは便利だ。衛星写真も見られるというのが気に入っている。
「ああ、二本とも渡ってから右ですね! あれ、こっちに神社ありますね」
コミュニケーションモンスターがぬっと横から覗き込んでくる。近い。でかい。暑苦しい。吸血鬼は一歩引いたところで中空を眺めている。今日に関しては日傘を持っていて正しい。黒いレースの瀟洒な日傘。対照的に白くて、一瞬ぎょっとしてしまうギプスとそれを吊る三角巾。あれも暑そうだなと思うけれど、彼女が汗をかきそうにも思えない。
「神社まで手を広げるとちょっとなぁ」
震災では、神社もまた、津波で沈まないところに立っていた、と語られたりした。この地図で見ても、川の屈曲具合からこの神社は明らかに水に浸からない高台に位置しているのだろうと知れたけれど、それを扱い出すとちょっとバイアスが入ってくる。歴史を伝えようとしている碑とは違って、単に沈まなかったからまだ残っているだけで、沈んだ神社もあったかもしれないからだ。そこにはメッセージはない。通りすがりに眺めるくらいでちょうど良い。
湿った暑さの中を歩くこと十分ほど。じっとりと汗ばむ不快感の中、どうにかここまでの失敗を取り戻す方法がないかと考えたが、何も思いつかなかった。何かの拍子にコミュニケーションモンスターがどこかに行って、出雲泉水と二人きりになれたらなと思う。でもそんな展開にはなりそうにない。仮になったところで、私はそのとき何と言うのだろう。何と言うべきだろう。その難題の答えを思いつく間もなくたどり着いた現場には、小さな社と、大きな石碑があった。
ギラギラと眩しい日差しを吸収する石碑は、触ったわけでもないのにしっとりと冷ややかだった。
「水害之碑」
見上げた石碑の上部にそう書かれている。つぶやいた私の声は、じっとりと疲れた響きを持っていて、これはいけないなと思った。
「いつもながら、そのまんまですね」
コミュニケーションモンスターがカラリと言った。
「そりゃそのまんまだろうなぁ。難しいレトリックを使われても、伝えたいことが伝わらなくなったら意味がない」
「なるほど。確かに先輩の言うとおりです」
下の立派な台座を含めなければ2メートル強くらい、含めれば、地面からは3メートルくらいあろうかという大きな石碑だ。頭のところに水害之碑と横書き(左から右へ)され、その下には碑文が書かれているが、漢文だ。いきなり最初から、「明治」のあと、多分これ、ひのえうまとかの、干支のあれだけど、なんて読むかわからない。
そう思うと、伝えたいことが伝わらなくなったら意味がない、というのが急におかしく思えた。いま私には、この碑のメッセージは伝わっていないじゃないか。
わざわざ電車まで使って最後にここを取材することにしたのは、この石碑が最も大きく有名で、かつ、古かったからだ。建てられたのは明治だという。学校の近くの小さな石碑なんかは、とりあえず現代の日本語だったから、古びてはいても何が書いてあるかはわかった。けれどこれは、てんでわからない。それだけ時代が離れれば仕方ないということか。
「えー、明治丁未の夏、秋霖日を連ね、県下大水あり」
コミュニケーションモンスターが目を細めながら読み始めた。
「……え?」
「就中、苅田郡、萱野、松田、浜村、太甚たり。萱野村、岡阜の間にあり、渓流の二派、貫き、南北に通ず。本川と言い、西川と言う。しかるにその最も害を為すは、本川なり」
すらすらと読み上げる。
「霧島なんでそんな読めるの」
そう言うと霧島がパアアっと顔を輝かせた。
「先輩!」
本当に顔が発光していた。特殊な化粧品とかだろうか。
「呪いが解けて人間に戻った野獣の気分です」
「コミュニケーションの呪いが解けたか」
ピカピカして眩しい。
「お褒めいただき光栄です。私もっと読みます。ここで命果てるまで読み続けましょう」
「果てるな」
「七月十五日昧爽、迅雷甚だ雨ありて、本川暴漲し出て、雨、岸に駕り、時に人なお蓐中にありて、衆を鼓すること能わず、もって積灰す、故をもって横流縦勢の触れるところのもの、覆没せざるなし……ですかね」
霧島は苦も無く読み上げる。どうやら成績がめちゃめちゃ良いらしいという情報があったが、こんなところでそのスキルを見せつけられるとは思っていなかった。ですかね、なんて言われても合っているのかどうか判定できない。多分合っているのだろう。
「どういう意味なの?」
「夜が明ける前に本川が氾濫して、まだみんな寝ていたので逃げられなくて、全部沈んでしまった、みたいなお話ですね……恐ろしい……」
霧島は悲しそうに目を細める。
「これだけ立派な石碑を建てるくらいだから、さぞ大変だったし、残したい教訓なんだろうね」
翻訳してくれる霧島がいなかったら私にはその思いは伝わらなかったわけで、なかなか難しいところではある。
「いやでも、本当にすごいな。霧島がいなかったら写真撮って持って帰って辞書引いてってやってたと思うと、大変な話だよ」
「パアアアアアア!!!」
またニコニコしている。忙しいやつだ。
「口で言うな」
「あんまり褒めると色々なものがでますよ」
「でるな」
「体中の穴という穴から」
「塞げ」
「この身の水分が果てるまで」
「果てるな」
一通り写真を撮り、霧島の解説をメモに書き留めて、現地調査は一段落。これはやはり、漢文の迫力ある描写を上手く説明してやるのが良いだろうなと考える。これくらい昔から水害は繰り返されてきたし、警鐘はずっと残っているのだと、伝えてみよう。
しかしそこで吸血鬼は、これまで黙っていた吸血鬼は、ぼんやりとあたりを見回して、日傘をぐるりと回転させて、つぶやいた。
「あの、その本川って……これですか?」
「うん。本川。今の名前は萱野川」
萱野橋、と書かれた橋の架かった小さな川。川幅は10メートルに満たない。川底から道路までは目視で3メートルほど。水は底の方をわずかに満たすだけで、ゆっくりと流れている。
「これが、溢れるのですか」
「溢れる。溢れるし、溢れるというか、そんな生易しいものじゃなくて、もうここ一体が全部土砂に飲まれたっていうことだろうね」
「土砂……」
吸血鬼は納得いかない顔で周りを見回した。
「どこから……」
確かにここから家々の隙間に臨む山地は、そんなに近くないように見える。この出雲泉水の反応は、まさにこの企画が必要とされていることを示している。
「想像つかないよね。私も正直、想像はつかないよ。けれど、想像がつかないことだって起こりうる。なんだっけ、霧島、さっきの」
「えー、本川、源を東南山間に発す。幅員数弓、平時潺湲の流れ、わずかに踵を没すべく、誰が一朝にかくのごとき大害をなすと思わんや。観る者をして、水害の測りがたきを驚嘆せしむ」
普段は踵が浸かるほどの浅い流れが、翌朝には大洪水を引き起こしている。全く想像のつかない事態だ。
「ほら、地図で見るとこんな感じでこの川は流れている」
私は携帯で地図を表示した。出雲泉水の方に画面を示してやると、彼女は手を差し上げて私に近寄る。すっぽりと日傘に私と吸血鬼が包まれた。
近い。近いけど暑苦しさはない。むしろひんやりとしている。日傘の効果だろうか。吸血鬼って、人より体温が低かったりするのだろうか。
画面を衛星写真に切り替えてやる。
「こっちを見ると、意外とすぐに斜面だし、ほら、もうこのあたりは山地でしょ。というか、平野部をギリギリまで切り詰めて頑張って住宅地にしている、というのが正しい。この石碑が建った頃は、山の切り開かれ方はまだ少なかったから、余計に」
吸血鬼が画面を覗き込む。左腕はギプス、右腕で日傘を差し上げると変な体制になる。近い。そうはいってもやっぱり暑くなってきた。
「ゲレゲレゲレゲレ!」
霧島が咆哮を発した。慌てて私は傘の外に出る。
「何だコミュニケーションモンスター、お腹が空いたのか」
「ボロンゴボロンゴ」
霧島のコミュニケーション力が致命的に低下していた。熱中症だといけないので持っていたペットボトルの水を渡した。霧島はニヤつきながらそれを一口飲んだ。
「いやまあそれで、私も自分では経験が無いから、偉そうなことは言えないけど、ただこういう水害って、コンクリートのなかった昔のはなしっていう訳ではないよ。県内でも、十年前に集中豪雨があったよね。局地的だったけど土砂災害も起きている。決して、起きないってわけじゃないからね」
十年前の豪雨について、私はよく覚えていないが、姉がその雨のことを話してくれたことがある。とても気色の悪い雨だったそうだ。
「幸い現代では、科学の力で、そう、それも地学だ、地学の一つである気象学で、降雨はある程度までは予測できる。豪雨の際に危険な地域もそれなりの程度までは予測できる。避難を呼びかける手段もたくさんある。明治時代と比べたら段違いだ。それでも、避難が遅れて助からない人がいる。だってここが浸水しますって、想像つかないもんね。でも、想像つかないけどほら」
私は印刷したハザードマップを取り出して示す。私たちが立っているこの場所こそ白色だが、一本道を違えれば浸水の色がつき、もう一本中へ入れば土石流の警戒区域が示されている。
霧島は急に人間に戻って、深刻そうな真面目な顔をしていた。吸血鬼は無表情で日傘を回転させた。
「まあ本来はハザードマップが一番だけど、なかなかみんなこの地図を眺めてはくれない。知るきっかけとしてはこういう水害碑も有意義だ。というわけで今回の企画なわけ。どう? 廃部条件を緩和する温情が得られそうな、良い企画でしょ?」
吸血鬼が日傘をもう一周させてから、言った。
「かなり……地学なんですね」
「お前は地学部をなんだと思っているんだ」
本当に地学だとは思っていなかったので、みたいなことを出雲泉水はつぶやいた。地学部なんだから地学の話をして何が悪いというのか。
けれど、顔を上げて言う。
「その展示に使うものは、もう出来ているのですか」