第19話 最大のピンチ
「おお! わかってくれてよかった、ありがとうサイカくん。……では、いくつか登録に必要な手続きがあるんだけど。まずは……」
柊は、事務的かつ慈愛に満ちた口調で、トドメの一撃を放った。
「――『変身を解除』しようか。本来の姿で網膜照合と魔力指紋を登録する必要があるの」
その言葉は、才牙が必死に耐えてきた最後の防波堤を一瞬で粉砕した。
「やだぁーーーーーー!!!!! 絶対やだぁーーーーーーー!!!!!!」
(できるわけねぇ!!!! そんなことしたら、俺の人生終わりだ!全部ひっくり返っちまうだろ!!)
A級アンヴァーの熱線よりも、裏社会の銃弾よりも、その「事実」が白日の下に晒される恐怖は、才牙の理性を完全に焼き切った。
先ほどまで借りてきた猫のように大人しく、おどおどとしていた「サイカ」が、突如として椅子を蹴り飛ばさんばかりに暴れ出した。両手を滅茶苦茶に振り回し、顔を真っ赤にして叫ぶその凄まじい拒絶。
「えっ……」
柊は、差し伸べようとした手を止めて硬直した。
絶叫と共に、才牙はなりふり構わず部屋の出口へと突進した。だが、その行く手を阻むのは、正規の訓練を受けた魔法少女・葵と刹那である。
「わわっ、ダメだよサイカちゃん!」
「おい、暴れるなって! 傷口が開くだろ!」
「絶対!!絶対やだぁーーーーーーー!!!!!!」
葵と刹那が、壊れ物を扱うような手つきで、しかし確実に、才牙の小さな体を左右から押さえ込む。 サイカはなおも暴れ続け、必死の涙を流していた。その涙は「男としての死」を回避するための切実なものだったが、A級アンヴァーとの死闘の影響もあり、その抵抗は弱々しいものだった、そして、それを受け止める彼女たちの心には、鋭い刃のように罪悪感が突き刺さる。
「……柊さん、もうやめようよ。サイカちゃん、こんなに震えて嫌がってる。見てるのが辛いよ……」
「ああ、そうだぜ姉さん。ここまで拒絶する理由が何だか知らねぇが、なんとかなんねーのかよ?」
葵が泣き出しそうな声で、上司である柊に訴えかける。
刹那も、あまりのサイカ震えに、かつてないほど動揺していた。
柊部長は、固く拳を握りしめていた。 彼女の脳内では、サイカという少女が「本来の姿」に対して抱いているであろう、想像を絶する闇の深さが渦を巻いている。
(本来の姿に戻ることを、ここまで拒むなんて……。彼女にとって魔法少女であることが、心の支えなのかもしれない。本来の姿に戻ることは、耐え難い痛みや、忌まわしい過去が蘇ってしまうに違いないわ。)
「……分かったわ。葵くん、刹那くん、もう離してあげなさい」
柊は大きく息を吐き、サイカの目線に合わせて、慈愛に満ちた、しかし断固とした表情で告げた。
「――分かったわ、サイカくん。『変身解除』は無しよ。 今日はこのままの姿で、必要な手続きを済ませましょう」
「変身解除は無しよ」という柊の言葉を聞いた瞬間、サイカの激しい抵抗はピタリと止まった。
鼻の頭を赤くし、瞳に大粒の涙を溜めたまま、少女は縋るように――あるいは確認するように、潤んだ瞳でじっと柊を見上げた。計算など一切ない「魂の上目遣い」。
「……本当……?」
その、鈴の音を転がしたような震える声と、守ってあげなければ一瞬で壊れてしまいそうな仕草。それが柊部長の「理性」という名の防壁に、A級アンヴァー以上の破壊力で直撃した。
柊:(ぐ、ぐわあああ……ッ!! な、なんて……なんて破壊力なの! 可愛いわね、この子……!!)
柊は支部長としてのポーカーフェイスを維持するのに全神経を動員した。ここで鼻血を吹けば、築き上げてきたキャリアが崩壊する。彼女は必死に顔の筋肉を制御し、聖母のような慈愛を湛えて力強く頷いた。
「本当だとも。……それなら、手続きを進めても良いかな?」
「……うん」
サイカが小さく、消え入るような声で承諾し、再び椅子にちょこんと座り直した。その一連の動作の愛らしさに、面談室にいた柊、葵、刹那の三人は、同時に深すぎる安堵の溜息を漏らした。
(よかった……。)
柊たちが感動に包まれる中、当の才牙は別の地獄にいた。 アドレナリンが引き、冷静になった彼の脳内に、数秒前の自分の言動がフラッシュバックする。
『やだぁー!』と暴れ、『本当……?』と上目遣いで媚びを売り、『……うん』と可愛く返事をした自分。
(……待て。待て待て待て。俺、今、何をした……?)
骨格を伝わって聞こえた自分の声の甘さ、反射的にやってしまった幼女特有の仕草。その記憶が、伝説の喧嘩番長としての自尊心をズタズタに切り裂いていく。
(死にてええええ……ッ!! 今の俺、どっからどう見てもただの幼女じゃねえか!! 誰か、誰でもいいから今すぐ俺を消すか、この部屋ごと爆破してくれぇぇぇ!!)
才牙は、今更ながらに押し寄せてきた「幼女ムーブ」への猛烈な羞恥心に、顔を真っ赤にして俯くしかなかった。だが、その「顔を赤らめて俯く姿」さえも、柊たちの目には「大人に、初めて信頼を寄せ始めた少女の純情」として、さらに美しく誤解されていく。




