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スガノ神霊譚  作者: 弱酸
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零章

 吹く風未だ寒々しくも長きに渡る冬の沈鬱ちんうつな曇り空から解放された四月下旬の頭、月曜日の朝、語り手として参上奉った僕、幸塚さいづか高校一年生川霧結(かわきりゆい)は、そんな季節の調子に四分の一周期分遅れたような顔をして、青緑色のペンキと赤茶けた錆がまだら模様に彩る、昭和の匂いがムンムン漂う色落ちの激しいホーロー看板の貼られた屋根の下で、これまた月日の流れを感じずにはいられないほどに腐食しきった木製のベンチに腰掛けながら、学校行きの市営バスを頬杖ついてずっと待っていた。

 時々左右から往来する自動車のタイヤがアスファルトをこする音がドップラー効果によって寂しく止んでいく様を愚鈍な両耳で感じ取りつつ、これから約三年にも及ぶ高校生活と呼ばれる代物が果たして僕の八十年ほどの僕の人生において、どれだけの重要な意味を孕んでいるのかを想像している。

 僕にとっての「青春」の二文字はある意味で、そんな車のドップラー効果と似たような意味を持っている。いつから始まったのかはどうも検討つかないわけなのだが、しかし気づいた頃には確実にそれは始まっていて、動き出していて、そこから山を駆け上がるように全速力で青春の頂を駆け上がり、さあ上りきったかと思うと、今度は登った時と同じ速度で、青春は急速に過ぎ去ってゆく。時も過ぎれば、青春は青白く霞んで見える遠景の山となっている。

 ――まあ、こんな人生訓は二十年にも満たない僕のスカスカな人生から得られたものではなく、母親からの受け売りだ。

兎にも角にも、なにが言いたいのかといえば、青春のピークというのは、ちょうど高校生の頃だということ。指標を立てるならば、青春の始まりというのは、制服初々しい中学一年生あたりから始まり、大人の気が少しばかり混じり始める大学生の頃には終わりを迎える。つまり、高校時代というのは、青春の大絶頂期いうわけだ。

 ところが、だ。

 中学生活を全くもってゴミのように過ごしてきた僕にとって、これから本格始動する高校生活には、一抹どころか百沫も千抹もの不安しかない。地面を這いつくばるナメクジのような中学三年間を、全てチャラにしてしまえるほどの高校生活を、青春を、僕は果たして送れるのだろうか?

 高校生活を謳歌することが、とんでもなく険しい崖を登るように映る。

「はぁ……。青春かー……」

 考えあぐねた末に思わず、つまらない独り言を呟く。

「そうだなぁ。神様が何かとんでもない才能の一つや二つでも僕に与えてさえしてくれれば、そうすれば高校生活も色々と楽しくなる筈なのに」

 神というのは結構不公平な存在だ。いや、当たり前か……。

 非があるのは、全面的の僕の方だ。三年間をドブに捨てたのも同然の僕に偉そうなことを口走る資格なんてのは鼻っからないのだから。


 そういえば、「神様」といえば、僕は只今親戚、詳しくは母の弟が守っている実家の神社に下宿させてもらっている。沖玉宮おきたまのみや神社とかいう神社で、川霧家は古来より長きにわたってこの神社を守ってきたのだとか。祭ってる神様は……、えーっと……、あまり聞きなれない神様なので忘れてしまった。女の幼い神様ってことは覚えてるけれど、僕はそれ以外の一切何も知らない。

 それにしても、実家に下宿とは、血の繋がった身内であるにもかかわらず、随分とよそよそしさを感じるものだ。無論、そのことは僕が思っていると言うだけで、実家の人たちが僕のことをどう思っているかは知る由もない。

 僕の身勝手な思い込みに過ぎない。

 そもそも、僕に親戚がいるなんてことを母親から知らされたのは、中学卒業後の進路を決められないでいた中学三年生の夏。日曜日の夕飯の頃だった。


 僕と同じく、いつも何も考えてなさそうな顔をしている母親が、大椀に盛られたそうめんを前にして、いつになく真剣そうな表情をしていた。仕事で何か問題でも生じたのか、いやただ単に機嫌が悪いだけなのか、それとも、どうでもいい、つまらないことに思考を浪費しているのか。

 そんなことはお構いなしに、僕はそうめんをすすっている。

 ちゅるるるる……

「結。あなたに今まで秘密にしてたことがあるんだけど……、言ってもいいかな? 」

「ダメって言ったら? 」

「言う」

「なんじゃそりゃ」

 なら聞かなくたっていいんじゃないかと思うんだけれど、取り敢えず僕は耳を傾けることにした。

「結にね、今まで秘密にしてたことがあるんだけど、お母さん、実は親戚がいるの」

 ズズッ。

 そりゃそうだろう。別に僕は、母親が世の混沌から突如として生まれたなんて常識はずれのことを思ったことは一度もない。ただ単に、僕は今まで*それ*に関しては、聞かなかっただけだ――聞けなかっただけだ……。母が僕に対してそんな風な印象を抱いていたというのなら、その印象はすぐさま撤回してもらいたい。

「で、その親戚がどうしたっていうの? 」

「実はね。うーん、何から話したら良いのかな。まず、お母さんの実家は神社やってるのよ。清玉宮神社っていうのだけど、その神社の宮司がお母さんの弟、つまりあなたの叔父さんなの」

「ふーん。でも、たったそれだけのことで、お母さんがこうも思いつめたような顔をするとは思えないけどなぁ」

「だから話を最後まで聞きなさいよ」「すみません」

「で、ここからが本題なのよ。あなたには、中学を卒業してからの高校三年間をその叔父さんのいる実家に暮らしてもらうことになってるの」

 グフォッ!

 口に含んでいたそうめんが溢れ出す。 

「これは逆らえないことよ。もうずっと前から決まってたことなの。だから、あなたがまだ高校の進路を決めてないのだとしたら、まあ、どうせ決まってないんでしょうけど、行くのは実家のある洲賀野市の高校なのよ! 」

「いやいや。でも、そんなことを僕は聞いた覚えがない。親戚? 神社? 色んな事実が次々と浮上してこられても、全く頭の整理一つできないよ。そもそも、僕はその叔父さんって人のところに暮らすなんてことを了承した覚えはない! それになんで僕はその神社のところにお世話にならないといけないかの理由もわからない! 」

「なんでもよ。理由なんてないの。世の中、何でもかんでも理由があると思ったら大間違いよ。大抵のことは全くもって理不尽なものなのよ。全く予期しない出来事が次から次へと降ってくるからこそ人生というものなんだから。……それに、この件に関してはたとえ理由があったとしてもお母さんからそれを話すことはできない。詳しいことはあなたの叔父さんに聞いてちょうだい」

 僕はしばらく黙り込んでしまった。

 複雑な状況を整理することがこうも難しいということを思い知らされてしまった。

 たしかに世の中理不尽なことだらけだが、僕がその親戚の家にお世話にならないといけないことに理由がないのだとしても、それでも今僕とテーブルを挟んで対峙している母の表情には、なにか重大な理由があるようにも思われた。

 僕を守るために頑なに口を閉ざしてきた何かがある。

 ただ、その「何か」とうのは、きっと今聞くべきものではない。たとえ理由の存在する事象であったとしても、理由を聞いてはならないこともあるものだし、その「理由」というのは、今まで母親が僕に親戚の存在を秘密にしていた「理由」とも必然的に合流しうるものだろう。

「で、お母さんはその『実家』ってところには行かないわけだね」

「そうよ」

 僕は弱々しいため息をついた。

 そうか、そういや僕の家族というのはイレギュラーな存在だったな。

 父親は僕が四歳のころに他界して、女手一つでお母さんは僕を育ててきた。幼かったせいもあって、父親の顔というのはよく覚えていない。お母さんよりも背が高かった程度のことしかまともに覚えてなくて、僕にとっての「父」というのは、テーブルのそばにある額縁に飾られた若い頃の写真一枚だけ

 *たった一枚の紙切れが僕の父親だった*。

 ただ、葬式の頃は覚えている。

 ……いや、これは、後になってあの情景は葬式の頃のものだったと気づいたっていうのが正しいところなのだが、どんよりとした暗い雲が空を覆い、しとしとと冷たい雨が降り注ぐ日の頃だった。その人は白い棺の中で不健康そうな顔をして眠っている。(僕も含めて、)真っ黒な格好をした大人たちがたくさん集まっていて、所々で悲しそうに寂しそうに泣いている。ソファにどっかりと座っている知らないおじさんたちは大きな声で談笑していたのだけれど、その風景は、幾分浮いているように見えた。

 僕はどこかのテーブルに盛られていた和菓子を一つ片手に持っていて、もう片方の手でお母さんの手をしっかりと握りしめている。そのお母さんを、知らないおじさんやおばさん達が言葉では言い表せないくらいに怖い顔をして怒鳴っていた。なんと言ってたかは知らないけれど、でも僕は怖くて怖くてたまらなくて、お母さんの脚にずっと隠れて、両手で耳をふさいでいた。それでも、大人たちの鋭く尖った怖い声は、僕の手のひらを貫いてくる。

 そして、その視界の先には、僕のことをずっと見つめる同い年くらいの女の子がいた。

 哀れみの目であった。僕のことを不幸な存在だとみなし、一方で何れ我が身にも降りかかるであろう不幸を恐れる目であった。

 ただただ、お母さんはその知らないおじさんたちに必死に頭を下げている。

 外の雨は次第に強く地面を打ち付け、外の景色は次第に白く霞んでいった。

 そしてその音で、他のあらゆるすべての怖い音がかき消されていくことを僕は願っていた。

 

 それ以来、家族は僕と母親だけの幾分奇妙なものだった。


 小学校の体育大会は、他の児童がたくさんの家族と弁当を食べている中で、――仕事で来られないことが多々あったが――僕は母親と二人きりでお昼ご飯を食べていた。

 あるとき、クラスの誰かが「結くんのお父さん何してる人なの? 」と罪もないきつい一撃が僕に向けられたとき、嘘を言うこともできず、そうかと言って実際に何をしていた人なのかも知らない僕は「写真」とだけ答えてしまい、それ以来、僕の父親は写真家ということになってしまった。実際の父親は写真そのものなのだか……。

 他にも、何回あったかは忘れてしまったけど、おじいちゃん・おばあちゃんが参加する授業参観やその他幾多の催し物においても、僕ははっきりとアウェーな存在であった。母親以外に「父親」や「祖父母」と呼ばれる存在がいることが、僕の肌感覚では全く理解のしようもないものだった。

 普通の家族というものが、僕には理解することが出来なかった。

 それは、今でも同様である。

 まあ、そうは言っても、そんな現実を突きつけられる残酷なイベントというのは三六五日二四時間の中では、ほんの些細なものでしかなかったし、大抵は他人と変わりなく一凡人として時の流れに身を任せてきたのだった……。


 さて、沈鬱な回想云々はここで切り上げるとしよう。


 兎にも角にも、僕は洲賀野と呼ばれる場所にある高校の中で自分が行けそうな学校を選ぶことにした。高校受験がこんなにもしんどくて大変なのに三年足らずに今度は大学受験もしないといけないのか、はぁ、面倒くさいなぁ、なんてことを思いながら探していると、どうやら洲賀野には公立大学附属の高校があることを知った。決して全国に名を馳せる有名進学校でも何でもなく、ただの地方高校である。それでも、自分の実力よりも若干上のレベルであることに加え入試倍率も高いため、合格には相応の努力が必要になるが、どうせ大学入試で苦労するくらいなら、今頑張りさえすればその後進路でそれほど悩まされることもなさそうなこの学校に行ったほうが良いな、何ていう安直な考えにより、その先の大学がどのようなものかも深く考えること無く決めてしまった。

 それから夏休み明けから学習塾に通いはじめ、その学習塾の先生に洲賀野市の聞いたこともないような高校の過去問題を入手してもらい、自分なりの猛勉強の末、どうにか幸塚高校に合格することができた。

 ちなみに、高校説明会は開催場所があまりにも遠すぎたため行けず、高校のホームページで制服などを確認する以外、なんにも下調べはしなかった。

 まあ、そういった事情があったがゆえに僕は今、こうしてオンボロ屋根の下にあるオンボロベンチに座っているのだった。なお、バスは一向に来る気配を見せない。

 また一人、バス停に待ち人が増えた。

 僕は、ただぼんやりと、代わり映えのしない退屈の風景の中で、只唯一、雲のみが何処へでも自由に、そして優雅に、誰にも縛られること無く旅をしいる様を幾許の羨望を交えながら、ぼおっと眺めていた。

 僕もあの雲のように早く自由の身になりたい。今の僕は、ベンチの屋根に住み着いている、自らの巣にしか住むことの出来ない不自由な蜘蛛なのだ。

 ただひたすらに、言葉にならない鬱屈とした重石から、解き放たれたかったのだ。

 生きることに意味を求める、そんな贅沢を味わってみたかった。


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