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わたしたちが思うこと。

「わかちゃんは明日仕事なん?」

 太陽がそう口を開いたのは、車で池ちゃんを家まで送り届けあとしばらく経ってからのことだった。太陽とわたしの家は結構近いのだけれど、池ちゃんの家は少し離れた場所にあって、家の遠い池ちゃんの方から先に送っていくことになったのだ。


「うん、明日も朝から仕事やで。」

 と、わたしは運転している太陽の横顔に視線を向けて答えた。すると、太陽は軽く口元を綻ばせて、「明日仕事やのに誘って悪かったな。」と、いくらか申し訳なさそうに言った。


「べつにそんなことないで。」と、わたしは曖昧に微笑んで答えた。「太陽と池ちゃんに会うのは久しぶりやったし。それに、明日行けばまた休みやし。」


「そっか。それやったらいいんやけど。」と、太陽はわたしの言葉に曖昧に笑って頷くと、それから少し間をあけて、「でもほんまになかなかみんな会われへんようになったよな。」と、静かな口調でポツリと言った。


「そうやなぁ。」と、わたしは太陽の言葉に頷いた。

「昔は時間ならいくらでもあったんやけどな。」

 と、太陽は軽く笑いながら言った。

 わたしは曖昧に微笑して同意した。

「といっても、いま俺は無職やから時間はあるんやけどな。」

 と、太陽はそう言ってから自嘲気味に少し笑った。


 わたしは彼の言葉に少し笑ってから、

「最近はいつも何してるの?」

 と、なんとなく尋ねてみた。すると、彼は、

「今は毎日図書館に通って本読んでるな。」

 と、ちょっと照れくさそうに微笑みながら答えた。


「そうなんや。」と、わたしはちょっとびっくりして言った。彼は大学の頃、どちらかというと本なんてまったく読まないタイプの人間だったのだ。

「どうしたん?急に?」

 と、わたしがいたずらっぽく笑いながら言うと、太陽はわたしの問いにいいわけするように少し笑って、

「せっかく時間があるんやし、この機会に本でも読んどこうかなぁって思ってな。」

 と、答えた。

「そっか。」と、わたしは頷いた。


「あと、吉田の影響もあるかな。」

 と、太陽は少ししてから付け足して言った。

「吉田くん?」と、わたしは少し疑問に思って訊き返した。すると、太陽はわたしの言葉に軽く頷いてから、

「昔、吉田が面白いって言ってた小説のことを思い出してな、それで暇やし、なんとなく読んでみようかなって思ってな。」


「いい心がけやん。」

 と、わたしがからかうように言うと、太陽は照れくさそうに曖昧笑っただけで何も言わなかった。


 夜の一時を過ぎてしまった車道にほとんどの車の姿は見られなかった。街頭の淡いオレンジの光が寝静まった町並みは静かに照らし出していた。そんな雨に濡れた町並みを見つめていると、何がどうということもなく、少ししんみりとした気持ちになった。冷たい雨に濡れた夜の街の光が、視界を通して心の中にすうっと染み込んでくるような気がした。


「この前、春に咲く花っていう小説を読んだんやけどな。」と、しばらくしてから、太陽はふと思いついたように言った。わたしは窓の外に向けていた視線を太陽の横顔に戻した。


 太陽はわたしの顔にちらりと視線を向けると、再び視線を前方に戻しながら、「わかちゃん、雪野透子っていう作家知ってる?」と、訊いてきた。 


「わからへん。」と、わたしちょっと考えてから首を傾げるようにして答えた。わたしは本を読むのは嫌いではないけれど、かといって熱心な読書家ではなくて、流行の小説を読むくらいのものだったから、流行作家の名前か、もしくは古い大御所の、たとえば夏目漱石とかくらいの作家の名前しかわからなかった。


「それって有名なひとなん?」と、わたしが試しに訊いてみると、太陽は軽く首を傾げるようにして、「いや、俺もよくわからへんねんけどな。」と、苦笑するように少し笑って、それから、「とにかくな、この前図書館にいったときに、たまたまそのひとの本を見かけて読んでみたんよ。」と、太陽は話を続けた。


「それでな、そのひとの小説がめっちゃ良くてな・・良いっていうか、考えさせられたっていうか、印象に残ったっていうかなあ・・・」

「どんな話なん?」

 と、わたしは気になって尋ねてみた。 


 すると、太陽は、「一口で説明するのはちょっと難しいんやけどな。」と、少し困ったように笑ってから、物語のあらすじを簡単に話して聞かせてくれた。



 太陽の話によると、その春に咲く花という小説は、戦前の日本を舞台にした小説みたいだった。主人公は若い女の人で、その女の人には敬愛するお兄さんがひとりいる。彼女のお兄さんはとても優しいひとで、美術大学で絵を学んでいる。でも、徐々に戦況は厳しくなっていって、やがて学生である彼女のお兄さんも徴兵されて満州の戦場に行かなければならなくなる。


 彼女のお兄さんは戦場に行ってからも、妹にあててときどき手紙を送ってきてくれていたのだけれど、あるときからパッタリとその手紙が届かなくなってしまう。


 主人公の女のひとは兄が死んでしまったんじゃないかと不安に思いながら毎日を過ごしているのだけれど、果たしてその予想は的中して、やがて彼女のもとにお兄さんが満州で戦死したという知らせが届く。


 彼女はその事実を知って、悲しみにくれるのだけれど、その悲嘆に暮れている彼女のもとに、ある日、届くはずのないお兄さんからの手紙が届く。


 主人公の女のひとは兄が戦死してしまったというのは何かの間違いで、実はまだ兄は生きていたんだと嬉しく思って、慌ててその手紙を開封する。


 でもその手紙を読んでいくうちに、それは彼女のお兄さんがまだ亡くなる以前に出した手紙だということがわかる。戦況が悪化したことで郵便がスムーズに届かなくなり、一ヶ月以上前に出した手紙が今になってやっと届いたのだ。


 手紙には、一厘のきれいな花の絵が同封されていて、その花は、寒い満州で、春になると一番最初に咲く花だということが、手紙の文末に付け加えるように書かれてあった。


・・戦争が終わってだいぶ月日が流れてから、主人公の女の人はその花を実際に見てみるために、かつてお兄さんが戦死した地方を訪ねていく・・・太陽の話によると、だいたいそんなふうなことが書かれた小説であるみたいだった。


「・・・なんかちょっと哀しい話やな。」

 と、わたしは太陽の話を聞き終わってからそう感想を述べた。

 太陽はわたしの言葉に頷くと、何かを考えるように少しの間黙っていたけれど、やがて、

「こういう物語を読むと、どうしても運命とかそういうことを考えてしまうよな。」

 と、静かな口調で言った。

「運命?」と、わたしは太陽の言葉を繰り返して言った。


 太陽は、「だってな。」と、言うと、前方に視線を向けたまま言葉を続けた。「だってな、戦前の日本に生まれてしまったら、否応なく戦場にいかなあかんやん。・・・そのお兄さんはほんとうは戦争になんて行きたくなかったやろうし、まだ死にたくなかったやろうし、絵が描きたかったやろうなぁって思うと、なんか哀しいというか、虚しい気持ちになるな。」


 そう言った彼の表情は、街灯の淡いオレンジ色の光のせいか、少し哀しそう映った。


「・・・俺たちはまだ今の日本に生まれたから、少しは自分の未来を自分で選択していくことができるけど、たとえば、北朝鮮の貧しい家庭に生まれたひととか、アフリカの食べ物ない国に生まれたひとたちはそんなことできひんやん。ただその日その日を生きていくだけで精一杯やったりするやん。・・・なんで世の中ってこんなに不平等にできてるんやろうなって思うな。」

「・・・確かにな。」と、わたしは彼の言葉に頷いた。


「そして俺らは世の中にはそんな恵まれない環境にあるひとたちがたくさんいるのを知ってるのに、そのひとたちのために何もしてへんやん。


 べつにそのひとたちのことがどうでもいいとは思ってへんつもりやけど、結局、究極のところでは、自分さえよければそれでいいと思ってしまっている自分がいるような気がしててしまってな・・・


 そのひとたちのために自分に何ができるかを考えるよりは、自分の興味のあることとか、物欲とか、そういうことばかり考えてしまっている自分がいてな・・それでそんなふうに考え出すと、だんだん色んなことがよくわからへんくなってくるっていうか、自分がすごく汚い人間のように思えてきて嫌になるな・・・・。」


 わたしは黙って太陽の言葉に耳を傾けながら、でも確かに太陽の言うとおりかもしれないな、と思った。


 そんなあからさまに自分さえよければそれでいいと思っているつもりはないし、基本的にはみんなが幸せになれたらいいなと思うけれど、でも、究極のところでは、やはり、自分さえよければ、自分にとって身近な、親しいひとたちさえ幸せであればそれでいいと思ってしまっている自分がいるような気がした。


 わたしはひとのために何かできることをするよりは、どうやったら自分がもうちょっと幸せになれるかとか、日々に対する不平不満だとか、恋人と別れて哀しいとか、そういうことばかり考えてしまっていて、世の中の、わたしなんかよりももっともっと苦しい立場におかれたひとたちことをかえりみたことなんてほとんどなかったように思った。


 そしてそのことに気がついた今この瞬間にも、そのひとたちを救うために積極的に努力していこうとは思えない自分がいて、そんな自分は最低かもしれないと思った。少し後ろめたい気持ちになった。


 でも、同時に、そんな自分はどうしようもないとも思った。わたしはもう、自分のことだけで精一杯なのだ。どうすればいいのか、どうすることが正しいことなのか、わたしにはよくわからなかった。


「・・・とにかく、その小説を読んで色々考えさせられたな。」

 と、わたしがぼんやり自分の思考のなかに沈んでいると、となりで太陽が話に区切りをつけるように言った。それから、太陽は横目でちらりとわたしの顔を見ると、「全然関係ないんやけどな。」と、いくらか改まった口調で言った。


「その図書館の出入り口にな、めっちゃ綺麗な絵が飾ってあるんよ。」と、太陽は言った。

「花の絵でな、多分水彩画やと思うんやけど、きれいな水色の花の絵でな・・それでさっき言った小説のせいか、めっちゃその花の絵が気になってな。なんとなく、その花が、小説のなかにでてくる春の花のような気がしてな・・・。」


「誰か有名なひとが描いた絵なん?」

 と、わたしが尋ねてみると、太陽は、「いや、俺もよくわからへんねんけどな。」と、首を傾げるようにして答えて、「でも、小さな図書館に飾ってある絵やし、そんな有名なひとの絵じゃないと思うで。」と、少し自信なさそうに答えた。


「絵の下に名前が書いてあって、たぶん女の人やったと思うけど、ちょっと忘れてしまったな。」と、太陽はそう続けて言ってから苦笑するように少し笑った。


 わたしは太陽の言葉に曖昧に笑ってから、「また今度休みの日に、その小説と、絵を見に行ってみるわ。」と、言った。

「うん。まあ、気が向いたら見てみてや。」と、太陽は微笑んで言った。




                   ☆


 その日、結局、吉田くんから電話がかかってくることはなかった。



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