最前線の絶対規則
投降した兵士は一人残らず食べなくてはならない。それが最前線の唯一のルールだ。機械的に生産された全ての兵器たちは、自己の維持のために、敵を喰らい、その肉と体の中のマイクロマシンを取り込まねばならない。それが出来なければ、ただ、あの灰色の砂漠を、さまようだけの亡霊になるのみだ。それが嫌なら、敵を殺し、食すしかない。たとえそれが、女子供であろうとも。
———狂っている。
*
崩れかけた教会のステンドグラスから、優しく光が差し込んでいる中、男は少女を抱いていた。彼の手に抱かれた少女はそういった。彼女の頭蓋骨の上半分は綺麗に開かれていた。うなだれた少女は軍服を来て、手には小銃を抱えていた。この程度の兵装で、スケアクロウを倒せるわけもないというのに、無謀な特攻をさせられたも等しいということだ。
とはいえ、ルールはルール。武装して襲ってきた以上は、こちらも反撃しなければならない。そして、この戦争で敗北した人間に待ち受けるのは、最前線唯一の絶対規則、「捕食」の適用だ。
「ねえ、どうして、食べるの?」
彼女がかすれた声で言う度に、中央で真っ二つに切り裂かれたの喉の中で声帯が小さく震えるのが分かった。赤黒い液体に混じって、まだ切られていない動脈がピクリと動く。傷口は先ほどの爆発で飛んできた鉄板で切り裂かれていた。叫べるはずなのに、彼女は叫ばない。彼女の身体の感覚は、今や彼の中にあった。
彼は開いた頭蓋骨の蓋を皿にして、スプーンで少しずつ取り出した灰色の脳細胞と、それを包みこんでいた透明な脳髄液をすすりながら、彼女の消えゆく感覚の一つ一つを自分の肉体にインストールしていった。政府公認の虐殺プロトコル「機械仕掛けのホロドモール」の中止宣言は、事実上の無効化された決闘の宣誓と同値だった。虐殺の終わりは、言葉の上だけだったのだ。では真実は? そんなものは初めから存在するわけがない。
「痛みはまだあるか?」
彼は、自分がそう問うたことに驚いた。痛み。痛みとはなんだ? そもそも痛みに意味などあっただろうか。そうは思えない。むしろ、痛みなんて言うものは、縁遠いものだ。なのにどうして、彼女に聞かねばならないと思ったのだろうか。
「もうないよ」彼女は笑う。
「ならよかった」
かつてあったのだ、という感覚の残滓が、ふいに彼のノイマン・バイオ・コンピュータの内側で奇妙な音を立てて整列していく。それはそれぞれの感覚に対応する複数の合成されたたんぱく質の羅列であり、それを受け取る感覚器官が結合する諸シナプスのいわば交響曲であった。指揮者はモーツァルト。彼女が好きな音楽家だった。彼は人工培養されたニューロン=ファクター型のノイマン式電算システムの効率的な結合に最も都合の良い媒体として、その音楽的才能を提供したのだった。彼女がいたあの学校では、そのタンパク質結合のコントロールに、彼の音楽が使用されるのだった。交響曲第二番:狂えるものたちの終末。薬に頼らずとも、彼女はハイになることができる。
「ねえ、どんな感覚?」
「そうだね」彼は少し考えるふりをした。「まるで、”象が足をもがれた蟻に同情してしまう時のような”感覚」
「それってどんな感覚?」彼女は言う。
「そりゃ分からないよ。だって君にはもうその感覚がない」
「あなたにはあるの?」
「僕かい? そうだね、僕には……」
会話を続けようとした途中に、突然、視界が強制的に切り替わる。
建物の外に飛ばしていたドローンからの中継映像に、無数の敵機の反応があったのだ。
遠くの丘に、朝の黄金の光が差し込む大地の空虚の寸劇を切り裂いて、何千、何万という数の黒いマントを羽織った「灰色の愚者」の列が見える。全員が腸をぶら下げながら、憂鬱な表情で、陽気な歌を歌っている。「バラヤ・バラヤ・バラヤーリヤ」。そんな言葉だ。だがその意味は分からない。だって彼は、機械ではないのだから。
機械ではない。
いったいどうやって、自分を機械ではないと定義することができるだろう。ただ、そう思いたいだけではないのか、と、彼は自己反駁した。言葉を何度も問いただす。問いただすたびに、意味がわからなくなる。機械ではないことは、他の何かであることと同じことにはならない。否定は他のものと同一であることの肯定と同値ではないのだ。
教会の建物にも、やがて彼らの歌声が聞こえてくる。バラヤ・バラヤ・バラヤーリヤ。意味のない言葉の行進。触れるもの全てを破壊し、消滅させる者たち。この戦争が悲劇の存在。やがて、この場所も彼らに飲まれて、だだっ広い灰色の砂の砂漠と化すのだろう。
「綺麗な歌」
彼女は言った。まだ、彼女の中に「綺麗」という感覚が残っていたことに彼は驚いた。彼は再び、自らが抱いた少女の方を黙って見つめた。驚くほど長い金色の髪の毛。エメラルドのように輝く瞳。整った顔。その全てを赤黒く染める血。これは、美しいのだろうか。
「綺麗、というのは、どういう感覚なんだ。それは君の感覚なのかい?」
「わからない」彼女は言った。「ねえ、私は死ぬの?」
「……いいや、死んだりはしないさ。僕の中に入るだけだ」
彼はそう言うと、彼女の脳髄液の中に沈んだ小さな電子チップを見つけ、それを黙って口に放り込み、脳髄駅と一緒に飲み込んだ。体の中でそれが無数のマイクロ=バクテリアとなって、隅々まで伝わっていくのが分かる。眼を覚ました後、窓を開けて、気持ちの良い朝日を浴びて、陽気な気分になるあの感覚に近い。
「彼らは、何と言ってる?」
彼は不意に、そう質問した。その言葉の返事を待ちながら、彼は彼女の眼を機械式のアームでつまみ、そのまま引き抜いた。神経がブチブチ、という音を立てて引き抜かれ、血液と一緒に火花が散った。彼女はまったくと言っていいほど抵抗しなかった。ただ、彼女は食われるがままに任せていた。この狂った場所に存在する唯一のルールを、彼女はただ守っているのだ。であるならば、せめての情けは苦しませないこと。そう思って、彼女の体に麻酔を入れるつもりだったのに、実際には彼女は痛覚を持たなかった。それに、麻酔を入れなかったからといって、彼女の体が美味くなったりするわけではない。味覚の存在しない肉体である以上、そういったことの心配はそもそも意味という意味を成さない。
規則では耳から食べることになっていたがあえてそれを破ったのは、彼女がマシン語を理解できるかもしれない、と期待したからだった。それに、ここは最前線だ。規則が破られようと誰も気づかない。彼らをこの狂気から引き離し、正気の彼岸にすがりつくための唯一の鍵だった”顔”は、既に破壊されていた。最も根底的な倫理は存在しないのだ。
「バラヤ・バラヤ・バラヤーリヤ」彼女は言った。灰色の愚者の歌だ。
「君はその意味を知っているのか?」
「意味なんて無いわよ」彼女は言った。「マシン語は言語ではない。それは”それだけ”よ」
「それだけ?」
「つまりね」
彼女はオーガズムに達した時の人間のような恍惚とした表情で、彼の差し出した自身のもう一つの眼球を口にした。彼女がそれを噛み締める度、その快感はより大きくなっているように見えた。しかしそれは彼の頭の中の彼女の感覚の残滓であって、彼の見ている現実は、そこから最も大切な「現実性」を失われているように見えた。まるで、映画があまりに現実的すぎるが故に、映画の中に入り込めなくなっている観客のような感覚だ。
彼女は突然、ハイになって言葉を紡ぎ始めた。意味と意図を外れたシニフィアンの群れが、無数に虚空に放たれる。彼はただそれを受け止めることに徹しながら、片方の耳を切り取って食べていた。
「バラヤ・バラヤ・バラヤーリヤ。シニフィエは死んだのよ。ここにあるのは純粋なシニフィアン。示すべきものは全て、終末の大鍋に閉じ込められた。錬金術師たちは叫びながら、私の死を嘆き悲しむでしょうね。「ああ、なんたることか」って。それも、あなたに食べられて死ぬなんて。うれしい。なんて嬉しいのでしょう。ねえ、初めて、生きているって感じが……」
「君はもう、死んでいるだろう」
「ええ。そうね。私は死んでいる」
最後の一滴の脳髄に、彼は切り取った彼女の耳を浸してから食べた。耳だけは、本当の肉の味がする。きっと、彼女がこの絶望の大地に生を受けた時、母親から貰った唯一のものだったのだろう。そう思うと、不思議と、悲しい、という気持ちが湧いた。
「君の残した感覚は……」
贖罪のように続けようとした言葉の先には、耐え難い沈黙だけがあった。
最後にもう一度だけ、彼は彼女の顔を見た。美しい、という感覚があるかもしれないと期待したからだったが、無駄だった。彼女はもはや何も語らなかった。
*
彼は立ち上がり、そこに転がった死体に向かって、ベルトに装着した分解用のバクテリアが入った小瓶を放った。小瓶が割れると、中から赤黒い霧の塊のようなものが出てきて、死体を覆い尽くした。ものの10分で、彼女の存在は消え失せた。これで灰色の愚者たちが来たとしても、新たに個体数を増やすことはない。
「こちら狼の古巣、個体名、アレイスター・シュトローマン。状況を報告しろ」
低く唸るような獣の声が、シュトローマンの脳の特定領域を刺激した。それは音にとても良く似ているが故に「呼び出し」と言われていた。彼と同じ「案山子」と呼ばれる機械化兵であれば、誰もが持っている通信機能だ。
発信者は「狼の古巣」の上官、エドワードからだ。忌々しい彼の顔が頭をよぎって、彼は小さく舌打ちした。その相手の声は、いつも私を苛立たせる本能的な要素を持っていた。何が彼をそうさせるのかは分からない。
「オペレーション首吊人は成功。追撃対象は完全沈黙。捕食も先程済ませました」
「回収した「感覚」は?」エドワードは、何かべちゃべちゃしたものを食べながら言った。
「聴覚信号の一連の連結パターンに対する何らかの美的感覚です。モーツァルトに由来するものと思われます。『音楽』と呼ばれるものに分類可能と判断しました」
「他の感覚はどうなった? シニフィエの行方は?」
「残念ながら、すべて置き換え済みです。電気信号の組成パターンは、「すべての悪意ある子供たち」の為に捧げられています」
「クソッ」エドワードは言った。「なぜ生きている間に回収しなかった?」
「回収は不可能です、サー・エドワード。彼女は既にマイクロマシンに体を汚染され、痛覚を失っていました。つまり殆ど、死んでいるも同然。捕食の価値は限りなくゼロでした。。彼女が持っているように見えるあらゆる感覚は全て欺瞞情報で、要は水槽に浮いている脳だったのです。でも何も無いよりはマシでした。耳は生きていましたので」
「耳? 耳とは何だ?」
彼は歯に挟まった脳液を、近場に落ちていた木の枝を爪楊枝代わりにして綺麗に掃除しながら、エドワードに、耳という物について説明した。しかしエドワードは理解していないようだった。「それが耳である何かが存在する」ことと、「耳が何であるかを決定づける特定のもの」の間には、名状しがたい不気味の谷が広がっていたのだ。シュトローマンが告げたのは、形式的な説明だった。それはかつての我々に在り、今の我々に無い物であり、ある種の聴覚信号の受信媒体である。そんな調子だ。いつものように、エドワードは寝椅子に腰かけて、何かぶつくさと文句を言いながら煙草を吸ったあと、煙を吐き出してシュトローマンに告げた。
「ひとまず了解した。本部への帰還を命ずる」
「本部?」
エドワードは聞き間違えをしたのかと思って、彼にそう聞きなおした。その単語を口にしたのは、実に7日ぶりだったからだ。聞き間違えでないのならば、それは最前線から、前線の補給基地への一時撤退を意味する言葉だった。
「帰還が難しいならば、「離脱」も許可する。ただし、貴様を構成するすべての部品は全て廃棄し、可食部は可能な限り腐食させること。貴様が帰投完了次第、回収した例の感覚データについてこちらで分析する。質問は?」
「ありません。サー・エドワード」
「よろしい。では健闘を祈る。勝利万歳、シュトローマン」
「勝利万歳」
永遠の戦争の地において、これほど虚しい言葉はない。シュトローマンはそう思った。




