焦土の歌い手
天空から注ぐ朝日に照らされて、娘は顔を上げた。
まとう深緑のマントは旅のほこりにくすみ、青ざめた頬にも土がこびりつき、涙の筋をくっきりと残している。
虚ろに見開かれた目からは乾くことのない涙がこぼれ、ほつれた髪を濡らす。
人目を避けるためにかぶせられた幻影である明るい茶の髪と瞳、そばかすの浮いた日焼けした容貌が、強い感情の揺らぎによって漏れ出た力によって剥がれ落ちる。
眩く輝く金の髪、朝露に濡れた新緑のような緑の瞳、雪花石膏の肌。
人間離れしたその容貌は、まさしくこの世で最も神秘的で美しい種族と言われる純血の風の竜族のもので。
土にまみれても損なわれることのないその美貌が、悲嘆に歪む。
なぜ?
娘の唇が動き、息の漏れる音が空しく響く。
そのことに打ちひしがれたように、娘は顔を覆うと、激しく泣き始めた。
朝日が、闇に隠された谷を浮かび上がらせていく。
そこには、死があった。ただただ、死が満ちていた。生きている、動くものは泣き止むことのない娘のみ。そこにあった命は、虫の1匹すらも残さず焼き尽くされていた。
それが、風の竜族の最後の秘境、シルヴァリの谷の最期だった。
その娘を見つけ出した男は、娘の様相に言葉を失った。
血まみれの指先、壊れた竪琴、声を失った旅装束の娘。
彼はひと目で理解した。何が起きたのか、自分がなぜそこに呼び寄せられたのか。男は顔を歪め、細く息を吐いて空を仰いだ。
まさに今夜が明けようとしている空は、目に染みるような鮮やかな赤が、幾筋もの雲と重なりあって何とも荘厳な眺めだ。
ただそれが焼けただれた廃墟と心が壊れかけた傷だらけの娘を照らしているとなると、何とも壮絶な光景にしかならないが。
男は心を落ち着かせるように一瞬目をつぶると、ぼんやりと座り込んだままの娘にツカツカと歩み寄った。
娘の視界に入る場所まで行くと、それ以上近寄ることもせず、娘を見下ろす。
うなだれたまま、ピクリとも動かない彼女に眉をしかめると、彼は苦々しげに口を開いた。
「そのまま朽ちるつもりか?」
遮るもののない風が吹く中で、男の声は不思議と良く通った。
容赦の欠片もないその言葉に、それまで無反応だった娘が青ざめた生気のない顔をゆっくりと上げた。
「私はお前の同胞に喚ばれた者。しかし、竜族の召喚に応じ、こうして託されたからといって私にも死人を生かすことはできない。お前は死人か、それとも生者か?」
厳しい口調で問う男に、娘はゆっくりと顔を上げると、ふらつきながら立ち上がった。
私は、生きている。
娘は自分の胸に手を当て、出ない声を絞り出すように訴える。
ほつれた髪と、散った涙が朝日を弾いて輝く様を、男は何の感慨もなさそうな醒めた目で見ていた。
咳き込み、急に力を失ってフラリと倒れ込む娘の体を、男は慌てた様子もなく支えると、廃墟を振り返った。
この娘は声を限りに、持てる全ての力を振り絞って歌ったのだろう。死んだ者たちへの葬送と哀切の歌を。
風の民の歌は死者さえも癒すと言われている。
彼らは常に最も優秀な癒し手であり、歌い手であった。
純血の風の竜族の “歌い手” の称号を持つ娘。恐らく、並の人間なら死に掛けた者でも一曲歌うだけで命を取り止めることができるだろう。
それは、世に言う “奇跡の力” というほどには桁外れな力だ。
その娘が力の限り歌ったのだ。
凄惨な殺戮の痕跡の中に、未練と恨みに縛られた魂はない。
人としては桁外れな力を持つ術者である男の目には、浄化と安息を得た魂が煌めいているのが見えていた。
それは不思議に胸を締め付けるほど美しく、悲しい輝きだった。
男は託されたものの重みを確かめるかのように娘を抱え上げると、背をしっかりと伸ばして谷中に響き渡るよう、叫んだ。
「お前たちの長は、このランギールが確かに預かった。この一命にかけて守り抜く故、憂いなく旅路を往かれよ!」
その言葉を待っていたかのように、ひとつ、またひとつと魂が光に包まれてフワフワと溶けていく。
最後まで残っていた魂が不意に金の髪と翠玉の瞳を持つ眩い美貌の青年の姿になり、ランギールに語り掛けた。
『”神の置石” である、強運と凶運を併せ持つ術者よ』
驚くでもなく、静かな表情で相対するランギールに青年は恭しく礼を取った。
その姿を見上げた拍子に、汚れを吸ってくすんだ深い青のローブのブードが外れ、青みがかった黒髪が零れ落ちる。
恐れげもなく自分をまっすぐに見つめる抜き身の刃のように冷涼な光を宿した紺碧の瞳に、見た目の幾倍もの年月を重ねた青年は穏やかに目を細めた。
『私たちの大切な “娘たち” をよろしくお願いします』
晴れやかな笑顔を浮かべて、青年は娘の額に触れる。
『私たちは守るべきものを守り抜きました。何の後悔もないと、伝えてください。そして、この娘の声が出るようになった頃 “継承者” は継がれたと……』
そう言えば分かるはずですと青年は言い残して、光に融けるように消えた。
「その言葉、必ず伝えよう」
ランギールは聴く者の居なくなった空間に律儀に応えて、名残を惜しむかのようにそっと黙祷を捧げた。
頭を上げるとともにローブのフードを再びかぶり、腕の中の娘を抱え直す。
「守るべきもの、か。……貴方は満足だったのだろうか」
誰にともなく呟いてきびすを返した彼の顔からは何の表情も読み取れず、ただ、その声色は人知れぬ苦味を含んで沈んで響いた。
腕の中で意識を失ったままの娘に視線を落として、彼はしばしの間無言で歩き続けた。
不意に、振り返ったランギールは見納めとばかりにシルヴァリの谷を見下ろし、ぐっと奥歯を噛み締めた。そして再び娘に視線を戻すと、静かに告げた。
「ローリア、今日からお前は私の弟子となる。私は身命を賭してお前を守るだろう」
厳かな表情と、静かな口調には一片の揺らぎもない。
竜族は人に頼み事などしない。ランギールはその要請に応えることの意味を、正しく知っていた。
腕の中の娘を守り抜けなければ、どちらにせよ彼の命はない。竜族と交わすのは、そういう契約だと彼の師は悲しげに微笑んでいた。
師は優れた運命の読み手だった。
「あるいは全てご存知だったのかもしれない」
長く続いた戦禍はこれによってますます燃え盛り、数多の命を焼くだろう。しかし、それも長くは続かないだろう。
残された焦土に響くのは歌だ。
それは挽歌ではなく、戦勝の歌でもなく、命の歌だ。
それを歌えるのは “歌い手” だけ。
鮮烈な予感に、ランギールは身を震わせた。その唇の端が、ゆっくりと上がる。
「希望、か」
ランギールは低く呟いて、空を見上げた。
強い風に雲を吹き払われた空は、どこまでも青く、深く、澄んでいる。
「それも、悪くないかもしれない」
その表情は不思議と安らいだ穏やかなものだった。




