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STUHLDRANG ―訳すな危険―

作者: ひげもじゃ
掲載日:2026/07/30

午前七時三十八分。

男は玄関の扉を閉めた。

駅まで徒歩十分、会社までは約四十分。

何一つ変わらない朝だった。

 ――異変が起きるまでは。


腹の奥で小さな何かが身じろぎする。

男は立ち止まった。


「……来たか」


痛みではない。

だが決して無視してはならない感覚。

長年付き合ってきた男には分かる。

まだまだ、ここで慌てるほどではない。


「よし」


男は歩き始めた。

十歩、いや正確には九歩目だった。

封印の向こう側で、何かが暴れ始めた。


「うぉぉっ!?」


男の両目が見開かれる。

眉は天井を目指し、口は「へ」の字になり頬だけが引きつる。

通勤中の女性が男を見る。

男は一瞬で真顔へ戻した。


「……ふぅ」


何事もない。そういう顔を作る。

人生には演技力が必要な時がある。

今が、その時だった。

男は歩き、走らない。

揺れは敵であると知っているからだ。

歩幅を一定に保ち、まるで床を滑るように前へ進む。


信号、赤。


「…俺を試しているのか?」


男は思わず信号機を見上げた。

まだ赤。車だけが楽しそうに走っていく。

腹の奥で再び扉が叩かれる。


「ぬぉぉぉ……!」


男は目を閉じ、歯を食いしばる。

笑う、泣く、怒る。

わずか数秒で男の顔には人生が詰め込まれていた。

隣のおじさんが一歩離れた。


青、男は静かに歩き出す。


「焦るな……焦った者から敗れる……」


自分に言い聞かせる。

駅が見えた。勝利が近づいた。

そう思った瞬間、階段だった。


「そうだった……お前がいた」


二十数段。普段なら数秒で終わる階段。

今日は違う。


一段、


「よし」


二段、


「まだいける」


三段、


「うぉぉぉぉ!?」


男はその場で停止し、片足だけ浮いたまま固まる。

後ろから学生が声をかけた。


「すみません」


「あっ、どうぞ」


男は爽やかに道を譲る。

学生は去った。


「爽やかな朝ですね」


男は誰もいない空へ呟いた。

声が震えていた。


ホームへ到着。

電光掲示板を見る。


『列車は五分遅れで運行しております』


「五分?」


男は固まった。

五分。平和な世界では短い時間だ。

しかし今の男には一年にも等しかった。


「まだ第一波だ……まだ……」


自分へ言い聞かせる。

その直後、


「うぉぉぉぉぉ!?」


第二波だった。

男は中腰になる。

立つ。

また中腰になる。

また立つ。

近くにいた女子高生が友人へ小声で言った。


「何してるの、あの人」


「知らない……」


男は聞こえないふりをした。

列車が到着する。

満員だった。

男は天を仰いだ。


「今日も俺に恨みがあるのか」


車内へ入る。

押される。


「おぉぉ……!」


また押される。


「そこはダメだ……!」


男は必死に体勢を整える。

一駅。

耐える。


二駅。

まだ耐える。


三駅。

限界が笑い始めた。


「うぉぉぉぉぉぉ!!」


心の中だけで絶叫する。

表情だけが暴れていた。

口が笑う、眉は泣く、 頬だけ怒る。

人類が持つ感情を、男は数秒で使い切った。


向かいの子どもが男を見つめる。


「ママ」


「なあに?」


「あの人……もれ──」


母親は子どもの口を慌てて塞いだ。


「見ちゃいけません」


「でも…」


「見ちゃいけません」


「やっぱりさ、もれそ──」


「見ちゃいけません」


男は窓の外を見た。


(頼む……あと三駅だけ黙っていてくれ……)


電車が揺れる。


「うぉっ!」


男の肩が跳ねる。

隣の会社員が心配そうに聞いた。


「大丈夫ですか?」


「生まれつきです」


「……え?」


「この顔です」


会社員はそれ以上聞かなかった。

最寄り駅へ到着。男は群衆へ紛れる。

会社まであと七分。

いける!まだ終わっていない…!


「おはようございます!」


同僚だった。男の表情が凍る。


「昨日の資料なんですけど」


(今か!?)


「一分だけ」


(その一分で世界は終わる!!)


「急ぎの案件が」


「何です?」


「極めて個人的な案件です」


男は深く頭を下げ、歩き去った。

会社へ入る。エレベーター前。

長蛇の列。男は静かに天井を見上げた。


「試練ー多くないー??」


なんかギャルっぽく言ってしまった。

ようやく到着。

扉が開く。満員。


「…………」


男は何も言わなかった。

何も言えなかった。

無だった。

次の一台。乗る。

目的の階、扉が開く。

男は歩く。

いや、魂だけが先に走っていた。

最後の防衛線が悲鳴を上げる!


「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」


目は涙目。口元だけ笑顔。眉は絶望。

人はここまで豊かな表情を作れるのか。

男自身も驚いていた。

そして男は約束の地を視界に捉えた。


『清掃中』


男は止まった。完全停止。呼吸もしない。

瞬きもしない。魂だけが遠くへ旅立っていた。


その時だった運命の扉が開く。


「あ、終わりましたよ」


メシア(救世主)は優しく微笑んだ。

男の世界へ光が差した。

頬が緩み、眉が下がり、目が優しくなる。

今日初めての本物の笑顔だった。


「ありがとうございます」


その一言には人生全てへの感謝が詰まっていた。

男は静かに約束の地へと消えた。


数分後、男は何事もなかったような顔で戻ってくる。

背筋は伸びており、表情は穏やか、足取りは軽い。

まるで英雄だった。

 

誰も知らない。

一人の男が今朝この会社で世界を救ったことを。


誰も知らない。

あの豊かな表情が世界を守るための戦いだったことを。


コードネーム――STUHLDRANG。


この言葉を、決して訳してはならない。



「今日は、セーフでしたね」


男は何も答えず、ただ静かに親指を立てていた……!!!

駅のトイレ行けや……

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