美食家の外面
その瞬間までは少し憎らしい年下の上司。
その瞬間からはかけがえのない愛しい女性。
「ごちそうさま」
赤のルージュをひいた綺麗な口から出された言葉と彼女の声と表情に、なんて美味しそうなんだろうと思った。
なんでもソツなくこなす後輩が入ってきて早3年。最初は小綺麗なお嬢さんだ、潰れたりしないだろうかと失礼なことを考えていた。しかし任せた仕事を短時間でこなし企画へ積極的に意見を出す姿を見ていけば、それがどれほど見当違いなのかもすぐ理解できた。彼女の同期で入ってきた密かに幹部候補になるのでは?と前評判のあった体育会系の男は早々に潰れるほどの激務を何の気負いもなくこなしてしまうのだから。
そんな彼女だから嫉妬や生意気だと周囲から悪意に晒されることも多かった。僕だって自分が熟すまでに数年かかったことをわずか半年でものにされた時にはかつてない嫉妬心に苛まれた。それでも彼女は潰されることなく貪欲に出世の道を辿っていく。男だったらすぐに主任クラスだろう女で良かった、と軽口を叩く先輩達を尻目に本当に主任になってしまった。彼女の能力からすれば当たり前だが前例のないスピード昇進に社内は荒れたほどだ。
入社時は小綺麗な大卒のお嬢さんだったが、1年経つと自信と根拠たる実績を持つバリバリのキャリアウーマンが出来上がった。柔らかな雰囲気はほとんどなく、パリッとしたパンツスーツに長い髪を結い上げ挑戦的な目元と釘付けにされる紅のひかれたくちびる。頭の上からつま先まで隙のない姿にいつしか女王、女帝と男性社員の中で揶揄されるようにもなっていた。おそらく彼女の耳にも入っていたがそれを正面から抗議されたことはないらしい。
さて、なぜこんなことを振り返っているのかと言えば守るべき後輩から頼れる上司へとなり、出世なんかについては僕の後ろから追い抜き既に背中すら遠くなった、部長の座も後一歩と名高い敏腕課長の彼女の意外な一面を見てしまったからだ。
節約のために自分で作っている弁当を昼休みに食べていたところまでは日常と変わらなかった。新しい企画の骨組みを作り、期日までに大幅な余裕を持って完成させよう、とデキる上司である彼女の元に複数の部署から人が集まる会議の日。
大体のことは午前中に決まり、これからのスケジュールや意見の詰め合いに挑む午後。夜は親睦を深めよう、と既に彼女が予約していた店で企画会議に出た全員が参加する食事会が予定されている。少し長めに取られた昼休みは1度各部署に戻り、それぞれのスケジュールや考えをまとめて午後の会議を円滑に進めるための彼女の采配だ。
彼女が直属の上司となる僕は既に自分のスケジュールや考えを彼女に伝えてあったし、彼女も僕に大体の流れとして教えてくれている。彼女自身は昼食を買いに行くと出て行った。そのため休憩室で食べているのは僕だけだった。買い物をしてきた彼女が戻ってきたところから現在に繋がるわけで。
フレッシュな野菜と独特のドレッシングやソース、熟成させたハムやベーコン、厚切り肉にエビやフライなど様々な中身を自分の好みで入れてもらえると有名な、会社近くのおしゃれなお店で買ってきたサンドイッチとカップから湯気だつポタージュ。そのお店の隣にある豆や焙煎方法にこだわったと人気のあるマスターが淹れた香ばしいコーヒー。サンドイッチも2人分?と思えるほどの量で、細い彼女がひとりで食べるのかなぁ、値段は全部で僕の弁当にかかる食費の4倍くらいになるなぁと彼女の広げた食べ物を眺めていたら、食べかけの僕の弁当に彼女の視線が注がれていた。
「社内で人気のお店のサンドイッチとコーヒーってキミも意外と食にこだわりがあんるんだね」
気まずくならない程度に声をかけると彼女は不思議そうに首を傾げた。余談ではあるけど、僕と彼女はそれぞれ敬語は使わない。先輩後輩の立場から上司部下と逆転した時に彼女は敬語を使わなくなったけど僕にそれを強制することもなかった。
「食べ物へのこだわりは人一倍強いのだけれど、私のイメージってどうなっているのかしら?」
ため息混じりに苦笑いして買ってきたポタージュを味わいサンドイッチを口にする彼女。
普段は見れない柔らかさにドキリとした。
特別話し込むこともなくお互いの昼食をもうすぐ終える頃、おかずの少なくなった僕の弁当を再び彼女が見ていることに気付いた。
「食べかけだけど卵焼きは箸をつけてないから、食べたいなら味見をどうぞ?」
からかい半分で弁当箱を差し出したら彼女はひょいと卵焼きを摘まみ頬張っていた。
自分がしたことなのに固まってしまった僕とは対照的に、彼女は先程食べていたサンドイッチよりも美味しそうに卵焼きを味わっている。
「美味しそうに食べますね」
自分の作った卵焼きをそんなに美味しそうに食べられるとは、と内心焦り思わず普段と違う口調になっていた僕はそれが彼女のスイッチだとは知らなかった。
「美味しいものしか食べたくないの」
真顔で言い放った彼女に顔が引き吊った僕はおかしかったのだろうか。
彼女の食に対する熱い思いを聞かされ、この完璧な上司が実は美味しいものに突き動かされて我が社の女性雇用の歴史と歴代最高利益を塗り替えていたのかと呆然となってもおかしくない、おかしくないはずだ。
話しているうちに鷲掴みにされていた僕の心は、まあ仕方がないだろう。ならば彼女の胃袋から掴んでやるか、と夜の食事会前に彼女の分の弁当箱を買う算段をしている僕はちょっと浮かれていたのかもしれない。
美味しいと幸せそうに笑う、僕の手作りだと知って驚く彼女の色んな表情を見たい、毎日僕の料理で美味しいと笑わせたいと思ってしまったのだから。
美食家の目覚めを知った彼視点のお話。
楽しい呑み会から一回寝たら眠気はいなくなっていて、私の脳内で彼女の美味しいものへの思いを聞いた彼が彼女を手に入れようと画策し始めてた。
昨日作っておいた朝ご飯の辛口カレーは結構美味しかった。