一話目 旅と少女
八五八年六月 ヴィチェータ地方 南西部のとある街道
清々しいほどに澄んだ快晴の下、初老ほどの男――ウルフェンは街道を北へと向かい歩ていた。
周りにはだだっ広い畑が広がり、ナスやニンジンなどの作物が今か今かと収穫を待ちわびている。
かれこれ数時間は歩いているだろう。だが未だ城はおろか町や村さえ見えてこない。ただひたすらに農家と畑が続くだけの道を延々歩き続けている。
太陽はそろそろ真上にたどり着こうかとしているが、この調子だとまだ当分は休んでなどいられそうにもない。別に急いでいるわけではないのだが、このどこを見ても同じ景色にしか見えない場所を何時間も歩き続けるのは少々堪えるだろう。
幸か不幸か少し先は丘のような地形になっており、そこを越えれば村か何かがあるかもしれない。ウルフェンは期待を胸にし丘まで歩き出す。
坂道を登り切り前方を見渡す。するとようやく遠くの方に木で造られた家が数件、他に何件か建物が見える。
「あれは……村か」
――今夜はあの村に泊めて貰うとしよう。泊まる場所が無くても食事くらいは良いものにありつけるだろう。
そしてもうひとつ、ずっと似た風景が続いていたこの街道についに緑が添えられることとなった。
「一度そこの森で一休みとするか」
右手側に広がる森、ここまで歩きっぱなしだった体には良い休憩地点となることだろう。
石などが取り除かれただけの簡素な道を、長旅でボロボロとなったブーツにもう一仕事させ歩いていく。
思えばブーツだけでなく身にまとっている物はどれも汚れ目立ち所々穴まで開き始めていた。
そろそろ新調しなければなどと考えていると、森の方から悲鳴のようなものが聞こえてきた。
「きゃぁぁぁぁ‼ 誰か助けてぇ~~‼」
悲鳴と共に森から飛び出し目の前を横切っていくのはまだあどけなさの残る十代そこらの少女とそれを追うイノシシだった。イノシシは少女など簡単に潰してしまえるほどに大きく、少女が抵抗できるすべなど存在しないことは明白だった。
逃げながらも後ろを振り返る少女はすぐ近くにいたウルフェンの存在に気付き、勢いよく後方へと切り返し走り出す。
「ふぇ、た、助けてください~!」
情けない声を上げながら自分の後ろへと当然のように隠れる少女にため息をつきつつ、腰に装着していたナイフを取り出し向かってくるイノシシへ構えを取る。
依然勢いを緩めないイノシシは少女からウルフェンへと標的を変え突進を続ける。次第に距離は近づき正面衝突かと思われた時、ウルフェンは姿勢を下げイノシシの目へとナイフを突き立てる。そのままイノシシの突進を横へと華麗に躱す。少女はというとヒョエッ、とまたしても奇妙で情けない声を漏らしながら、それでもウルフェン同様にイノシシの突進を避けていた。
「プギィ‼ フゴッ、フゴッ!」
一度は転倒し暴れていたイノシシだったが、ナイフは脳まで達していなかったのかすぐさまウルフェンたちを睨むようにして起き上がる。
「浅かったか……」
地面を足で搔き今すぐにでも飛び出してきそうな手負いの獣一匹に対し、こちらは丸腰と小さいのというなんとも頼りない面子だ。どうにかしてこのイノシシの息の根を止めてやらなければならないのだが、ナイフを持っていかれてしまったことは少々浅はかな選択だったのかもしれない。
とはいえ少女を連れながら逃げることは危険だろうし、逃げた先に人がいればそれこそ被害が広がるだけだ。さぁ、どうしたものか……。
「おい、小娘。あいつはまた突っ込んでくるぞ。もう一度避けられるか?」
イノシシから目を離すことなく、体の後ろぴったりにくっついている少女へと投げかける。
「こむっ……まぁ避けられますけど……」
「なら俺が合図したら左に飛べ。あいつの目にナイフが刺さっている方だ」
わかりますよそれくらい! と身を乗り出しなぜか小声で怒る少女だったが、イノシシが体を揺すったことに驚きまた背後へと引っ込む。
だがそれと同時にイノシシは勢いよく地面を蹴りウルフェンたち目掛けて走り出す。
来たッ……!
最初ほどの速さは無いにしろそれでも流石は獣、とてつもない速さで近づいてくる。 片目を失っているせいか少し左右にグラつきながらも突進を続け距離は次第に狭まる。
ドドドドッ、と地響きのような激しい轟音を引き連れイノシシが眼前まで迫ってきたとき、ウルフェンは叫んだ。
「今だッ、躱せぇぇ‼」
「ひぃぃッッ‼」
少女はウルフェンの合図で真横へ頭から飛び込む。しかしウルフェンは大きく横へ飛び出すことは無くイノシシを紙一重、ギリギリのところで躱す。というより受け流す、と言った方が適切だろう。そんなギリギリの一瞬でウルフェンはイノシシに突き刺さったナイフを掴み、そのまま相手の勢いを利用しその毛皮を切り裂くように体の上を走らせる。とてつもない力がナイフから腕へと伝わるがお構いなしに毛皮へと突き立て続ける。
体半分切り裂いたところで、しかしナイフはポキリと根元から折れてしまった。
マズい、ウルフェンの顔には焦りで汗が滲む。そのまま後方へと走り抜けるイノシシへ振り返る。
だがイノシシは足がもつれ、またも転倒してしまった。
――やったのか……?
そのまま少し体をビクつかせた後ピクリとも動かなくなり、どうやら事切れたようだった。
「もう起き上がってきたりしないですよね……?」
少女の言葉にウルフェンは横たわるイノシシに近づき軽く足で小突く。
「……あぁ、大丈夫だ、もう死んでいる」
イノシシに刺さったままの折れたナイフの切先が簡単には取り出せないことに少し肩を落とし、手の中の片割れを背中のリュックへと仕舞う。
「助けていただきありがとうございました! おじさん強いんですね~、私びっくりしちゃいました!」
少女は今の今まで獣に襲われビクビクしていたというのに何とも明るい口調でお礼を言う。
「そういうお前は戦いには慣れていなさそうだな。他に連れはいないのか?」
「はい、私はひとりです! 孤独な旅を満喫中です!」
「ひとりだと?」
少女の恰好を見るにどこか安全な町の中で一生を過ごしそうな見た目をしている。そんな少女が森の中でひとり……?
「お前、一体どこから来たんだ?」
「ディヴァ地方のハベルディヴァ城下です!」
ディヴァと言えばここから南のずっとずっと先にある地方でウルフェンも長いことそこで生きてきた。だからこそどれだけそこからの旅が長期的な物になるかもわかっていた。
「冗談だろう? そこからじゃ徒歩で何か月もかかるぞ。それをそんな装備でここまで来ただと?」
「はい、私夢があるので! そのためにここまで来たんです!」
「答えになっていないぞ……。夢とは一体なんだ」
「へへっ、秘密ですっ!」
いたずらそうに笑う少女は話をそらすように質問を返す。
「そんなことより、おじさんのお名前はなんですか?」
「……ウルフェンだ」
「ほう、なんかそんな感じがしますね! その銀色の髪なんか特に!」
そりゃどうも、と無駄に明るい少女を軽く流し名前を聞き返す。
「私はリコ・ベネクララですっ! リコでいいですよ、ウルフェンさん!」
「そうか。で、お前はどこに向かっていたんだ、リコ」
「ここからもう少し北のヴィリボレスのお城です! あそこの城下町に用があるんです」
ウルフェンの目的地もヴィリボレス地方にあった。向かう先は一致している。リコは考え込むウルフェンの顔を不思議そうに首を傾げ覗き込む。
少し考えたウルフェンは深いため息を付き、
「俺もそっちの方に用がある。多少寄り道していいなら……俺と行くか?」
「え、いいんですか⁉ ずっとひとり旅で心細かったんです! もうほんと危険が危なくてでんじゃらすでした」
先ほどの戦闘を見てしまえばこのまま放っておく訳にもいかなかった。それにリコのこの底抜けな明るさはウルフェンの欲している情報を手に入れやすいかもしれない、そう考え同行を提案した。
「お前こそいいのか? 俺はまっすぐヴィリボレス城下まで向かう訳じゃないから時間はかかることになるぞ」
「大丈夫です、色んな土地を回って実際にこの目で色んなものを見る。それも大事なことなので!」
「そうか、なら行くぞ。まずはすぐそこの村だ」
「はい! よろしくお願いします、ウルフェンさん!」
ふたりはこの道の先に見える村へと歩き出した。