第21話 消えた天使
才牙が、反則技で脱出したことなど知る由もない葵は、トイレの前でサイカ(才牙)が出てくるのを、健気に、そしてじっと待ち続けていた。
しかし、時間は刻一刻と過ぎていく。五分、十分。女子トイレの扉は、沈黙を守ったままだ。
「遅いなー……? もしかしてお腹、本当に壊しちゃったのかな」
葵は心配そうに扉を見つめる。無理もない。あんな巨大な怪物と戦い、その後の面談ではあんなに号泣したのだ。精神的なストレスが幼い体に障り、体調を崩してしまったのかもしれない。
「うーん、あの年頃の子ってデリケートだし……。あんまり声をかけて急かすのも可哀想だよね。どうしよう」
葵が指先をいじりながらオロオロと考え込んでいると、廊下の向こうから清掃用具のカートを引いたおばちゃんがやってきた。
「ちょっとごめんねお姉ちゃん、掃除の時間だから通るよ」
「あ、すみません。……あ、そうだ。個室に一人、小さい子が入ってるので、気をつけてあげてください」
「はいよ、了解したよー」
おばちゃんは手慣れた様子で「清掃中」の立て札を置くと、中へと入っていった。葵は、第三者の目が入ることで、何かあれば声をかけてもらえるだろうと、少し安堵して待つことにした。
――だが。 数分後、清掃を終えて出てきたおばちゃんは葵の姿をみて、驚いた表情だった。
「あれ?あんたまだ居たのかい? 」
「え? はい、まだ女の子が一人……」
「おかしいねぇ。もう中には誰も居なかったよ」
「……え?」
葵の思考が、真っ白に停止した。 ありえない。自分はこの入り口の真ん前で、一歩も動かずに監視(待機)していたのだ。サイカちゃんが出てくれば、絶対に気づくはずだ。このフロアの窓は高層ビル特有の完全固定式で、人が通れる隙間など微塵もない。嫌な予感に突き動かされ、女子トイレの中へと駆け込んだ。
「サイカちゃん!? サイカちゃん!!」
全ての個室の扉を勢いよく蹴るように開けていく。
無人。 あるのは、静まり返ったタイル張りの空間と、清掃直後の洗剤の匂いだけ。 そこには、銀髪の幼女の姿は消え失せていた。
「そんな……嘘でしょ……?」
まるで煙のように、幻のように消えたサイカ。葵は、自分が失態を犯したことを悟り、顔面蒼白で絶叫した。
「に、逃げられたぁぁぁぁぁぁーーーーーっ!!!!!」
その悲鳴は、魔法科日本支部へと響き渡った。
――葵は肩を激しく上下させ、顔面蒼白で面談室の重厚な扉を蹴破るように飛び込んだ。
「ひ、柊さん! 大変です! サイカちゃんが……サイカちゃんが消えました!!」
「な、なんだって……!? 葵くん、君がついていながら一体どういうことだ! ちゃんと監視はしていたんだろう!?」
柊がデスクを叩いて立ち上がる。
「間違いなく……誰も出てこなかったです。入り口の真ん前で、一歩も動かずに待っていたのに、煙みたいにいなくなっちゃって……っ」
葵の声は震え、今にも泣き出しそうだった。横で腕を組んでいた刹那が、鋭い視線でフォローを入れる。
「……こいつが仕事をサボるとも思えねえ。柊の姉さん、まずは監視カメラだ。全部チェックしろ!」
「そ、そうね! すぐに指令室に戻りましょう!」
本部スタッフが総出で、トイレ周辺および施設外周、さらにはダクト内部に至るまで、数百台の監視カメラ映像を秒単位で解析した。しかし、そこには「サイカ」が退出した形跡どころか、不審な影一つ映っていなかった。
「……確かに、トイレから出た様子はない。窓や排気口をすり抜けたとしても、外周の赤外線センサーか魔力センサーが捉えるはずだ。それすら無反応……(例え透明化の魔法だとしても、他のセンサーが捉えるはず……、一体どうやって)」
柊はモニターを見つめたまま、冷や汗を流した。物理的な出口は完璧に封鎖されていた。それなのに、少女は世界から切り離されたかのように消滅した。
「トイレの中は……流石にねぇか……」
「倫理的に無理よ……。カメラなんて設置できるわけがない。……くそ! どうやって……!」
柊の苦悩を切り裂くように、デスクの上のバスケットから林檎の妖精・リンコが顔を出した、葵の契約妖精である。シャクシャクと優雅に林檎を齧りながら、他人事のように告げる。
「転移魔法じゃないの?」
その言葉に、室内の空気が一瞬で凍りついた。
「妖精は契約者の元にワープできるでしょ? あの子、契約妖精の姿が見えなかったし、その逆をやったのかも。聞いたことないけどねー」
「はぁ? 転移魔法だと?んな魔法聞いたことねえぞ。そんなもん、ファンタジー映画の中だけの話だろ」
刹那は呆れて吐き捨てるが、柊の表情は戦慄に染まり、その瞳はモニターを食い入るように見ていた
「……いや、あり得るわ……。歴史を遡れば、一人だけいたのよ。転移魔法を行使したとされる魔法少女が……」
柊の声が重く響く。スタッフたちの手が止まった。
「それは、魔法少女の黎明期に現れた<最初の七人>。その中の一人が使えたとされる、『隔絶魔法』の一つよ」
<最初の七人>。現代の全魔法少女が憧れ、そして畏怖する英雄たち。
「あの子は、あのアンヴァーを容易く閉じ込めた『空間遮断』に、攻撃を紙一重でかわし続けた『未来予知』……すでに二つの『隔絶魔法』を見せているわ。なら、第三の力として『転移』が使えたとしても、何ら不思議ではない……!」
柊の脳内では、サイカの評価が「天才」から「生ける伝説」へと一気に跳ね上がった。
柊の勘違いは、もはや制御不能なレベルに達していた。




