愛された記憶と紅色の乖離
母から愛された記憶がない。
誕生日を祝ってくれたり、遊びに連れて行ってもらったり、授業参観にも欠かさずきてくれたけど――それでも母の愛に触れられたことはないように思う。
自分が愛されていないと気がついたのは、八歳の夏休みだった。
小学生だった僕は、朝起きて歯を磨き、宿題をやり、夏休みの間だけ再放送されている昔のヒーロー番組をテレビで見て、昼食を食べ、午後は外に遊びに行くというサイクルで日々を過ごしていた。
あの日も昼食まではいつも通りだった。
昼食は母の作った塩焼きそばだ。
それを食べている最中、鼻からツーっと何かが流れたのを感じた。汗か鼻水だと思い拭うと、手が赤く染まってしまった。
鼻血だった――たぶん、人生においてはじめて流れた鼻血だ。
僕は酷く狼狽した。拭っても拭っても止めどなく血が流れ続ける。
死ぬんじゃないかと恐ろしくなり、母を見た。
そのとき、母は僕をえらく冷めた目で見ていた。
母は、息子の僕から見てもとても美人だ。
黒髪のショートカット。肌は透き通るように白く、皺一つなくなめらかだ。目、鼻、口、と顔のパーツすべてが整っていて、外見は文句のつけようのないくらい完璧だった。
欠点があるとすれば、顔立ちが整っているせいか、表情にあまり変化が見られず、人によっては冷たい印象を受けてしまうところだ。
実際、友人にもいわれたことがある。
――お前のかーちゃん、何か怖くね?
僕が生まれたときからずっとその調子だったので、あまり気にしたことはなかったのだけど、鼻血に慌てる我が子を見て、何の感情も示さない母に、はじめて不信と恐怖を抱いた。
それ以来、僕は母の愛情というものに疑問を持ちはじめた。笑顔で話しかけられても、どこか胡散臭く感じられてしまい、成績を褒められても、母の表情を伺ってしまう。
杞憂と思いたくても、母の表情の乏しさは僕の不安を助長させるだけだった。
でも、人間とは馴れて行くものだ。母の無表情は次第に気にならなくなった。厳密にいえば、表面的なコミュニケーションの断絶を受け入れただけなのだけど。
母とはもっといっぱいお話しなきゃ分かり合えない。そう考えるようにして、誤魔化した。
そう――誤魔化しただけだったのだ。
誤魔化し切れなくなったのは、僕が中学三年生、母が四〇歳のとき。
相変わらず母はフィクションのように美しく、相変わらず表情に乏しく、そして何を考えているかわからない人だった。
学校で進路相談のために、三者面談を行うことが決まった。正直、僕は乗り気ではなかった。温度感のない母と担任の先生を合わせるのが嫌だったのだ。授業参観には欠かさずきてくれており、美人の母親ということで、校内では有名人だった。だから担任も母のことは知ってはいたのだけど、面と向かって話したことはなく、よって美人で無感情な母親は、美人でミステリアスという一面を手に入れられていた。
何だか、それが崩れるのが恥のように感じられた。
母を悪い風に捉えられたくないという思いもあった。
三者面談当日。
母は僕の想像に反して、とても雄弁に僕のことについて語った。
「この子には色んなことを学んで欲しいと思っているんです。学力だけじゃなく、スポーツでも何でもいいんですけど、一生をかけられるようなものを見つけてもらいたくて――なので、そのためなら偏差値とかどうでもいいんです。そういうものが見つかったり養えるような場所へ、この子には行ってもらいたいんです」
担任はうんうんと感激したように頷いていた。
僕はその場で母の思いというものをはじめて知った。
母は上気したように喋っていたが、喋り終えたら相変わらずの冷めた風だった、
実をいえば、最初は感激した。
ああ、母は僕のことをそんなにも考えていてくれたのか。
馬鹿正直に親子の情愛というものを感じ取ってみせた。
僕には一生をかけたいものがあった。
でも、三者面談が終わり、母と二人で帰りながら、僕が感じたものは間違いだったと気付かされた。
――実はバンドをやりたいんだ。ベーシストになりたくて、友達とも音楽音楽の話ばかりしてる。音楽学校といはないまでも、音楽活動が盛んな学校に行きたい。軽音楽部が盛んとか、そういう学校に。
母は、そう、というと、それきり無言だった。
母が僕のことを真剣に考えていてくれているなんて、幻想なのだろう。母は担任――他人、もっといえば世間体を気にしてあんな態度を取ったのだ。
結局、僕は偏差値に見合った、目立った特色のないそれなりの学校へ通うことになった。
母は三者面談以降、特に僕の進路について話をすることもなく、また僕は僕で自分の希望通りの学校を見つけてきてもなぜか母にいえず、担任が仕方なしに勧めてくれた学校を受験した。
――お前、本当にいいんだな?
先生にそういわれ、はい、と僕は答えた。ご両親に一度したらどうだ、と訊かれたけど、結局僕は誰に相談することもなく進路を決めた。
淡白な母と、いることすら意識にあまり上らない父に相談しても無駄だと思っていた。
母と僕に感情の断絶があることは、そのときに意識するようになった。
母はどんなときも美しい。
正直、腹が立つほどだ。
母以上に美しい女性と出会ったことはない。クラスメイトはもちろん、道行く人、テレビで美人タレントと持て囃されている連中。全員母に比べればそれなりか、それ以下だ。
とても、それが癪に障る。
僕に対して興味が微塵もない母なのに、僕は誰かを見るたびに母を意識する。異性だけではなく、同性の美醜までも僕の基準は母になる。
何なんだよ、一体――。
家に帰るたび、母を見て苛立ちを感じるようになった。
高校ではじめて恋人ができてから、その苛立ちはより強まった。
恋人は、客観的に見て可愛らしい子だった。外見よりも、一緒にいることに居心地のよさを感じて付き合うことにしたのだけど、でも母という比較対象がノイズのようにつきまとう。
ああ、母はもっと鼻筋がすっとしているな。母にこんなニキビはないな。枝毛なんてありえないな。
ノイズは恋人への不満よりも、母への不満に繋がる。
彼女は、少なくとも僕に寄り添ってくれる。いいことがあれば一緒に喜んでくれる。落ち込めば一緒に悲しんでくれて、慰めてくれる。
それだけで僕の心は十二分に満たされるのに。
満たされている僕をチクチクと攻撃し続ける母というノイズは、彼女と違って僕を蝕み続けた。
――お母さんは僕のこと、好き?
もちろん、と母は返事をする。
――誰よりも大事?
当たり前じゃない。どうしたの。母は僕をギュッと抱きしめた。
びっくりするくらい冷たい体だ。
――じゃあ、何で僕のことを見てくれないの?
母はびくっと体を振るわせると、少しだけ体を離し、じっと僕を見つめてきた。
その目は、僕が鼻血を出しても動じなかった、冷たい人形の目と同じだった。
いい加減、僕は母から距離を置くべきだと感じた。
大学生のときだ。
このまま一緒にいても辛い。
母に愛されていない――いや、厳密にいえば愛されているかどうかわからないだけなのだけど、そんな状況がこの先も続くのだと思うと、頭がどうかなりそうになる。
通学を楽にしたい。そういう理由で、一人暮らしの許可を両親に求めた。
珍しく家族三人で夕食を取っているときだ。いまがチャンスだと思い、食事が終わったタイミングで打ち明けた。
父は、まあいいんじゃないか、とあまり興味がない様子で、すんなりと了承された。バイトはしろよ、と最後に父は付け加えた。
父がいいといえば、一人暮らしはほぼ決まりだ。あとは母が頷けば、すぐにでもはじめられる。
「駄目」
でも、予想外のことが起きた。
母が反対したのだ。
――ここからでも学校へは十分通える。お金を全部自分で出すならともかく、出すのはお父さんでしょ?
「それに、私はあなたがいないと寂しい」
珍しく母は悲しそうな表情で俯いた。
僕も父も戸惑った。母がこんなに強く意見をいうことなど、いままで一度も見たことがないからだ。
でも、寂しいって何なんだよ――僕の心は激しく掻き乱された。
結局、一人暮らしの話は消えてしまった。
「ただいま」
家に帰り母に声をかけた。夕食の支度をしていた母は手を止めてちらりと僕を見ると、おかえり、といい、すぐに夕食の支度へ戻った。
母は相変わらず温度感がなく、あのときの強い反対は何だったのかわからない。本当に寂しかったのか、それとも別の思惑があったのか。
思惑――なぜいまのいままで、思い至ることがなかったのだろうか。
そう、母には寂しいということ以外に、何か別の考えがあったのではないか。僕はまんまとそれに乗っかってしまったのだ。
「母さん。何か手伝う?」
「ん? 大丈夫。珍しいね。いつもはすぐ部屋に行っちゃうのに」
「そうかな? そうかもね」
手持ちぶさたで、リビングで椅子に腰かけた。
「ねえ、ちょっと前にさ、一人暮らししたいって話したじゃん。母さんは本当に僕がいなくなると寂しい?」
母は手を止めると、振り向いた。
「そうね――寂しいよ」
冷たく――確かに寂しい目をしている。
いまになって気がつかされた。
僕は、母の冷たい表情の奥にある寂しさに蝕まれていたのだ。孤独感を携えた視線が、僕を絡め取ってがんじがらめにしていた。
僕だって寂しかった。
愛されているかどうか、常に不安だった。
お互いの孤独が混じり合って、どうしようもない負の螺旋に落ちていたのかもしれない。
母に思惑なんてなかった。
僕は立ち上がると、キッチンへ向かい、包丁を手に取った。母はぼーっと僕の動作を見ている。
「ごめんね」
「ううん、私も――」
母の腹部に包丁を差し込んだ。
引き抜くと、ボタボタと血が流れはじめる。
母は両手で傷口を押さえた。
真っ白な手が真っ赤に染まって行く。
母は仰向けに倒れ込んだ。苦しそうに息をぜいぜいとしている。でも、表情は微かに歪んだだけで、いつも通り人形のように作り物めいていて、人間離れした美しさもそのままで――。
「母さんって、いまいくつ?」
母はふっと息を吐いた。
四〇代後半くらいだったように思うが、母の容姿は僕の幼いころの記憶から一切変化がない。
もしかして歳を取っていないのだろうか。そう思うくらい母は若々しく美しい。
僕はもう一度母に包丁を突き刺した。
辛そうに呼吸する母をこれ以上見ていられなかった。
包丁が深くまで突き刺さった瞬間、母は大きな咳と一緒に吐血した。
母の顔が血に染まる。
ぼんやりと僕と目が合った。
冷たい目だ。でも、どこか穏やかさもある。
「ミレイ!」
父の叫び声が聞こえた。
「何やってんだ、お前!」
父は僕の胸ぐらを掴むと、顔面目がけて拳を繰り出してきた。パキッと骨の砕ける音が聞こえた。僕の骨か父の骨かわからない。
もう二発、父は僕を殴りつけると、母を抱きかかえた。
「おい、ミレイ! しっかりしろ! 頼むよぉ――」
母の名を呼びながら、父は大の大人とは思えないほど、情けないくらい泣き喚いていた。
反対に母は一切声を上げない。
逆に無言で僕へ手を差し伸ばしてきた。
真っ赤だ。僕は近づいて母の手を握った。
笑みを浮かべると、母はがくりと力なく崩れ落ちた。
――死んだ。
母に愛された記憶はない。実感もない。
けど、僕がわからなかっただけで、母はもしかしたら僕のことを愛していたのかもしれない。
じゃなければ、あんな寂しそうな顔はしない。
僕の成長と別離が嫌だったのだろう。
愛されたかもしれない記憶と感触。
僕に残ったものは、それだけだ。