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まだ、雨はやまない。

                  ☆



 雨が本格的に降りはじめたのは、わたしが図書館から家に帰りついてすぐくらいの頃だった。川の流れる音のような激しい雨音がアパートの外に聞こえた。


 お腹が空いたのでとりあえずご飯を食べることにする。メニューは帰りがけにコンビニで買ってきたピサパンとドーナツだ。それと一緒にコーヒーを飲むことにする。


 廊下に面にしてある小さなキッチンに立つと、銀の缶に入っているコーヒーの粉を紙のフィルターにスプーン一杯半くらいいれる。そしてそれをコーヒーメーカーにセットして、あとは水をコップ二杯ぶんくらい入れてスイッチを押す。


すると、少し間をおいてコーヒーメーカーが水を吸い込んでいくコボコボという音が聞こえてきて、そのあとにコーヒーメーカーから蒸気の吹き出る音ともにガラス瓶に抽出されたコーヒーが静かにたまっていく。


コーヒーのいい香りが部屋のなかに充満した頃くらいにコーヒーは出来上がって、それを昔から使っているお気に入りのマグカップに注いで部屋の方に持る。


 出来上がったコーヒーは大変よくできましたという感じで、美味しいコーヒーを飲んでいると、少しだけ、嫌なことや、寂しい気持ちを忘れて、ほっとくつろいだ気持ちになれる気がする。


 ヴェランダの外に視線を向けると、青と黒を混ぜ合わせてそれを薄めたような色彩をした空間に、雨がくっきりとした白い線になっていくつも走っているのが見えた。


 わたしはそんな外の景色と雨音を聞きながら、買ってきたパンを口に運んでいたけれど、なんだかやっぱり音がないと落ち着かないというか、心細いような気持ちになって、何か音楽をかけることにした。


 とりあえずという感じでMDラジカセのプレイボタンを押すと、ながれはじめたのは、ずっと前にかよちゃんに借りてMDにダビィングした小野リサのホザノバだった。最近家でゆっくりするということがあまりないので、以前聞いていたMDがそのままになっているということが多いのだけれど、でも、コーヒーを飲むのにボサノバのゆったした落ち着いた感じの音楽はちょうどいい感だった。心持さっきよりもコーヒーもパンも美味しくなったように感じられる。


 昼食を食べ終えると、わたしは早速借りてきた本を読んでみることにした。本のどこかにこの本の作者の、雪野透子というひとのプロフィールのようなものが載っていないだろうかと思って見てみたのだけれど、どこにも作者に関する情報は記されていなかった。


 このひとはまだ生きているのだろうか、それとももうずっと昔に亡くなってしまったのだろうか、ひょっとするともしかしてこの本の作者はあの図書館に飾られてあった、あの絵の作者なんじゃないかと変なふうに想像が膨らんで、たぶんそんなことはないだろうと思うのだけれど、でも、なんとなく図書館に飾られていた花の絵と、太陽から聞いた物語のイメージが重なって、あるいはもしかするとなんていうふうに考えているうちに、唐突に鞄のなかに入れっぱなししていたケータイ電話が鳴ったのでわたしの思考は中断された。

 

 慌てて鞄のなからケータイを取り出して着信を確かめてみると、それは吉田くんからの電話で、わたしが通話ボタンを押すと、耳元に懐かしい吉田くんの声が広がった。


「もしもし。わかちゃん?」と、吉田くんは言った。

「もしもし。」と、わたしは言った。

「久しぶり。」と、吉田くんは言った。

「久しぶり。」と、わたしも答えた。この前吉田くんが電話に出なかったとき、もしかして吉田くんに何かあったのかもしれないとわけもなく不安になったけれど、でも、なんでもなかったのだと思ってわたしは安心した。


「この前、電話くれたみたいだけど?」

「うん。」と、わたしは頷いた。「この前な、久しぶりに太陽と池ちゃんと遊んでん。それでな、なんか急に吉田くんに電話してみようって話になってな。」


「そうなんや。」と、吉田くんはわたしのしゃべり方につられて関西弁なって頷いた。そしてそれから、

「ごめん。そのとき風邪ひいてずっと寝込んでたから。」

 と、いくらか申し訳なさそうに言った。


 そう言われてみると、吉田くんの声はなんとなく枯れているようにも感じられた。


「大丈夫なん?」と、わたしが訊くと、吉田くんは、なんとか、と答えて、苦笑するように少し笑った。

「ひとり暮らしだから、風邪ひくとほんと最悪なんだよね。全部自分でやらなきゃいけないから。それに今回の風邪はちょっとひどくて。二三日何もできなかった。」

「そっか。大変やなぁ。」と、わたしは頷いた。わたしも一人暮らしをしているから、一人暮らしで風邪をひいたときの辛さはよくわかるような気がした。


「誰かおらんの?」

「誰かって?」

「風邪ひいたときに面倒みてくれるようなひと。」

「・・・残念ながら。」

 吉田くんはそう答えると、自嘲気味に少し笑った。

「そっか。」と、わたしは曖昧に笑って頷いてから、

「誰か好きなひととかおらんの?」と、訊ねてみた。


 すると、少し間があって、

「・・・いないこともないんだけど、まあ、なんか色々上手くいかなくて。」

 と、吉田くんは歯切れの悪い答えた方をした。

「色々って?」と、わたしが気になって続けて尋ねると、

「色々だよ。」と、吉田くんは照れ臭いのか、答えたくないのか、濁すような返事をした。「いいなって思うひとにはもう他に好きなひとがいたりとかね。」


「・・そっか。」と、わたしは頷いた。わたしが何て答えようと頭のなかで言葉を探していると、「それより、わかちゃんはもう大丈夫なの?」と、今度は吉田くんが尋ねてきた。

「大丈夫って?」と、わたしは吉田くんの言葉の意味がわかりながらも尋ね返した。

「・・加藤くんのこと。」

と、吉田くんはわたしに遠慮するように少し間をあけてから言った。


「それやったら、もう大丈夫やで。」と、わたしはかよちゃんのときと同じ台詞を口にした。「最初は長い付き合いやったし、すごく感情が乱れてしまったときもあったけど、でも今は大丈夫。だいぶ落ちついてきた。」

「・・そっか。」と、吉田くんはどう言ったらいいのかわからないのか曖昧に頷いた。それから、「でも、とにかく、元気だしね。」と、続けて言った。「何もしてあげられないけど、話聞くぐらいだったらできると思うし。」


「・・ありがとう。」と、わたしは吉田くんの言葉に答えた。でもそう答えたわたしの声は、変なふうに震えてしまった。ひとに優しくされると嬉しいのに、声が、哀しみを含んでしまうのはどうしてなんだろうと思う。

 

 少しの沈黙があって、その沈黙のなかに外に降る雨音が静かに広がっていった。


「・・最近はどう?」と、わたしは訊ねてみた。

「どうって?」

「小説。書いてるの?」

「・・うん。」と、吉田くんは頷いた。「ぼちぼち書いてるよ。」

「ほら、前、賞取ったって言ってたやん。あれから何か進展はあったん?原稿の執筆依頼が来るとか?」

「・・・いや、そういうのはまだないけど。」

 吉田くんはわたしの問いにちょっと困ったように軽く笑ってから、

「賞取ったって言っても地方の小さな賞だからね。それが直接何かに繋がるわけじゃないから・・・。」

「そっか。」と、わたしは頷いた。「やっぱり色々難しいんやね。」

 わたしはそう答えながら、少し余計なことを訊いてしまったかなと後悔した。


「でも、小説は書いてるんでしょ?」と、わたしは続けて尋ねてみた。

「うん。」と、吉田くんは頷いた。

「今はどんな話を書いてるの?」

「ん?えーとね、口で説明するのはちょっと難しいんだけど、花の話を書いてるよ。わかちゃんがモデルなんだけど。」

「そうなんや。」と、わたしは少し笑って頷いた。

「自分がモデルなんてちょっと恥ずかしいな。」

「大丈夫だよ。悪いふうには書かないから。」

 吉田くんもわたしの笑い声に誘われるように少し笑って言った。


 わたしはふと大学生の頃のことを思い出した。街を歩いていたらばったり吉田くんとでくわして、そのあと繁華街から少し離れた場所にある、落ち着いて話せる小さな喫茶店に入ってふたりで話をしたことがあった。そのとき、吉田くんはこれから書こうとしている小説の話をしてくれて、わたしはその小説が完成したら見せて欲しいと言って・・一体あれからどれくらいの歳月が流れたのだろうとふと思った。あのときからずいぶんたくさんの月日が流れてしまったように思えた。


「・・小説できたら、また読ませてな。」と、わたしは言った。

「・・うん、またできたら、ぜひ。」と、吉田くんは頷いた。

「・・・そっちは雨降ってる?」と、わたしはなんとなく尋ねてみた。

「・・・降ってるけど、なんで?」

「いや、べつに。訊いてみただけ。」と、わたしは軽く笑って答えた。「こっちは今すごい雨降ってるから。」

「・・雨、止むといいね。」と、吉田くんは言った。

「そうやな。」と、わたしは頷いた。



 

                        ☆



 吉田くんと電話したあとしばらくしてから雨はだいぶ小降りになってきたけれど、それでもまだ雨は淡々と静かに降り続けてなかなか降り止みそうになかった。


 わたしはふと心配になってベランダの外に出てみた。ベランダで育てている朝顔が雨で駄目になってしまっているんじゃないかと不安になったのだ。


 朝顔の芽はベランダの隅の方で雨にずぶ濡れになっていた。きっと気のせいなのだろうけれど、その朝顔の小さな芽は冷たい雨に打たれて寒さに震えているようにも思えた。わたしは心のなかで気がついてあげられなくてごめんねと謝りながら、彼女を比較的に雨に濡れない場所に移動させてやった。


 それからわたしはベランダの手すりにもたれかかるようにして、目の前に広がる暗い色をした空を見つめた。いくらか小ぶりになってきたとはいえまだ降りしきる雨がわたしの衣服を冷たく湿らせていった。けれど、構わずそのままでいた。


 思考のなかにとりとめもなく様々な想いが泡のように浮かびあがっては消えていった。それはたとえば明日の仕事のことだったり、別れた恋人のことだったり、望みちゃんのことだったりした。それらの想いはちょうど世界の、濃い青色に、ほんのわずかに黒色を溶かしたような色素に染まっていった。目に冷たいような、哀しいような色彩に。


 そしてわたしはふいに吉田くんの言葉を思い出した。彼が電話を切る間際に口にしていた言葉。雨止むといいねという言葉。それは希望に向かって解き放たれたささやかな祈りの言葉のようにわたしには感じられた。


 ほんとうに雨が止んだらいいな、と、わたしは願うようにそっと思った。


 

 




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