STUHLDRANG ―訳すな危険―
午前七時三十八分。
男は玄関の扉を閉めた。
駅まで徒歩十分、会社までは約四十分。
何一つ変わらない朝だった。
――異変が起きるまでは。
腹の奥で小さな何かが身じろぎする。
男は立ち止まった。
「……来たか」
痛みではない。
だが決して無視してはならない感覚。
長年付き合ってきた男には分かる。
まだまだ、ここで慌てるほどではない。
「よし」
男は歩き始めた。
十歩、いや正確には九歩目だった。
封印の向こう側で、何かが暴れ始めた。
「うぉぉっ!?」
男の両目が見開かれる。
眉は天井を目指し、口は「へ」の字になり頬だけが引きつる。
通勤中の女性が男を見る。
男は一瞬で真顔へ戻した。
「……ふぅ」
何事もない。そういう顔を作る。
人生には演技力が必要な時がある。
今が、その時だった。
男は歩き、走らない。
揺れは敵であると知っているからだ。
歩幅を一定に保ち、まるで床を滑るように前へ進む。
信号、赤。
「…俺を試しているのか?」
男は思わず信号機を見上げた。
まだ赤。車だけが楽しそうに走っていく。
腹の奥で再び扉が叩かれる。
「ぬぉぉぉ……!」
男は目を閉じ、歯を食いしばる。
笑う、泣く、怒る。
わずか数秒で男の顔には人生が詰め込まれていた。
隣のおじさんが一歩離れた。
青、男は静かに歩き出す。
「焦るな……焦った者から敗れる……」
自分に言い聞かせる。
駅が見えた。勝利が近づいた。
そう思った瞬間、階段だった。
「そうだった……お前がいた」
二十数段。普段なら数秒で終わる階段。
今日は違う。
一段、
「よし」
二段、
「まだいける」
三段、
「うぉぉぉぉ!?」
男はその場で停止し、片足だけ浮いたまま固まる。
後ろから学生が声をかけた。
「すみません」
「あっ、どうぞ」
男は爽やかに道を譲る。
学生は去った。
「爽やかな朝ですね」
男は誰もいない空へ呟いた。
声が震えていた。
ホームへ到着。
電光掲示板を見る。
『列車は五分遅れで運行しております』
「五分?」
男は固まった。
五分。平和な世界では短い時間だ。
しかし今の男には一年にも等しかった。
「まだ第一波だ……まだ……」
自分へ言い聞かせる。
その直後、
「うぉぉぉぉぉ!?」
第二波だった。
男は中腰になる。
立つ。
また中腰になる。
また立つ。
近くにいた女子高生が友人へ小声で言った。
「何してるの、あの人」
「知らない……」
男は聞こえないふりをした。
列車が到着する。
満員だった。
男は天を仰いだ。
「今日も俺に恨みがあるのか」
車内へ入る。
押される。
「おぉぉ……!」
また押される。
「そこはダメだ……!」
男は必死に体勢を整える。
一駅。
耐える。
二駅。
まだ耐える。
三駅。
限界が笑い始めた。
「うぉぉぉぉぉぉ!!」
心の中だけで絶叫する。
表情だけが暴れていた。
口が笑う、眉は泣く、 頬だけ怒る。
人類が持つ感情を、男は数秒で使い切った。
向かいの子どもが男を見つめる。
「ママ」
「なあに?」
「あの人……もれ──」
母親は子どもの口を慌てて塞いだ。
「見ちゃいけません」
「でも…」
「見ちゃいけません」
「やっぱりさ、もれそ──」
「見ちゃいけません」
男は窓の外を見た。
(頼む……あと三駅だけ黙っていてくれ……)
電車が揺れる。
「うぉっ!」
男の肩が跳ねる。
隣の会社員が心配そうに聞いた。
「大丈夫ですか?」
「生まれつきです」
「……え?」
「この顔です」
会社員はそれ以上聞かなかった。
最寄り駅へ到着。男は群衆へ紛れる。
会社まであと七分。
いける!まだ終わっていない…!
「おはようございます!」
同僚だった。男の表情が凍る。
「昨日の資料なんですけど」
(今か!?)
「一分だけ」
(その一分で世界は終わる!!)
「急ぎの案件が」
「何です?」
「極めて個人的な案件です」
男は深く頭を下げ、歩き去った。
会社へ入る。エレベーター前。
長蛇の列。男は静かに天井を見上げた。
「試練ー多くないー??」
なんかギャルっぽく言ってしまった。
ようやく到着。
扉が開く。満員。
「…………」
男は何も言わなかった。
何も言えなかった。
無だった。
次の一台。乗る。
目的の階、扉が開く。
男は歩く。
いや、魂だけが先に走っていた。
最後の防衛線が悲鳴を上げる!
「うぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
目は涙目。口元だけ笑顔。眉は絶望。
人はここまで豊かな表情を作れるのか。
男自身も驚いていた。
そして男は約束の地を視界に捉えた。
『清掃中』
男は止まった。完全停止。呼吸もしない。
瞬きもしない。魂だけが遠くへ旅立っていた。
その時だった運命の扉が開く。
「あ、終わりましたよ」
メシア(救世主)は優しく微笑んだ。
男の世界へ光が差した。
頬が緩み、眉が下がり、目が優しくなる。
今日初めての本物の笑顔だった。
「ありがとうございます」
その一言には人生全てへの感謝が詰まっていた。
男は静かに約束の地へと消えた。
数分後、男は何事もなかったような顔で戻ってくる。
背筋は伸びており、表情は穏やか、足取りは軽い。
まるで英雄だった。
誰も知らない。
一人の男が今朝この会社で世界を救ったことを。
誰も知らない。
あの豊かな表情が世界を守るための戦いだったことを。
コードネーム――STUHLDRANG。
この言葉を、決して訳してはならない。
「今日は、セーフでしたね」
男は何も答えず、ただ静かに親指を立てていた……!!!
駅のトイレ行けや……




