第1話 気がついたら異世界の会議室でした
日曜深夜。
オフィスの空調はとっくに切れていて、冬の冷気がじわりと忍び込んでくる。
蛍光灯は半分ほどが切れ、残った光が白く滲んでいた。
その薄暗い空間で、キーボードを叩く音だけがカタカタと響いている。
俺は四十歳。
中堅どころのシステムエンジニア。
二十代の頃は徹夜も平気だったが、今は一晩残業しただけで腰が痛む。
白髪は増え、腹は出てきて、健康診断の数値も怪しい。
それでも、仕事だけは真面目にやってきたつもりだった。
――なのに。
「残り三十人月を十人で? どうやってこなすんですか」
そう言った俺に、部長は笑いながら言い放った。
『一人が三人分働けばいいんだよ。二十四時間戦えますだろ!』
昭和か。
いや、昭和でもそんなこと言わないだろ。
顧客との納期交渉はうまくいった。
先方は理解を示してくれた。
だが会社の上層部がそれをひっくり返し、プロジェクトは見事なデスマーチへ突入した。チームリーダーは過労で倒れ、サブリーダーだった俺が急遽リーダーを引き継いだ。十人のメンバーは皆疲れ切っていて、目の下には濃いクマが浮かんでいる。俺も例外ではない。
「……よし、これで最後だ」
画面の文字が滲んで見える。
目薬を差しても、もう視界ははっきりしない。
肩は石のように固まり、腰は椅子に沈み込んだまま動かない。
それでも、指だけは動く。
納期に間に合わせるために。
Enterキーを押した瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。
――あれ?
モニターの光が滲み、蛍光灯の白が渦を巻く。
耳鳴りがして、心臓の鼓動が遠ざかっていく。
プツッ。
音もなく、意識が途切れた。
――――――――――――――――――――――
――ざわ……ざわ……。
耳に、知らない言語のざわめきが流れ込んできた。
低い声、高い声、笑い声、怒鳴り声。
まるで市場の喧騒の中に放り込まれたような雑多な音。
次に鼻をついたのは、汗と革の匂いだった。
湿った土の匂いも混じっている。
オフィスの乾いた空気とはまるで違う、生々しい“人間の匂い”。
「……っ」
目を開けると、視界に飛び込んできたのは石造りの壁。
灰色の石が積み上げられ、ところどころに苔が生えている。
天井には太い木の梁が走り、窓から差し込む光は蛍光灯ではなく、太陽光だ。
俺は椅子に座っていた。
だが、オフィスの会議室にあるようなキャスター付きの椅子ではない。
硬い木製の椅子。
尻が痛い。
「……え? どこだここ?」
声が震えた。
自分の声なのに、少しだけ低く、ざらついて聞こえる。
周囲を見渡すと、五十人ほどの男女が座っていた。
金髪、赤毛、褐色肌、彫りの深い顔立ち。
日本人は一人もいない。
服装も奇妙だ。
革の鎧、布のチュニック、金属の肩当て。
まるで中世ファンタジーのコスプレ大会だ。
心臓がドクン、と跳ねた。
背中に冷たい汗が流れる。
――夢か?
――いや、匂いがリアルすぎる。
混乱している俺を置き去りにして、前方の女性が話し始めた。
「皆さんには、城壁の上からの投石と、槍衾による突撃阻止を行っていただきます」
……投石?
槍衾?
戦争の話じゃないか。
俺は四十歳のしがないSEだ。
戦争なんてゲームの中でしか知らない。
女性は淡々と続ける。
「帝国軍が迫っていますが、この城壁は簡単には崩れません。
敵兵が取り付いたら、上から石や熱湯を落として撃退してください。
数日持ちこたえれば、カイン将軍が南から戻ってきます」
帝国軍?
城壁?
将軍?
現実感がまるでない。
だが、周囲の人間は真剣そのものだ。
俺だけが場違いな存在のように感じた。
喉が渇く。
手が震える。
心臓が早鐘のように打ち続ける。
そのとき、背中をバンッと叩かれた。
「おい、ラース! ぼーっとしてると死ぬぞ!」
「ラース……?」
俺の名前はラースじゃない。
だが、大柄な男は当然のように俺をラースと呼ぶ。
近くで見ると、彼は二メートル近い巨体で、肩幅が異常に広い。
腕は丸太のようで、顔には無精ひげ。
だが笑うと妙に人懐っこい。
「何だその顔。寝ぼけてんのか? ほら行くぞ!」
腕を掴まれた瞬間、驚くほどの力で引っ張られた。
抵抗する間もなく、俺は会議室の外へ連れ出された。
――まさか、本当に転生したのか?
理解が追いつかないまま、足は勝手に動き、
俺は訓練場へと連れて行かれた。




