優しい夜と孤独
ふいに、何かが頬を濡らした。
最初それは自分の涙だと思ったのだけれど、でも、それは違って、雨だった。
とうとう降り始めたんだ、と、わたしは思った。雨が。
わたしは歩みを止めると、空を見上げてみた。
空には灰色の絵の具を水に溶かして薄めたような雲が広がっている。
わたしは右手を宙に差し出して手のひらを表に向け、その舞い落ちてくる小さな水の粒を受けてみた。
すると、手のひらに、雨粒の、哀しいような冷たさが、とても静かに広がっていった。
☆
「わかちゃんがうちに来たのってめっちゃ久しぶりやね。」
と、かよちゃんは楽しそうに微笑んで言った。
「そういえばそうやなぁ。」
と、わたしも微笑みながら、フローリングの床の上に腰を下ろした。
実際に、彼女の家に遊びに来たのは随分と久しぶりのことだった。最後に来たのはいつだろうと考えて、よく思い出せなかった。たぶんもう三ヶ月以上前のことだ。社会人になって働くようになってから、学生のときの友達と遊ぶ機会はめっきり少なくなってしまった。
仕事が忙しくてなかなか時間の都合がつかないということもあったけれど、でもそれ以上に、みんなそれぞれ生活の基盤となる場所が変わってしまったような気がする。何か特別なことでもない限り、みんなで集まることはなくなってしまった。今日かよちゃんの家に遊びに来ることになったのも、べつに前もって約束をしていたわけではなくて、買い物をした帰りに、街でばったり彼女と顔を会わせたからだった。
かよちゃんは自分の荷物を置くと、とりあえずという感じでテレビをつけた。すると、部屋のなかに賑やかな笑い声が溢れた。なんとなくテレビの方に視線を向けてみると、今テレビではバラエティ番組がやっていて、見たことのないお笑い芸人が何かコントのようなことをやっていた。テレビのなかの観客がどっと楽しそうな笑い声をあげて、その笑い声を聞いていると、よくわからないけれど、ほっとくつろいだ気持ちになれた。
「わかちゃん何か飲む?」
と、少し経ってから、かよちゃんがふと気がついたように言った。
「いいで。そんな気をつかわんでも。」と、わたしは答えたけれど、彼女はそんなわたしの言葉を聞き流して、それまで座っていたフローリングの床から立ち上がると、玄関と一体化しているキッチンの方まで歩いていった。
そしてそこで立ち止まって、わたしの方を振り返ると、
「紅茶とコーヒーやったらどっちがいい?」
と、訊いてきた。
わたしは少し迷ってから、「じゃ、コーヒーで。」と、答えた。
かよちゃんは、「了解。」と言って微笑むと、コーヒーメーカーを準備して、コーヒーをいれる準備をはじめた。
しばらくすると、コーヒーメーカーから蒸気の吹き出る音が聞こえてきて、そのあとにガラスビンに抽出されたコーヒーの溜まっていく音と、コーヒーのいい香りがふんわりと漂ってきた。
わたしは彼女がコーヒーを入れてくれている間、べつに意味もなくぐるりと彼女の部屋を見回してみた。
かよちゃんが一人暮らしをしている部屋は、全体的に白で統一されたシンプルな部屋だ。六畳もないくらい部屋なのに、空間の使い方が上手なせいで、あまり窮屈な感じを受けない。ほぼ正方形に近い形をした部屋の右隅にベッドがあって、その反対側にはスチールラックがある。ラックには、テレビとかコンポとか雑誌とか絵本とか、その他細々としたものが綺麗に整頓されて並べられている。ラックとベッドの中間くらいのスペースに、白くて丸いデザインの、かわいらしいテーブルがひとつ置いてある。ベッドの後ろには鏡台があって、その反対側にはタンスがある。化粧台とタンスの向こう側はベランダになっていて、そのベランダの前には無地で白のカーテンがかかっている。
突然のわたしの訪問にもかかわらず、彼女の部屋は綺麗に片付けられていて、わたしの部屋とは大違いだな、と、わたしは感心してしまった。
「できたよ。」と、言って、やがてかよちゃんがコーヒーの入ったマグカップをふたつ持って戻ってきた。マグカップは赤と黄色の可愛い感じのもので、そのマグカップのふちの内側には、フランス語で、こんにちは。楽しいひとときをどうぞ、というようなことが書かれてあった。
「砂糖とかミルクとかいる?」と、かよちゃんはテーブルの上にマグカップを置くと言った。「あ、大丈夫。」と、わたしは微笑んで答えると、そのままコーヒーを一口啜った。かよちゃんも何も入れずに口に含んだ。
かよちゃんのいれてくれたコーヒーは濃くがあって、すごく美味しかった。わたしがそう言うと、彼女は少し嬉しそうに笑って、「このコーヒー豆、スターバックスで買ってきたやつやねん。」と、いくらか得意そうに教えてくれた。
わたしとかよちゃんは少しの間テレビを見るともなく見ながら無言でコーヒーを啜った。しばらくするとテレビ画面を眺めていたかよちゃんが、「あのひと、誰かに似てるなぁって思ったら、太陽に似てるなぁ。」と、可笑しそうに笑いながら言った。
彼女に言われて今テレビに映っているその若いお笑い芸人のひとの顔をよく見てみると、なるほど、彼女のいうとおり、そのひとは学生時代の友人である太陽にそっくりだった。
「ほんまや。」と、わたしが笑いながら頷くと、かよちゃんもつられるように少し笑って、「あれもしかしてほんまに太陽なんちゃう?」と、冗談で言った。
「太陽いつの間に転職したん?」と、わたしも楽しくなってきて言った。
「だけど、最近太陽どうしてるんやろ。」
と、かよちゃんはちょっと真面目な表情に戻って言った。
「わかちゃん、最近太陽にあった?」
と、かよちゃんはわたしの方を振り向くと訊いてきた。
「ううん、全然会ってへん。」と、わたしは小さく首を振って答えた。
太陽に最後に会ったのはいつだろうと考えているうちに、急に太陽のことが懐かしくなってきた。学生の頃はほとんど毎日のように会っていたのに、最近では滅多に会えなくなってしまった。太陽や他のみんなに最後に会ったのは、もう三ヶ月以上前のことだった。そう思うと、急に何だか少し寂しいような気持ちになった。
「太陽、あれから新しい仕事先見つかったんかなぁ」
と、かよちゃんはコーヒーを一口啜ってから言った。
「さあ、どうなんやろ。」と、わたしは曖昧に返事を返した。
太陽は大学を卒業したあと小さな建築事務所に就職して働いていたのだけれど、最近、その会社を辞めて無職になっていた。太陽の話では、会社の経営状態が思わしくなくて、辞めてもらえないかと社長に頼まれたのだということだった。
「でも、しばらくはゆっくりするって言ってたから、まだ何もしてないんちゃう?」
と、わたしは少し考えてから言った。「働いてるときは休みがなくて、自分のしたいこと何もできひんかったから、しばらくはゆっくりしたいみたいなこと言ってた気がする。」
「そっかー。」と、かよちゃんはわたしの言葉に頷くと、少しの間黙って何か思いを巡らせている様子だったけれど、やがて、「だけど、うちらもう二十五になるんやね。信じられへんわ。」と、しみじみとした口調で言った。
「そうやね。」と、わたしは苦笑するように微笑にして頷いた。
高校生ぐらいの頃は、自分が二十五歳になるなんて想像することすらできなかった。でも実際になってみると、案外あっけないものだった。ちょっとあっけなさすぎるくらいだった。年齢だけが、どんどん勝手に一人歩きをしていくという感じがあった。ほんの昨日まで十九とか二十歳だったのに、ある日突然、はい、じゃあ明日から二十五歳です、と言われたような、そんな唐突で理不尽な感じすらあった。
「・・・この前な、高校のときの友達の結婚式があってん。」
と、かよちゃんは少し経ってから、ふと思い出したように言った。
「・・・女の子の友達なんやけどな、その子、高校のときの同級生の子と結婚してん。それでな・・・。」
と、かよちゃんはそこまで口にしてから、ちょっと躊躇うに、何かを確認するように、わたしの顔をちらりと振り返った。そして一呼吸ぶんくらい間をあけてから言葉を続けた。
「それでな、結婚式には他にも高校のときの同級生の子が一杯きててな・・それでそのなかに、わたしが高校のとき片思いしてた子もおってん。」
彼女はそう言ってから、少し恥ずかしそうに小さく笑った。
「べつに今はなんとも思ってないで・・けどな、ちょっとその当時のことを思い出してな・・・なんかよくわからへんねんけど、めっちゃ切なくなってしまった。」
「そんなことがあったんや。」と、わたしは曖昧に微笑して頷いた。そして頷きながら、わたしにも高校のとき似たようなことがあったな、と、懐かしさと切なさが入り混じったような複雑な気持ちになった。
高校生のとき、わたしにはひとつ年上の好きなひとがいた。でも、そのひとにはもう恋人いて、わたしの気持ちは届かないままに終わってしまった。そのひとは今頃どうしているのだろう、となんとなく思った。ひょっとすると、かよちゃんの友達と同じように、もう結婚していたりするのかもしれない。
「せっかく再会したんやから、思い切って声かけてみたら良かったのに。」
と、わたしは冗談めかして言ってみた。「今度ふたりで遊ぶ約束するとか。」
すると、かよちゃんは、「そんなの無理やわ。」と、恥ずかしそうに笑って、「それにその子、彼女おるって言ってたし。」と、続けて言って微笑した。
「そっか。それは残念やな。」
と、わたしもかよちゃんの笑顔に誘われるようにして微笑して、コーヒーを一口啜った。
それから、僅かな沈黙ができて、その沈黙なかにテレビの音がくっきりと浮かびあがった。すごくタイムリーなことに、テレビでは結婚式場のコマーシャル流れていた。
「・・・わかちゃんはもう大丈夫なん?」
と、いくらかの沈黙のあとで、かよちゃんはわたしの方を振り向くと、ちょっと遠慮がちな声で言った。
わたしがなんのことだろうと思って彼女の言葉の続きを待っていると、彼女は、
「・・・加藤くんのこと、もう大丈夫なんかなぁっと思ってな。」
と、少し小さな声で言った。
わたしが咄嗟のことに何も言葉を発せられずいると、かよちゃんは更に言葉を継いだ。
「・・・もし、嫌なこと思い出させてしまったんやったらめっちゃごめんな。でも、わかちゃん、別れたばっかりのときすごく落ち込んでたし・・・あれから少しは落ち着いたんかなって思って。」
「うん、もう大丈夫やで。」と、わたしはかよちゃんの言葉にいくらか無理に微笑んで答えた。「・・・別れたばっかりのときは、長い付き合いやったし、すごく落ち込んでしまったけど、もう大丈夫。そんなに思い出したりしんくなってきた。」
「・・・そっか。それやったらいいんやけど。」と、かよちゃんはちょっとの間心配そうにわたしの顔を見つめていたけれど、やがて頷いた。そして少し間を空けてから、「でも、何か話したいこととかあったらいつでも言ってな。」と、付け加えるように言った。「何もしてあげられへんけど、話聴くことぐらいやったらできると思うし・・。」
「・・ありがとう。」と、わたしは言った。でも、そう言ったわたしの言葉は、いくらかぎこちなく部屋の空気を震わせていった。
わたしは今から三ヶ月程前に、約四年半付き合った恋人と別れた。そのひととは結婚するつもりでいて、実際に婚約までしていて、お互いの親にはもう挨拶をすませて、あとは結婚式をあげるだけというところまでいっていた。ふたりで結婚式はどんなふうにしたいとか、そういう話し合いをしていて・・そういう話し合いをしているのはすごく楽しくて・・・でも、それなのに、些細な考え方の違いから喧嘩になって、言い合いになって、最後には、ふたりの関係は完全に壊れてしまった。
・・・どうしてそんなことになってしまったのだろうと思う。でも、たぶん、わたしが悪かったのだ。今なら少しは冷静に自分間違いを認めることができる。たぶん、わたしは彼の愛情に甘え過ぎてしまっていたのだ。
ちょっとぐらい我が儘を言っても、彼はわたしの意見を全部受け入れてくれると思い込んでいた。でも、そのときの彼はいつも違って、わたしの考えを、わたしの我が儘を、なかなか受け入れてくれようとはしなかった。
そして、わたしは自分の我が儘を受け入れてくれない彼に対して、腹を立てた。
でも、ほんとうはそんなことはすべきじゃなかったのだ。わたしの方が彼に謝らなければならなかった。そんなことはちょっと考えればわかりそうなものに、でもそのときのわたしはすごく興奮していて、自分のことばかり考えてしまっていて、そのことに気がつくことができなかった。そして気がついたときには、もう、わたしは彼を失ってしまっていた。
・・わたしはまだ彼のことが好きだし、できることならもう一度やり直したいと思うけれど・・でも、それは不可能なことだ。あんなひどいことを言ってしまったのだから・・今更彼が許してくれるはずがない・・たから、諦めるしかない・・それはわかっているのだけれど・・わかっているはなんだけれど・・。わたしの思考は同じところをグルグル回る。でも、出口は見つからない。
「・・・元気だしてな。」と、わたしが黙っていると、わたしに気を使ったのか、かよちゃんは優しい声でそう言ってくれた。わたしはありがとうと答えたけれど、そう答えたわたしの声は、彼女の言葉が嬉しかったのと、彼のことを思い出して悲しくなってしまったのとで、泣き笑いのような変な声になってしまった。
そのわたしの声を聞いてかよちゃんは少し可笑しそうに口元を綻ばせると、それからすぐに優しい笑顔で、「わかちゃんにはまたすぐにいいひと見つかるって。」と、明るい声で慰めてくれた。
「ありがとう。」と、これで何回目になるともなくわたしは彼女にお礼を言った。
「かよちゃにもすぐにいいひと見つかるで。」と、わたしがお返しのようにそう言うと、かよちゃんは軽く笑って、「そうなってほしいもんやわ。」と、おどけて答えた。
かよちゃんも一年くらい前に付き合っていたひとと別れてからずっとひとりでいるみたいだった。
「・・・お互いなかなか上手くいかへんもんやな。」
と、わたしは少し間隔をあけてから苦笑まじりに言った。すると、かよちゃんもつられるようにして小さく笑って、そうやね、と、頷いた。
また沈黙ができて、テレビの音がやわからくその沈黙の輪郭を縁取っていった。ふと部屋の時計に目をやってみると、いつの間にか、時刻は夜の九時半を回ろうとしていた。
「かよちゃんは明日仕事?」
と、わたしはかよちゃんの横顔に視線を向けてからなんとなく尋ねてみた。すると、かよちゃんは口にしていたマグカップをテーブルの上に戻してから、「うん。」と、短く頷いた。
「明日は九時から仕事やね。」と、彼女はちょっと憂鬱そうに眉をしかめて言った。かよちゃんは大学を卒業したあとアロマテラピー関連の会社に就職したのだけれど、人間関係のごたごたとか色々あってその会社を辞めて、今はアルバイトで入った花屋さんで契約社員という形で働いていた。
「わかちゃんも明日は仕事?」
と、かよちゃんはわたしの方を振り返ってそう尋ね返してきた。
わたしは彼女の言葉にうん、と頷いてしまってから、急に明日働くことが億劫になってきた。わたしは大学を卒業してから、植栽関係の会社で働いている。わたしの働いている会社はまだ比較的きちんと土日休みがもらえる方ではあるけれど、それでも毎日のように残業になってしまうし、義務とか目標とか、そういうことに追われて、ときどきうんざりしてしまうことがあった。
「・・・もっとゆっくり時間があったらいいんやけどなぁ。」
と、わたしが冗談まじりに言うと、かよちゃんは軽く微笑して、そうやね、と頷いた。そしてそれから、「もしゆっくり時間があったら、またみんなでどっか旅行に行きたいよな。」と、静かな口調で言った。
「そうやね。」と、わたしは曖昧に微笑して頷きながら、でもきっとそんなふうにゆっくりできる時間は、これから先どうぶん来ないんだろうな、と、諦めるように思った。そしてそう思うことは、何がどうということもなく、少し、寂しいような気がした。
☆