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Code Vogelscheuche  作者: Leon・H・Wolfenstein


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2/2

最前線の絶対規則 2

 戦場を滑空するのはいつも気持ちがよい。

 

 すくなくとも、シュトローマンの中で「快感」という感覚とそれに関する知識が現実味を持つのは、空を飛ぶ時だけだった。バイオジェットパックを起動し、背中の肋骨が反転した状態で広がりながら、巨大な羽へと姿を変えるその時、彼は自分が天使になったような気持ちになった。赤黒い液体が自分の身体から漏れ出るときに、痛みが感じられないことは、もはや不思議でもなんでもなかった。痛みなどという感覚は、遠い過去の異物である。


 天使になった彼が見下ろす世界は、いつまで経っても終わらない世界戦争の現実だった。最前線ノー・マンズ・ランドは、古い時代の教科書を彩る言葉ではない。それはシュトローマンのいるこの場所であり、それ以上でもそれ以下でもない。逆に言えば、前線なき世界は世界ではないのだ。帝国の著名なある歴史家は、このような言葉を遺している「我々は対抗し、守らねばならない」……一体、何を守るというのか? 何を守るためにこれまでこうしてきたのか。そんな問いがふと脳裏に思い浮かぶ度に、頭の中の大切な何かにロックが掛かっているような気がする。だが、それだけだ。それがなんだというのだろう。すぐにどうでもよくなる。


 吹き抜ける風には、硝煙の匂いが混じっていた。それから鉄だ。赤黒い鉄。ミキサーに入れられた肉、切り刻まれた軍服の匂い。彼が持っていた家族写真の紙の匂い。故郷で待つ恋人から届いた手縫いのハンカチ。それらがみんな、最前線ノー・マンズ・ランドという胃袋に吸い込まれて消えていく。残るのはただ、この荒れ果てた灰色の砂漠だけだ。


 平和主義者はこの場所にはいない。そんなものがいるとすれば、彼らは真っ先に喰われる。互いに互いを喰らい合うことで、自己の保全を促す現代戦の兵士たちのなかにもしそんな馬鹿げた考えを持つ人間がいるとするならば、彼に待ち受けているのは、自らの部品を更新できないまま、この戦地をただ練り歩くだけの存在である「灰色の愚者フール・オブ・グレー」になるだけだ。


「……大勢の人間が死んだ」

 不意に、彼の口からそんな言葉が漏れた。


 死んだ、という言葉が過去形なのは、どうしてだろう。


 そもそも死ぬ、ということは悲劇だろうか、とシュトローマンは問うた。死ぬというのは、それほどまでに悲惨なことなのだろうか。死ぬということにこれほどまでに意味があるようになったのは、いつからだというのだろう。


 例えば、魂がこの体から飛び出ていった時だろうか。いや、違う。そもそも「離脱エクスタシー」——外装廃棄による精神の強制転移——が技術的に確立した現代において、そんなことを問う人間がこの世界にいるとは考えられない。「転移」といえば聞こえはいいが、実態は基礎的な錬金術と科学技術の応用による「主観」の再構成だった。もしこの世界に究極の客観が存在するとするならば、「離脱」前の精神と「離脱」後の精神は厳密には同一ではない。彼らは共に同一の人物であることを互いに主張し合うだろうし「私が唯一で、お前は違う」と罵り合い、世界の原点は自分を中心に開かれていると言うだろう。だが、実際には、元々記憶も何もかも完全にコピーされたデータの塊があって、それが一方から他方に転送されているということになる。「記憶」と呼ばれる一連の実体は、各人の魂の器に刻印された状態で移されるが故に、彼らが同一であるという証明は「記憶」の存在そのものによって行われる。ただし、コピー元の記憶が完全に消滅し、それと同時にコピーされた記憶が別の肉体で再生される、それだけだ。

 

 シュトローマンが離脱エクスタシーを使わなかった理由は、ここにある。つまり、そういうことが実際に可能だと言われても、それを行うことに対する何らかの不信感があったからだった。とはいえ、この技術を使わないでいることは不便だし、第一に旧時代的だ。そのことを軍の憲兵に問われたこともあった。だが、だからといって、使う気にはなれない。ここにいるこの体が自分だと、そう信じることしかできない。そこが信じられなくなって、魂をいくらでも移し替えることが出来ると言われたら……。


 シュトローマンは不意に、少年時代の自分を思い出した。そうだ、テレビゲームで、残機が無限にあったらどれほどよいか、と考えたような気がする。そして、自分が望んで兵士となり、実際に残機が無限になった現状だ、と考える。理想の最強の兵士じゃないか、と、ジョークを飛ばしていたのが、ほんの数年前。現実は悲惨だった。話をしていた仲間が次々と精神を壊し、灰色の愚者フール・オブ・グレイの仲間入りを果たした。生き残った、というより、正気だった人間は自分だけだ。いや、逆かもしれない。むしろ、シュトローマンだけが、狂っていたのかもしれない。この狂った戦場に適応できてしまうほどに。


 実際シュトローマン自身も、捕食される経験を何度も繰り返してきた。初めにはあった痛覚や恐怖が、精神の転移と再構成を繰り返す内に消滅していった。ホラーゲームの攻略に長ける人間が、次第に恐怖の対象をただの障害物と認識するように、だ。だからこそ、戦争は恐ろしかった。そこにいる対象が痛覚を持ち、何かを訴えていることを、自分は無視して、ただ、生きるために喰らう。彼の体も機械化されているのだから、その肉にはマイクロ・バクテリア、ナノ・マシン、その他諸々のものが流れている。それを喰らい、己と同化する。現代流の鹵獲と言うやつだ。


 長々と考えて、シュトローマンはそれらの結論を全て、頭の中のゴミ箱に投げ入れた。バカバカしいにも程がある。そもそも、自分が離脱エクスタシーを拒否する理由を問われるんんてあり得ない。それに、仮に問われたとしても、そしてそれが何らかの意味で私の存在を揺るがすような特定の危機的状況において、速やかな自白を求められる状況下で強いられたものであったとしても、すなわち、拷問において課された質問であったとしても、おそらく「彼」は答えないだろう。そんな「自信」というか、あるいは「事実」とでも呼ぶべき何かはっきりとした信念のようなものが、シュトローマンの中にはあったのだ。自分で自分を磔にするバカがどこにいるのだ。


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