水面回顧
第二章 水面回顧
老人の家は墓地から歩いて10分の距離にあった。そこまでの雑踏を二人は無言のまま歩いていた。
治夫はこの暑さの中水も飲めずにいたため軽い熱中症にかかっているようだった。足元はおぼつかず目の焦点も狂っていた。治夫は道端に座りたい衝動に駆られたが老人家はもう眼と鼻の距離であった。何よりも休憩をして約束の時間に遅れることがあってはならないと感じていた。なぜかは分からないが直感がそう言っていた。
治夫は自分の「勘」に自信を持っていた。
それは3年前の冬。治夫は両親と二つ上の兄と共に下町の路地裏の小さな家に住んでいた。広さは8畳ほどだったが一応二階建てであった。一階は両親の部屋、2階が兄弟の部屋であった。二階への階段は外についていたため食事以外で家族全員が顔を合わせる機会は皆無に近かった。なので治夫にとって食事という行為は特別なものだった。治夫は特別大食いでもなく、食べ物に対する欲求は並以下であった。治夫は食べるという事以上に家族と共に一緒にいるということだけで十分であった。食事は貧しく量も少なかったがそれを家族の会話や笑顔がかき消していた。話の中心は兄の亮平であった。話題はごく日常的なことで例えば今日の給食の事や休み時間のこと、中学校の七不思議などであった。治夫は中学校に大きな興味、憧れを持っていたため兄の話はとても楽しく飽きがこないものであった。その話題に対して同じ中学校の卒業生である父雅直と母陽子は当時を思い出して懐かしみ時には、今と昔の違いを亮平に指摘していた。
「今日は学校の七不思議の一つである4階の女子便所に行ったんだぜ。あそこのフロアは3年生しかいねえから見つかったらボコボコになってたぜ」
亮平は自慢げに話を始めた。ちょうど11月の終わりの夕食の時であった。
「おいおい亮兄!ついに女子便所までいったのか?どうだった女の糞の匂いは?」
治夫は兄のことを親しみを込めて亮兄とよんでいた。それに両親の前で卑猥な事を言うのに抵抗はなかった。ただ楽しくなればそれでよかった。陽子も初めは治夫の下品な言葉遣いや会話を注意していたが、今となっては一つの楽しみとなっていた。まだ小学生の治夫も中学校に上がるにつれて大人になってくれると信じていた。
「なんだ治夫!お前女子便所なんかに興奮してんのか?俺が話すのはそんな下衆な話じゃねえ!例のアレを見に行ったんだよ!」
例のアレとは亮平の通う中学校に最近囁かれるようになった奇妙な噂だった。ある一つの大便器のレバーを引くと血が流れるというものであった。治夫は思い出した。
「そういや話してたな!血の出る便器の話だろ?」
目を輝かせる治夫をみると亮平は益々得意気になった。
「そうだ!それだ!」
亮平は人差し指を治夫に向けながら声量を上げた。
「でどうだったんだ?」
治夫は身を乗り出し卓袱台に肘をついた。卓上の味噌汁が大きく揺れた。
「それがなんともなかった。けど血のあとらしいのが少しついていた」
治夫は腕を戻した。少し期待はずれだったようだ。
「なんだよ!そんなのただの月経だろ?3年生ならありえなくはないだろ?」
女の体に関しては小学生の治夫の方が詳しかった。亮平はきょとんとした。
「なんだゲッケイってのは?」
今度は亮平が身を乗り出した。
味噌汁が落ちそうなほど卓袱台が揺れた。
「ん?えっとー…」
「こら!お前たちは食事中に!味噌汁がこぼれるじゃない!」
ここに来て陽子が声を出した。会話の内容に怒ったのではなく卓袱台の夕飯に関してのことであった。
「ちっえ!」
二人は無言のまま手を箸に戻した。すると雅直が昔を懐かしむような口調で語り出した。
「そういや俺も亮平と同じ年の頃4階の便所に行ったなあ。」
亮平は驚き目を見開いた。
「親父もいったのか!あの場所へ!でどうだったんだ?血は流れたのか!?」
かなり興奮しているのか口調が早くなって行った。
「いやちがう。俺らの頃はそのトイレに女の子の幽霊が出るという噂だった。だが何も現れなかったがな!」
雅直は箸を置き大声で笑い出した。
亮平は少しでも父に期待を寄せた事を恥ずかしく思い下を向いた。
「しょうがないわよ亮平。お父さんが中学生だったのは何年も昔よ?噂も時代で変わってくのよ。」
陽子が慰めるように優しい口調で語りかけた。しかし亮平は無言であった。
「あっ!亮兄すねてんの!」
治夫がからかった。亮平は顔を真っ赤にした。
「うるっせえわ!てめえも興味持ってたじゃねえか!」
声が震えていた。喧嘩慣れもしていない亮平は口喧嘩も弱かった。
「久々に見直そうと思ったけど、ただの生理の話じゃねえか!そらからかいたくもなるわ」
「ぐぬぬ…」
亮平はもう言い返す言葉を見失った。
「弟の癖に生意気いいやがって!俺はもう寝る!!」
そう言いつつ亮平は立ち上がり外へ出て行った。夕飯は半分ほど残っていた。
「ちょっと亮平!夕飯残ってるわよー!」
陽子が外へ向けて叫んだ。しかし返答はなかった。
「いいよ母さん。俺が食うから」
雅直が亮平の残飯を自分の茶碗に押し込んだ。
「まったく…」
このように貧しいながらも賑やかな食事が日常だった。少々後味が悪いように思えるが亮平の逆ギレは日常茶飯事だったので
特に気にしなかった。家族の誰もがこの日常に満足していた。
ただこの日の二日後治夫にとって最悪の出来事が起こった。
凄惨で降り注ぐ血の雨の中に治夫は気づくと立っていた。