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戦いの大地  作者: 深海聡


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3/6

光のない場所

「もう少しで、全て終わるわ」


 漆黒の空間で、女は独り呟く。

 その膝の上に乗せた頭にそっと触れ、優しい仕草で髪をすく。しかし、どれほど触れても閉じられた目が開くことはないと彼女は知っていた。

 深い、深い眠りの中を彼は彷徨っている。並の人間の一生に近い時間を、彼は既に眠り続けていた。

 老いも死も、世界の理は全ての者に平等だ。ただ、その速さを除いては。

 花は散り、木々は倒れ、器は毀れる。生きるものも人が作った物も、形あるものはいずれ塵に還る。

 親しいものも、憎いものも、愛しいものも、厭わしいものも、ありとあらゆるものを彼女は見送ってきた。

 人の命はあまりにも儚い。

 悲しいという感情も、寂しいという感情も既に色褪せてしまった。

 あるいは100年の孤独は人の心を凍らせるに十分なのかもしれない。

 かつての彼女の姿を知る者にとっては、それはあまりにも無気力で無関心な様子に見えただろう。

 彼女の知る限りこの世界の中で最も静かで安全な場所で、エセルメリアは夫であるアクティスの傍らに何をするでもなくじっと居続ける。

 決まりきった毎日を繰り返し、一日の大半をアクティスの傍らに座り込んで過ごす。

 墓守のようだと彼女の息子は言い、首を振りながら外の世界へと出て行った。

 次第に外界への興味を失っていくかのようなエセルメリアの様子を何かと気に掛けていた長女レイリアも、足が遠のいて久しい。

 近頃ではレイリア自身が、自らの住んでいる塔から外出しなくなってしまったというが、その理由を聞いてもエセルメリアは何の行動も起こさなかった。

 長い長い、長過ぎる時間は人の意思と気力を奪うに十分であるかのように見えた。

 しかし、エセルメリアを良く知る者がその姿を目にしたならそんな考えを一笑に付しただろう。

 彼女は待っているのだ。

 ただひたすらに時を待っているのだ。


「お母様」


 微かな衣擦れの音と共に、一人の乙女が姿を現しエセルメリアにささやき掛ける。

 ほころびかけた白い花のような、清廉さと可憐さの不思議な調和を感じさせるその整った容姿は、濃紺のたっぷりとした飾り気のないローブと、顔の両脇で無造作に束ねられた黒い髪と相まって、聖女のような独特の雰囲気を醸し出していた。


「アシェル兄様が “闇狩り人” を見つけ出されたようです。それと、あと一刻ほどもすればレイリア姉様がお着きになるはずです」


「そう……。ありがとう、レネラ」


 エセルメリアはレネラの言葉にそっと瞳を伏せると、アクティスの頭を優しく枕に乗せ直して寝台から降りた。

 彼女が歩く度に、磨き抜かれた漆黒の床の上にさざ波が立つ。

 しかし、その水は彼女の足も、身にまとった衣もぬらすことはない。

 時間の流れも、光もない空間の狭間。

 エセルメリアは、その中でかろうじて命を繋いでいる夫を振り返る。

 次に彼を起こす時は、共に命を終える時だと覚悟していた。その時が近いことを予感して、彼女は小さく微笑んだ。


「お母様?」


 近頃めっきり笑顔の減ったエセルメリアの、久方ぶりの穏やかな笑顔にレネラは首をかしげる。


「最後の大仕事になるわ」


 ピクニックに行く話しでもしているかのように、この上もなく弾んだ、晴れやかな声で言い放たれた言葉にレネラは声もなく立ち尽くした。

 そんな娘に、エセルメリアはどこまでも穏やかな笑みを浮かべて語り掛ける。


「レネラ、わたくしは今、近頃なかったほど気分が晴れ晴れとしているの」


 エセルメリアは自分よりも頭半分背の高い娘を抱き寄せて、静かに言葉を紡ぐ。


「わたくしは、ごく平凡な心と、非凡な力を持って産まれてしまった。……そして、非凡な生き方しか選べなかった。昔は時々思ったわ、平凡な生き方を出来たらどうなっていたかと」


「どうなっていたと思われたのですか?」


 レネラの問いに、エセルメリアは目を伏せておっとりと呟く。


「そうね……。きっと今ほど幸せにはなれなかったと思うわ」


「幸せ……ですか?」


「そう。平凡な人生には、間違いなくアクティスも、貴女たちもいないでしょうから」


 考え込む様子の娘を抱き寄せて、エセルメリアはその背を子供をあやすように優しく触れた。

 緊張した表情で話しを聴いていたレネラは、そっと目を閉じて母に身を預けた。

 優しい手の温もりと、耳に心地良い話し方。レネラは、間違いなくこの方こそが “母なる者” だと思った。

 目に映る全てのものを守り、慈しみ、育む。それがエセルメリアという人物の本質であり、与えられた資質。

 それを知っていても悲しくなる。

 人々の幸せを願うこの方の幸せは一体どこにあるのかと、問い掛けたくなる。

 それはあらかじめ定められたことなのだと “お母様” は微笑むだろう。優しく強い母の顔で。

 分かっているのだ。嘆いても抗っても、世界は滔々と澱みなく流れる大河に似て、個の思いなど一粒の小石にも満たないと。

 流れを変えるには、幾つもの岩を投じなければならない。託された幾つもの思いと力は、少しずつ流れをたわめ、世界はひとつの終わりへと流れていこうとしている。


「昔、教えてもらったの。私が生きることの意味を。彼女は、とても強い女性だったわ。強くてしなやかで、誇り高い人だった」


 すっかり自らの思考にはまり込んでいたレネラに、エセルメリアは静かに語り掛けた。

 普段は昔のことをほとんど語らないエセルメリアの意外な言葉に、レネラは目を見張る。


「自らの現実を受け入れられなかった未熟な私を、時に怒りながら彼女は献身的に支えてくれた。あの人こそが、私の目標の全てだったわ」


「その方は、その後は……」


「彼女は帰って行ったわ。自らの在るべき世界に」

 エセルメリアの説明にいぶかしげな反応を返すレネラに、エセルメリアは悪戯っぽく笑う。


「彼女は異界の人で、世を渡り、運命を操り、他者の魂をその身に宿らせたまま転生を繰り返せるほどの強大な力を持った人だったの」


「……失礼ながらお母様、どういう方なのですか、その方は」


「本人は “私はただの学生よ!” と、胸を張っていたわ」


「学生、ですか?」


「そう、学生。彼女のいた世界では、その頃は人生の1/4ほどの期間を学ぶことを生業として過ごすのが中流階級以上の子女の間では当たり前だったのよ」


 穏やかに笑いながら語るエセルメリアの言葉に、レネラは再び首をかしげる。


「その世界は随分と満ち足りた世界のように思えますが、人生の1/4というと何年ぐらいなのですか?」


「そうね。20年ほどと聞いたことがあるわ」


「20年……ですか」


 呆然と呟くレネラに、エセルメリアは苦笑する。


「あなたや私にとってはほんの束の間の時間でも “ただの” 人にとっては長い時よ」


 レネラをたしなめて、エセルメリアは遠い目をする。

 思うのは、いつかの日々にいた人々。

 力を持たない “ただの” 人でありながら、大きな力を持つ王族に反旗を翻した人々。

 彼らはエセルメリアにとってはほんの束の間を一生とする、弱く小さな存在。


「彼らは輝いていたわ。軽やかで眩しく、生き生きとしていた。あれほどみずみずしい命を、私は他に知らない」


 土と血と汗にまみれて共に戦った人々。笑顔も、涙も、その死さえも強烈な色彩を帯びて色褪せない記憶。


 ーーもうすぐ、わたくしたちも参ります。


 目を閉じればそこに在るかのような懐かしい人たちに呼び掛ける。

 それは久方振りに、心躍る感覚だった。

 レネラに視線を戻し、エセルメリアはゆったりと立ち上がる。


「レネラ。あなたは彼らを守りなさい。全ての理から外れたあなたにしか、それは出来ないことなのだから」


「はい、お母様」


「彼らは互いに傷つけ合い、裏切り合う未熟さを持っていますが、許し合い、労り合う優しさも知っています。そして、純粋で一途でな激しさも秘めている。そんな人間たちを、どうかわたくしの代わりに守って」


「はい。……では、行って参ります」


 腰を屈めて深々と頭を下げ、踵を返した娘の後ろ姿にエセルメリアは目を細める。

 優しい、心根のまっすぐな娘に育ってくれたと思う。

 これでもう、あの娘は大丈夫。あの娘に対するエセルメリアとアクティスの役目は終わった。

 寝台に歩み寄り、時の止まったままの夫の腕に触れる。


「起きてください、旦那様。わたくしの騎士様。わたくしが最後の使命を全うできるように、約束を守って」


 エセルメリアの手のひらから、静かに光がアクティスの体に染み込んでいく。

 ピクリとも動かなかった瞼が開いて、深い青の瞳がエセルメリアを捉えた。


「おはようございます、私の姫君」


 ゆっくりと感覚を確かめるように起き上がったアクティスは、朝目覚めた習慣のままにエセルメリアを抱きしめて挨拶をする。

 再び時を刻み始めた体は温かく、同時にエセルメリアはサラサラと残された命が零れ落ちていく音を聴く。

 何という、儚くも美しい音なのだろう。


「どうか、最期の仕事を共に」


「喜んでお伴しましょう」


 微笑む妻の手を取り、軽く触れる程度に唇を落とす。

 どちらからともなく微笑みを交わして、二人は寄り添いながら扉の向こうへと足を踏み出した。

 光ある場所へ。

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