第一章、第一節 魔王、異世界に呼ばれる
「あっ、目を覚ました」
聞きなれない少々甲高い声につられて、意識が覚醒する。
あれ? 俺は寝ていたのか……。
そもそも俺は何をしていたっけ。他人の声が聞こえるということはここは家ではないだろう。仕事先だとしたら、仕事の途中に寝落ちてしまった可能性が高い。
これは上司に怒られるかなと思いつつ、目を空けて――
――そして、目の前に光景に凍り付いた。
「えっ? なにここ」
目の前に広がっているのは、明らかに異質な大広間。かなり暗めの照明に、趣味の悪そうな牛の骸骨の燭台。無用なほどあまりに大きな扉に、そこから自分の足元まで連なる赤い絨毯。
そのすべてがファンタジー世界にも出てくるかのような古めかしい感じで、日本人の自分からしたら明らかに異質な空間であった。
いや。そもそも自分の知識にはこんな古めかしい洋館は存在しない。世界のどこかにはあるかもしれないが、そこに自分がいることが想像すらできなかった。
「初めまして、魔王様。こんにちわ!」
混乱した頭に届く声。その声に、顔が自然と動いた。
そして、視界に入ってくる少女を見て、体が強張るのがわかった。
目の前に立つ少女は明らかに異質だった。見た目は少女のそれだが、赤黒い髪の中から角をはえ、背中には小さな翼が顔を出していた。服は水着かと思うほど露出多めで、その姿は絵空事に出てくるサキュバスそのものだ。
外見年齢でいうと、小学校高学年くらいか。その恰好はコスプレにしか見えないが、周囲の雰囲気も相まって本物に見える。
「ここは?」
「魔王城だよ!」
元気な声で即答されてしまった。
ニコニコしているところ悪いのだが、こっちとしては冗談を言っているようにしか聞こえない。
「なんだって? まおうじょう?」
少女の言っている事がうまく理解ができない。
いや、理解出来ないのではない。それが現実でないことを自分自身が否定しているといった方が正しい。
なんせ魔王城は、現実には存在しないのだから。
「魔王城というのは、あれか? 魔王と呼ばれる高貴なお人が住まうお城のことか?」
「そうだよ!」
「それで、俺が魔王だと?」
「うん! そうだよ、魔王様!」
本当に間髪いれずに応えるな。この子。元気があるのはよろしいことだが、それは親戚のおばちゃんとかにしてもらいたい。
しかし、魔王ときたか。魔王と言えば、魔族やら魔物やらを統べる王のこと。そして、存在しない架空の存在である。
「アハハハハハハハハ」
ひとまず高らかに笑ってみる。
冗談にもほどがある。魔王なんて物はファンタジーの中にいる伝説の生き物だ。しかも、魔王ときた。いくら俺でも、突然そんなこと言われたところでそう信じられる物ではない。
「アハハハハハ…ハハハ……ハッ…………」
…………。
再度、辺りを見渡す。
明らかに暗めの装飾に、暗めの部屋。
レンガ造りなのもそうだが、部屋の色としては赤と黒がメイン。燭台が骨でできているのも雰囲気を助長している。
正直、アトラクションで魔王の部屋と言われて案内されたら、そう思えるほどにはよくできている。
そして、目の前の少女。
一度現実逃避してはみたものの、頭の角はどう見ても作り物には見えない。
また、はっきりと見てなかったから気がつかなかったが、背中から生えている羽がぱたぱたと小さく動いている。機械仕掛けの小道具にしては動きが不定期で、人工的なものには到底見えない。
少女は楽しそうに笑っているが、こちらはそれどころではない。
自分の笑いはかすれていき、最後は音にならなくなった。そして最後にでた言葉は「……マジ?」であった。
「マジだよ!」
……………。
「俺が魔王? ほかの誰でもなく?」
「うん! 魔王様だよ! ほかの誰でも無いよ!」
周囲を見渡しても他には誰もいない。
他の誰かと間違えている可能性は万に一つもあり得ない。
これで、誰かいてくれたらまだ気分は楽なのだが、間違いだといい払うのは、少し無理がある気がした。
「じ……」
「じ?」
「GM! 真偽判定を願いします!」
「じーえむってなあに?」
と少女がつぶやく。
心の中で叫ぶつもりが思いっきり叫んでしまった。
まあ、GMことゲームマスターなんぞどう考えてもいそうにない。まあ、現実にGMがいることなぞTRPGぐらいのものだから当たり前といえば当たり前である。
いや、待てよ。確か、真偽判定は相手の様子を見て、嘘かどうかを見抜く能力。つまり、GMがいなくても自分の力で相手の嘘を見抜いてしまえばいいだけなのだ。
そう。相手の瞳をじっと見て、嘘かどうかを判別して……
――つぶらな瞳に敗北しました。
純粋だ。純粋すぎる。いや、マジで俺を魔王だと信じ切っている。いや、こんな子相手にどうしろっていうんだ。
他に誰かいないのか? チェンジを求む!
「メイドならいますが」
「うわっ!?」
突如、少女の後ろにメイドの格好をした女性が現れた。しかもこちらも小さな角とコウモリ羽付きで。
「初めまして魔王様。私、魔王様のメイドを務めさせていただいております、ベルと申します。以後お見知りおきを」
「あっどうもご丁寧に……」
「こちら、魔王を務めさせていただいております……」と言いかけて、自分の何かが急ブレーキを踏んだ。
「って、ちょっとまてぃ! 誰が魔王やねん!」
「あなた様です、魔王様」
そう言って、お辞儀をするメイド。冷静に返されて少し悲しいが、今はそういう状況でもない。
今度は、目の前に立つメイドを観察する。
服は中世で見るようなゴシックな感じのメイド服。黒色のスカートに白色のエプロンをつけている。スカートの丈も長く、多少フリルはついているが露出が多いわけでもない。メイドカフェにいるようななんちゃってメイドではなく、今もどこかに仕えるメイドのようだ。
お辞儀から顔を上げたその顔は予想よりも若く、高く見積もっても20代後編には見える。
しかし、若いながらにも品があり、本当に古めかしい洋館にでも住み込みで働くメイドみたいだ。
やはり頭にある角と、背中の羽を除けばであるが。
「ひとまず、わからないことだらけなんだけど……なんで俺が、魔王? あとここはどこ?」
「ここは魔王城。そしてあなたは魔王様。あなた様には、この世界で魔王様として生涯を終えていただこうと思います」
「はぁ」
丁寧に説明してくれるメイド。いや、丁寧なのはいいのだが、その単語はどこかぶっ飛んでいる。それを飲み込めと言われてもそうはいかない。
「いや、そう言われてもなぁ……」
そう言って頭をかいた。
魔王など現実にはあり得ない職業だ。魔王と言って思い出すのは悪魔や魔物を率いるトップであるが、現実には魔物などは存在しないあくまでも空想上の話であり、あり得ないはずの職業なのだ。
「俺は平凡な生き方をしてきた一般市民だ。魔王に選抜される理由がないが?」
「いえ。既にあなた様は魔王様として選ばれたのです。今、この時をもってあなた様は魔王様として生まれ変わったのです」
「わけのわからないことを」
といってため息をついた。
「俺は3流大学を出て、町の小さな商社に就職した……」
その時ふと気が付いた。
仕事先の名前が出てこない。
10年以上毎日のように通った、忘れるはずがない自分の仕事先の名前が出てこない。
仕事の内容は覚えているし、毎日いろんな人に平謝りしながら仕事していたのも覚えている。
しかし、名前が全然思い出せない。
(度忘れか?)
人である以上、突然言葉が出てこないことはよくある話である。
しかし、10年も通った仕事先をそんな簡単に忘れるだろうか?
昨日も普通に仕事をしていたはずである。忘れるようなはずが……。
そう思って、思い返そうとしてさらに気が付いた。
(最近の記憶がない?)
そういえば、昨日はどうしたっけ?
昨日は平日であるから仕事に行ったはずだが、その記憶が全然ない。何をしていたかも覚えていない。
いや、昨日だけではない。一昨日も、その前も。
最近の出来事がすっぱりと抜け落ちている。
しかし、仕事に行っていた覚えはある。
仕事でミスをして課長にこっぴどく叱られた日だ。
しかし、あれはいつだったか?
昨日であった覚えはない。というか、最近の話ではないと思う。
しかし、いつだったか覚えていない。数カ月は前だった気がする。
記憶が定かでなさすぎる。
「ちょっと待って」
と言って、俺はさらに考え込む。
俺は誰だ……。俺は……誰……だ……?
頭をフル回転して思い出そうとするが、思い出せない。
自分の名前が、どこの誰であるのかが思い出せない。
もう30年近く付き合ってきたはずの自分の名前が一切合切思い出せない。
(なぜだ?)
さっきも言ったが、人は度忘れをするものである。
突然忘れるのは人である以上仕方がないことで、驚くべきことではない。
しかし、自分の名前を忘れることなどあり得るのか?
いくら、自分の記憶能力がそこまで高くはないとはいえ、自らの名前を忘れてしまうことなど聞いたことがない。普通に考えたらあり得ないことだ。
名前がだめでも出身とかなら……
――思い出せない。いや、自分がどうやって生きて来たのかは覚えている。親の顔も、友人の顔も思い出せる。しかし、固有名詞がほとんど抜けてしまっている。
自分はなんの大学を出たのか。なんという会社に就職したのか。そして、どこに住んでいたのか。
血液型も、誕生日も何もかも。
間違いなく、俺は地球で過ごしていた。それは間違いない。
間違いないはずだが、それが遠い記憶に思えてくる。
そう思えてくるぐらい、俺は「自分の世界の名前」を思い出せない。
「魔王様、大丈夫?」
サキュバスの少女がそう問いかけてくる。
「ああ」
と返すが、その言葉に身が入っていないことは明らかであった。
何か思い出せるものはないかといろいろ探って行くが……だめだ。何も思い出せない。
日本史、世界史、数学。
知識的なものは忘れていないのに、自分の周りの単語が思い出せない。
上司の名前。部下。同僚。
友人。親友。親。
全員の顔は思い出せるのに、なぜか名前が出てこない。
自分が住んでいた場所も。その町の名前も。出身地も。
何一つとしてわからない。
唯一わかるのは自分は日本人であるということだけ。
そして、平凡に生きてきたということだけ。
理解しているはずなのに、言葉がでてこない。
覚えいるはずなのに言葉にできない。
今の僕は、そう――
――何者であるか。それを説明するだけの記憶を持ち合わせていなかった。