0-1
「どうして鏡に映る像は左右がひっくり返るか、知ってますか?」
霧島四方子は唐突にそう言った。
私は窓の外の暗い空を眺めていた。晴れていたらやることがあるというわけでもないが、雨が降っていればなおさらやることはない。
「……先輩、聞いてます?」
私の目の前に、ぬっと手鏡が差し出される。
湿度にやられた髪をもさもさと爆発させて、眠そうな目をした女子高生と目が合う。人格に問題がありそうな顔だな。
「光を反射するからでしょ」
手鏡を押しのけると、角度が変わって私の後ろに立っている後輩の姿が映り込む。
「フフフ……」
鏡の中に仁王立ちする後輩は、なにかおもしろい話がしたくてたまらない様子だ。私は別にしたくもないのだが、この子を止めることはできないともう知っている。
霧島四方子はこの地学部に唯一入ってきた新入部員である。噂話が大好きで、浮いた話が大好きで、ともかく人と話すのが大好きで、人間も大好きで、覗き込んでも悪意というものが見当たらない。良いやつであり、愛すべきバカだ。
「それですよ。先輩。誤謬。誤謬ですよ先輩」
霧島は一言話すたびに地面から数センチ浮き上がっているようなテンポで喋る。もう少し地に足の着いた人生を送ってほしい。
「はあ」
「いま先輩の頭のなかにあるものを絵にするとこうなりますね?」
テキパキと霧島が手元の手帳に描いた図は、入射角と反射角が同じになるという、あれだった。
「これを鏡の向こうに伸ばせば、右側の物体は鏡の右側に映る、だから左右反対だ、と」
「……うん」
実際そこまで考えて答えたわけではなかったけれど、なるほど図で示されれば確かにそうだと思った。
「誤謬です」
「お前誤謬っていう言葉を最近覚えて使いたいだけだろう」
「ちょっとフランス語っぽいですよね? ゴヴュー」
「フランス語っぽくないよ」
「ゴヴューを犯しながら」
「お前は馬鹿なのか教養があるのかわからないな」
「何が誤謬かというとですね、先輩」
また私の目の前に鏡がぬっと差し出される。私はまた自分の顔とご対面する羽目になった。自分の顔が特別醜いと思ってはいないが、特別美形だとも思っていない。自意識の旺盛な平均的女子高生としては、自分の顔とそれほどの頻度で対面するのは御免被る。
「なぜ、左右は逆になるのに、上下は逆にならないのですか?」
鏡の中の仏頂面は、確かに左右は逆だけれど、上下は逆じゃない。
ううん? 私は鏡を覗き込む。
*
「吸血鬼って、鏡に映らないって言いますけれど、あれはどういう機序なんでしょうか」
吸血鬼。
「これはまたずいぶん唐突な話題だな」
「鏡に映らないんじゃ、身だしなみとかどうするんでしょうか」
「吸血鬼って生まれつき美形だから大丈夫なんじゃないか」
「寝癖でもかわいいみたいなやつですか? 先輩の髪型もそうなんですか?」
「先輩の髪型はそうではない」
「もさもさしててかわいいです」
「これは鏡に映っても直せないんだ」
「もさ……」
「もさるな。寝癖と言えばお前のそれだってどうなんだ」
「このアホ毛は狙ってます。毎朝セットしてます」
「重大な告白をするな」
「鏡に映らないということは、例えばカメラにも映らないんでしょうか?」
「鏡が入ってたらだめか。鏡入ってるのか?」
「ミラーレスなら大丈夫でしょうか」
「ミラーレスってそういう意味なの?」
「吸血鬼とはマジックミラーを活用したプレイはできないんでしょうか」
「鏡に映らなくて困るのは外側だから内側なら問題ないんじゃないか」
「先輩? さっきからそうやって窓の外を見てますが、この窓もマジックミラーなんですよ」
「そっと肩に手を置きながら意味不明なことを言うな」
「マジックミラー地学準備室です」
「マジックミラー地学準備室ではない」
「私まえに吸血鬼の本を読んだことがあるんですが、吸血鬼って結構変身とかできるんですよ」
「話を本筋に戻すなら私の腰から手を離せ」
「コウモリに化けたり、煙になって密室に入り込んだり。あと真の姿はぶよぶよした血の塊だったりするらしいです」
「身だしなみも何もあったもんじゃないな」
「だから鏡に映らないっていうのも、映らないほうが正しいんじゃないかなって思います」
「実体がない、と」
「はい。もともと存在しないから鏡に映らないのは当たり前で、むしろ私達がその存在を視認していることのほうが、彼らの術みたいなものに騙されているという」
「鏡越しだと人間を騙せないんだ」
「それで、うちのクラスに吸血鬼が来たんです」
霧島は突然言った。風が少し強く吹いて、窓に雨を瞬かせた。
「出雲泉水っていう転校生の子なんですけどね。転校生なんです。まず高校一年の6月に転入してくるっていう時点で、もう特異であることは明らかなんですけど。絶対特殊キャラじゃないですか。その子が吸血鬼なんです」
「ぶよぶよした血の塊なの?」
「いえ、現代的なやつです」
「のじゃロリなの?」
「偏った現代ですね」
「おじさん?」
「ミーム汚染をやめてください」
「吸血鬼だってどうやってわかったの」
「例えばですね、高校生なのにこんなでっかい日傘を差しています」
「高校生が日傘なんて差してたら目立っちゃうね」
「こんなレースついた、黒いやつですよ、ほら」
「生地のイメージを示すために自分の下着を見せなくてよろしい」
「高校生がこんな……ねえ、どうなんですか?」
「お前がどうなんだよ」
「あとですね、体育の授業もろくに受けてません」
「私もあまり受けてないが」
「先輩も吸血鬼だったんですかぁ!?」
「なんで嬉しそうなんだ」
「がぶってしていいですよ、先輩なら」
「しないよ」
「ほらほら、遠慮なさらずに」
「人間の血とか、生臭そうじゃない?」
「じゃあ私ががぶってしていいですか?」
「やめなさい」
「ほら、外にいるの、お友達だよね?」
「マジックミラー地学準備室ではない」
「それで出雲泉水さん。金髪で、瞳も金色。肌すごい白くって、私は見たことないんですけど笑うと八重歯が尖ってるって」
「話を本筋に戻すのなら私の肩から口を離せ」
「そんな子で、クラスでも友達作ろうとか全然しないみたいで。いつも一人で。みんなに吸血鬼だなんて噂されてるんです」
「ちょっと変なやつなのかな」
「先輩にちょっと変なやつとか言われたら詮無いですね」
「ああ?」
「ごめんなさい、詮無いって言葉を覚えて使ってみたかっただけです」
「憤懣やる方ないわ」
「面目ないです」
「言葉がないな」
「立つ瀬がないです」
「……いや、もうないよ」
「勝った!! 先輩に勝った!!」
「そういうゲームじゃないぞ」
そういうゲームでないことだけは確かだけれど、じゃあどういうゲームなのか、この地学部がどういう部活なのか、検討していたらそれだけで日が暮れてしまうし、部室代わりの地学準備室(マジックミラー地学準備室ではない)での時間の過ごし方として、結局の所こういう雑談以外のものを持ち合わせていない。もうほとんど部室に顔を出さない三年生が抜ければ、部員は二人だけになって部活として認められなくなるらしい。
と、私は良いことを思いついた。そんな変なやつがいるなら、取り込んでしまうというのはどうだろう。転入生だというのなら、部活もまだ入ってはいまい。そういう可笑しなやつ、私は好きだぞ。
「そうだ、その吸血鬼、勧誘するか」
「……この部活にですか?」
「声低すぎるだろ、なんだそのテンションは」
「せっかく先輩と二人きりなのに」
「怖いからその声で言うのやめて」
「せんぱいせんぱいせんぱいせんぱい」
「怖い怖い怖い!」
「ん」
霧島はカーディガンの胸元から携帯を取り出した。
「今どこから出した?」
「……ちょっと友達が倒れて保健室に行ってるみたいなんで。様子見てきます」
「あ、うん」
霧島は急に真面目な表情で立ち上がる。多分その年の割に豊かな胸元から携帯を取り出すというのは予め仕込んでおいたボケなのだが、深刻なメールが来たせいでボケにならなかったらしい。
「すみません。このネタはあとでもう一回やるんで」
「やらなくていい」




