5話 公安部長
私は、当日の午前中、公安部長が向かう部屋に入り、透明人間として過ごした。
ルームメイクスタッフがドアを開け放っている間に部屋にもぐりこむ。
部屋はスイートで、ベッドの横に大きなソファーとテーブルがある。
テーブルにはフルーツがセットされ、プロの手で瞬く間にベッドメイキングが終わる。
今、佐々木さんと高田さんは、ホテルのロビーに待機しているはず。
何度も訓練したから、緊張の表情はなく、兄弟の観光客に見えていると思う。
心配しなくても、ロビーには大勢の客が出入りし、周りを見る人なんていなかったけど。
突然音を発すると困るからスマホとかは持っていないから、2人とは連絡が取れない。
17時になっても奥様は来ないので、不安で心拍数は上がる。
もしかしたら、公安部長の訪問が中止になっているんじゃないかしら。
私が息を潜めていると、公安部長の奥様が入室してきた。中止にはなっていないのね。
奥様は、すぐにカーテンを閉め、外から公安部長が見えないようにしていた。
そして、果物ナイフ等の危険物はホテルマンに指示し、部屋から出している。
物音ひとつしない部屋に潜んでいるのは大変。
奥様は見えなくても私の気配を感じるのか、しきりと振り返っていた。
カーテンを閉めたのは良かったけど、影とかできないように細心の注意を払う。
奥様は、公安部長が来る前に、ルームサービスで夕食とワインを用意する。
その後、シャワーを浴び、バスローブに身を包み込んでいた。
そして、クローゼットとかを全て入念にチェックし、人がいないと最終確認をする。
隣の部屋とつながる扉は鍵がかかっているものの、重いベッドで扉を押し付けていた。
万が一、横の部屋から刺客が入って来ないように。
これで万全と奥様は一息つく。
現時点では、この部屋に誰もいないので、奥様としてはドアだけをチェックすればいい。
公安部長だけが入ってくれば、この部屋は2人だけだということになる。
ここで、私が見つかるわけにはいかない。
絨毯の上に立てば足跡が残るので、フローリングの床に立っていた。
壁に寄り掛かったとき、壁の板がきしむ音がする。
奥様ははっと私の方を見つめ、怪訝そうに近づいてくる。
私は、静かに横に移動した。
奥様は、壁に触り、気のせいかしらとつぶやく。
気付かれなかったのかしら。作戦を中止した方がいい?
いえ、まだそこまでではない。しかも、私はここから出ていけない。
凍りつくような緊張感溢れる部屋で、私は、ただひたすら息を殺し、じっとしていた。
18時になり、ドアが開き、公安部長が入ってきた。
奥様のチェックに加え、部屋中を念入りにチェックをする。
カーテンもめくり、裏に人がいないか確認している。
さすが、殺伐とした世界を生き抜いてきた公安部長だけのことはある。
奥様は、お久しぶりと淡白な声をかけ、公安部長がテーブルに座る。
奥様がワインをグラスに注いだときだった。
部屋の外から銃声が響く。
佐々木さん、高田さんがボディーガードと闘っているのだと思う。
もしかしたら2人とも撃たれているのかもしれない。
部屋の中からでは外の状況はわからない。
でも、もう2人を信じるしかない。
公安部長は銃声を聞いて、スマホで応援要請をしている。
奥様は目が怯え、指が震えている。
椅子に座ったままで腰が抜けているように見えた。
私は、ボディーガードが深海の奥底に運ばれたことを信じ、ドアを開けた。
緊迫が部屋中を走る中、鍵がかちゃっと音がして回り、ゆっくりとドアが開いていく。
誰もいないのにドアが開いていくのを見て、公安部長の顔は凍りついた。
そして、佐々木さんが部屋に突入してくる。
公安部長が拳銃を握ったのを見て、私は、即座に公安部長の股を蹴り上げる。
そこまでは計画にないけど、ためらっているときではない。
不意を突かれた公安部長は、佐々木さんに腕をつかまれた。
その時の様子は今でも忘れられない。
公安部長は、透明になっていき、黄色い液体の塊のようになっていく。
膜のなかで、液体が揺れ、動いていた。
そして、全てが透明になったときに、膜が破けるように弾けた。
その後、床には水たまりができ、人の姿はどこにもない。
悲鳴を上げた奥様も佐々木が押さえつける。
震え、助けて欲しいとの願いを送る奥様も、同様に液体になり、消えていく。
公安部長が応援を呼んでいたからすぐに逃げないと。
その時だった。廊下の外で銃声がする。
あけ放たれたドアに目をやると、腹部を打たれた高田さんが立っていた。
「ずるいよな。俺の力が届かないところから拳銃を撃つなんて。失敗しちゃったよ。佐々木達とこれからもずっと一緒にいたかったんだけどな。お前達だけでも帰ってくれ。あいつらが、おまえらの顔を見る前に移動させさせないと。」
「いやだ、高田さんも一緒に。私は透明になれば顔は見られないから大丈夫。」
私は、大声で叫んでいた。
「俺は、もうだめだ。それよりも早く。サーモ・・・」
私は気付くと、吉祥寺の第3拠点の中で、佐々木さんとともに佇んでいた。
最後に、何を言おうとしたのかは分からない。
でも、脳裏には、高田さんの頭が銃弾で撃ち抜かれた映像が残っている。
私は、金切りを上げて、床に崩れた。
その時は、榊原さん、安積さんも暗殺されたことを知らなかった。
組織には、敵の暗殺は全て成功したこと、ただ3人が殺害されたとの連絡が入る。
凛は、何も語らず、壁にもたれかかりながら上を向き、目をつぶった。




