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リコリスは1階の正面入り口のホールに続く廊下歩いていた。その足取りはまるで散歩でもしているように軽いものだったが、石造りの建物であるにも関わらず、足音は全く響かない。それどころか、物陰に隠れているわけでもないのによくよく気をつけていないと見失いそうな程気配を殺していた。
(ここまでは異常なし、っと)
その容姿と全く釣り合わない離れ業を行いながら、そう軽く心の中で呟き、入り口のホールの扉の前まで来た。
扉を少しだけ開けて隙間から様子を窺うが壊れた玄関のドアの残骸しか見えず、それを行ったと思われる存在は見えなかった。
(もう出ていったのかな・・・)
そう思い、リコリスがドアを押し開け、玄関ホールに出て行こうとしたが、ふと思い立ち、一歩後退した瞬間。
ドアが横に弾け飛んだ。
ドアはいっそ間抜けにも思えるような間を開けて部屋の壁にぶつかってがらんがらん、と音を響かせた。それをしでかした影はリコリスが視認する間も許さず、再びその凶悪な破壊力を秘めた一撃を浴びせて来た。
リコリスはそれを前方に飛んでかわした。ぼこっ、とリコリスが一瞬前まで居た辺りから、壁が抉れる音がした。ちらりと見ただけだが、影は大きく狭い通路におびき寄せれば小回りのきくこちらが有利である。が。
(万が一にでも2人の方に行かせる訳には行かないよね)
さてと、どうしよう?そう思索するリコリスの目の前には熊程の大きさがありそうな黒狼がいた。殺気に満ち満ちた眼は吸い込まれそうな程深い見事な漆黒だった。残念ながら威圧感たっぷりに逆立っているけれども、毛並みも眼と揃いの見事な漆黒で、体格も素晴らしく良くどこかの森の主だろうと思わせる風格があった。その森の主がこんな小汚い飼育小屋に居る今の状況は酷く不自然だった。
黒狼がその疑問に答える訳もなく、次こそリコリスの息を止める為にじりじりと間合いを計りながら詰めてくる。どう考えても、特に得物も持っていない少女が立たされるには絶体絶命過ぎる状況だが、当の本人は全くと言って良いほど恐怖している様子はない。善良な一般市民が見れば、恐怖のあまり立ちつくしているようにも見えるが、黒狼はその様に考えてはいないようで、慎重に間合いを図っている。
リコリスはふと、その立ち姿に違和感を感じたが、その正体を見つける前に黒狼は再び襲いかかって来た。スピード、タイミング共に完璧な攻撃だったが、それが当たる前に目標が消えた。少なくとも黒狼にはそう見えた。
「びっくりしたあ」
しかし、後ろから仕留めるはずの獲物の声が聞こえ、黒狼は驚愕した。その獲物であるリコリスはのんびりとした声で黒狼に話しかけているのかいないのか、ぽつりとそう呟いた。黒狼は自分が認識できないうちに背後に移動した獲物に脅威を感じ、振りかえりざまに声と匂いを頼りに反射的に追撃した。今度はかみつき、相手が避けて体勢が伸びきったところを前足でとどめをさそうとしたが、リコリスは前足を黒狼のほうに転がってかわし、懐に飛び込んだ。
そして黒狼の死角、体の下に移動、肺のあたりに裏打ちを叩き込んだ!
「・・・がぁあァ!」
自分よりも遥かに小さい娘が放った見た目に釣り合わない強烈な一撃による衝撃で黒狼の巨体がよろけた。
後ずさって必死に体制を立て直そうとする黒狼を見て、そこでようやくリコリスは違和感の正体に気付いた。
リコリスは戦闘の緊張を解き、無造作に黒狼の方に一歩踏み出した。黒狼は次の攻撃を繰り出すが、リコリスはそれをただ首を傾げただけでかわした。それでも、必殺の一撃が今にも触れそうな程近くを掠めてもリコリスはそれ以上は身じろぎもしなかった。反撃もしない。
それを見て、黒狼の動きも戸惑うように止まった。次の行動を起こす前にリコリスは黒狼に話しかけた。
「私は貴方にこれ以上危害を加える積もりはないよ。貴方が私の友達に理不尽に手を出さない限り。貴方がここに用がないなら、森にはここから北に行けば人に会わずに行ける。もしも街の方に行くなら、ここの敷地の外延の壁づたいに行くと、ずっと走って行って最初の門は、詰め所があるけど今の時間帯はまだ無人だからそこから出ると良いよ」
黒狼はしばらくリコリスを品定めするように見つめていた。見つめているというのは黒狼視点の話で傍から見ればいたいけな少女が猛獣に食い殺される一秒前にしか見えない。しかし、少女の眼にはそのような色はなく、緊張感さえしていなかった。友人の前に立っているような気安さでただ黒狼の眼を見つめ返している。
リリリリリリリリリリリリリリ
そして突然その場に鈴のようなガラスを割ったような甲高い音が鳴り響いた。
「ああ、これは警報だよ。いい加減誰かが勘づいたみたいだね。多分正規の警備員とか教師とかがこの辺りに集まってくるよ。急いだ方がいいと思う」
黒狼は何も唸り声さえ立てず、ただ、じりりと少し後退すると、それから一息に跳び退ってあっという間に壊れた玄関から飛び出して行った。
その場に取り残されたリコリスはしばらくそこに立ちつくしていたが、黒狼が跳び出して行った玄関から今度は代わりに真っ白なフクロウが入って来た。
フクロウはすーっと静かに入ってきてリコリスの近くに倒されていた棚の上に止まった。そのフクロウは藍色の眼をリコリスに恨めしそうに向けた。やけに人間臭い仕草をするそのフクロウにリコリスはにっこりと笑いかけながら話しかけた。
「ありがと。警報鳴らしてくれたのクーちゃんでしょ?」
「ああ。ルナをあいつらのところに残して、よくイタズラで鳴らされる装置のところまでわざわざ行ってな!」
リコリスの言葉に、フクロウは『喋って』応えた。その声は先程クラウドと名乗った声だった。
「うん。わざわざありがと」
あからさまに不機嫌なその声にリコリスはいつもの笑顔で応える。その笑顔にいろいろ諦めたクラウドは詰問の矛先を先程の闖入者に変えた。
「で、結局なんだったんだ?あれ」
「どこから見てた?」
「狼がここから逃げていく姿しか見てねえよ」
「そうなんだ。まあ、ちゃんと後で説明するよ。とりあえず・・・コレ、どうしよう?」
そう言って、リコリスが視線で示したのは、黒狼の置き土産。要するに、破壊された扉やら棚やらその他もろもろ。
「・・・どうしようもないだろ」
「だよね~」
そうやって人ごとの様に会話している2人のいる方に向かってどたばた
した複数の足音が近づいてきた。リコリスは何となく、その足音の一つはラグン先生のような気がするな~っと人ごとのように予想していた。