嘘つき人形のかくれんぼ
シーカー・テラーは緊張の面持ちで暗い廊下を歩いていた。ここ憲兵局には過去にも何度も取材で訪れているが、いつまで経っても慣れる気がしない。厳重な警戒の下、有事に備えて待機する強面の憲兵達の顔を思い出すと、腹や腰に残る厳しくボディーチェックを受けた感触が蘇り、もぞもぞと服の皺を伸ばして誤魔化す。やがて憲兵の執務棟から地下へ何階も下りた場所、窓もなくランタンの灯りだけが頼りのある一室へ通されると、ここで待つよう案内役の憲兵に言われて古びた椅子に腰かけた。
それから、部屋に一人残されて数分ほど待っただろうか。目の前にある頑丈な鉄柵の向こうのドアが開き、手枷をつけられた一人の男が憲兵に連れられて入ってきた。無造作な髪と伸び放題の髭の陰から、静かな青い瞳がこちらを見ている。シーカーはゴクリと唾を飲み込むと、立ち上がって頭を下げた。
「は、初めまして。トゥルータイムズ社のシーカー・テラーといいます。本日はお時間を頂き、ありがとうございます」
自らの名乗りに男は何の反応も見せず、シーカーと鉄柵越しに向かい合う形で椅子に座る。
「えっと…で、では、早速ですがお話を伺えればと思います」
わたわたと手帳とペンを取り出し、シーカーは自身の仕事に取りかかるのだった。
*
"国の傀儡、パペット侯爵家に嘘をつく事なかれ"
庶民の子供でも知っているこの言葉は、この国で最も敵に回してはいけない家を揶揄したものである。名門貴族の一角を担い、代々法の番人として権威を振るうこの家の前当主リーベン・パペットは、国中の者が口にするその皮肉をこれ以上ないほど体現した人物だった。
貴族の子息が通う士官学校を首席で卒業し、憲兵局に入局後は当時の憲兵局長だった父の権力に一切頼らず現場の最前線で市井、社交界問わずありとあらゆる不正を検挙して実績を重ねた彼は、異例の速さで出世していった。国に忠誠を誓い、政を円滑に進めるためならばたとえ王族であっても躊躇なく排斥する姿は、まさに国の傀儡の名に相応しいものだった。
二十の年に結婚した三つ下の妻アリシアは、幼少期から親同士の決めた婚約者だった。とても気が強く、夫の仕事柄何かと敵も多かったが、全く意に介する事もなくむしろ常に社交界の中心にいるような女性だった。"真実"の意味を持つその名は、嘘を許さないパペット家の妻としてこれ以上ないほどらしい名前だった。そうして支えてくれる妻への義理を通しての事なのか、妾の数が男の甲斐性と言われるこの国では珍しく、彼は一切の愛人を持たなかった。夫婦仲は睦まじく、後継ぎにも恵まれ、最終的に父の後任として憲兵局長に就任したリーベンの人生は、誰の目から見ても成功していた。最期となるあの日だけを除いては。
「ハァ~」
「どうしたシーカー、随分疲れてるみたいじゃないか」
「編集長」
項垂れていた頭を上げて、上司からコーヒーの入ったマグカップを受け取る。
「例の取材、上手くいっていないのか?」
「ええ、まあ…」
曖昧に笑って机に視線を落とす。いつもなら頁いっぱいに取材した内容が書いてある愛用の手帳が真っ白のままなのを見ると、また自然とため息が漏れた。
「編集部のエースのお前でも、流石に今回はお手上げか」
「何を聞いてもだんまりで、一向に口を開いてくれる気配がないんですよ」
「他の出版社の連中も同じ事言ってたなぁ。頑張ってくれよ。ここでウチが話を聞ければ大スクープだぞ」
簡単に言ってくれる。叩かれた肩の痛みがそのままプレッシャーのように感じ、シーカーは髪を乱暴に掻き毟って気合いを入れ直した。
*
パペット侯爵家の当主夫妻が殺害された。
王都を嵐が襲った夜が明けたある日の朝。駆け巡ったこのニュースは、貴族だけでなく一般市民も衝撃を受けた。強盗か、はたまた怨恨による犯行か。憶測が飛び交う暇もなく、犯人は逮捕された。ハイドという名の男は、パペット家の使用人だった。憲兵局からの発表によると、彼は夫妻が亡くなっている部屋で凶器のナイフを持って佇んでいたらしい。
憲兵による事情聴取の間も、殺害を認める趣旨の発言以外は一切口を開かず、動機すら不明のまま送検される事となった。
「───それではこれより、パペット侯爵夫妻殺害事件の裁判を執り行います」
シーカーは、目の前で進んでいく審理を真剣な目で見つめながらメモを取り続けていた。
結局、ハイドからは何の言葉も聞けないまま裁判が始まってしまった。だが、まだ挽回の余地はある。この裁判で、少しでも早く他の出版社より重要な証言を記事にすればいいのだ。
しかし、入廷する時も、検事が罪状を読み上げる間も、弁護士が反論を述べている間も、ハイドは黙って立ったままだった。傍聴席から顔を見る事はできなかったが、恐らく取材の時と同じく静かな眼差しだけが真っすぐ前を見ているのだろうというのは予想できた。
あの青い瞳を思い出していたシーカーは、ふと何か違和感を感じた。
(何だ?)
ペンを動かす手を止め、既に消えかけているそれを必死に掴もうと考え込む。長年積み上げてきた記者としての勘が、この感覚を無視してはならないと警鐘を鳴らしているような気がする。この違和感の正体を解き明かす事が、事件の全貌を知る手がかりになる。シーカーは、そう確信していた。
だが、いくら考えても答えが出てこない。町の中で通りがかった店からふわっと匂ったパンの香りがすぐに消えてしまうように、一瞬だけその存在を窺わせたそれは既にシーカーの頭の奥に隠れてしまっていた。
(くそっ)
内心舌打ちをしながらふと顔を上げると、斜め前の席に座っていた女が目に入った。どこにでもいそうな、普通の一般市民のように見えるが、周りで傍聴している者達が好奇や嫌悪の視線をハイドに向けている中で、彼女は一人膝の上の両手をグッと祈るように握り締め、真剣な表情で法廷を見つめている。
「?」
「以上で、本日の審理を終了します」
裁判長の言葉で、場の空気は一気に緩まる。ゾロゾロと出ていく傍聴客達に紛れて消えてしまった女が、シーカーは妙に印象に残った。
*
「今回の事は、本当に残念に思っていますのよ?」
優雅に紅茶を飲む姿からは全く残念がっているようには見えませんけどね、とは言えなかった。ここは貴族街にあるとある伯爵家の屋敷。貴族の噂好きは庶民のそれとは性質が全く異なる。常に互いの腹を探り合い、少しでも突ける隙を見つければすかさず首を取るか、温情をかけて今後の切り札にする、それが貴族のやり方だ。今回の事件で、貴族は国のために尽くした法の番人の死を悼む声と飼い犬に手を噛まれた事を嘲笑する声と主に二つの派閥で分かれ、社交界の格好の話のタネとなっていた。
そして今、シーカーの目の前にいるのがその事件を楽しんでいる側の人間である。こちら側の特徴として挙げられるのは過去に身内が憲兵局の世話になった者や社交界でアリシアに煮え湯を飲まされた者達、つまり夫妻を敵視している派閥だ。人間としての好き嫌いは置いておいて、社交界に出回る話を面白おかしく話してくれるこの手の人種は情報提供者としては大変に優秀である事に違いはなかった。
「パペット侯爵夫人はとても情に厚いお方でしたでしょう?慈善事業にも熱心で、結婚前から頻繁に孤児院や病院を訪れていらっしゃいましたのよ。彼…ああ、あの犯罪者も、出会いは奴隷小屋だったと聞いておりますわ」
「奴隷?ですが、確か憲兵局の公式発表では彼は侯爵夫人の護衛だと…」
「侍女ですら連れてこなかったのに、たった一人実家から連れてきた男が本当にただの護衛だとお思いになって?」
なるほど、一番話したかったのはそれか。
愉快そうに細められた目に、シーカーは気づかれないようにため息をついた。
「つまり、彼は侯爵夫人の情夫だったという事ですか?失礼ながら、市井では夫妻は大層なおしどり夫婦と評判で、夫妻をモデルにした大衆演劇は連日満員になるほどですが」
「ええ、ええ、そうでしょうね。実際、社交界では度々夫人に直接噂の程を尋ねる方もいらっしゃいましたわ。けれど、その度に夫人は毅然とした態度で答えておられました。"彼はわたくしを守ってくれる頼もしい騎士ですわ"、と。あれほど堂々とした笑顔で仰るのですから、きっとご自身はそのつもりだったのでしょう。ですが、その結果が今回の事件という事はやはり何か双方に認識の違いがあったのではなくて?」
「なるほど…」
かなり偏った見方ではあるが、筋は通っている。アリシアが思わせぶりな言動をしたせいでハイドは身分不相応な感情を持ち、リーベンとの仲に嫉妬した末に犯行に及んだ。だとすれば、彼が沈黙を貫いているのは想いを通わせていると思っていた勘違いを他人に知られたくないからという事だろうか。
この話の裏を取るのにハイドの出自について正確な情報が欲しいところだが、パペット家に聞いて回答を貰えるだろうかと思案していると、それにしてもとまた紅茶に口をつけながら女は言った。
「侯爵が気の毒でなりませんわね。妾を持つ事もなく、伝統のナイフを贈り合った妻に愛を捧げ続けたというのに、奴隷上がりの使用人ごときに命を奪われるなんて」
「伝統のナイフ?」
「ご存じありませんの?パペット家の当主となる者は、結婚する時に互いの名前が彫られたナイフを贈り合いますのよ。夫は妻の、妻は夫の名前の入ったナイフを常に持つ事で、互いの間に嘘がない事を誓うのですって。国の傀儡、パペット家に嘘をつく事なかれ。皮肉ですわね。"真実のアリシア"と謳われた夫人の嘘で、夫婦共々身を滅ぼす事になるなんて。いかが?参考になりましたかしら?」
「ありがとうございます。貴重なお話として、記事に生かさせて頂きます」
ひとまず、貴族しか知らない話を聞けた事は収穫と言っていいだろう。出来上がりを楽しみにしているという期待の微笑みには無難な言葉を返し、シーカーは頭の中でこの先の取材の算段をつけるのだった。
*
「旦那様は間もなく来られます。それまでどうぞ、お寛ぎください」
「あ、いや、その、恐れ入ります」
まさかこんな事になるとは。
恭しく頭を下げられ、どうしていいかわからず肩から掛けていた鞄の紐を握り締める。門前払いをされると思っていたパペット家からまさかの取材の承諾を得、屋敷に来てみればまるで大切な客人のようにもてなされ、シーカーは戸惑いを隠せなかった。今座っているソファは庶民の自分が見てもわかるほど豪華でふかふかしている筈だが、緊張で全く座り心地がわからない。
間もなくと言われてからどれほど待っただろうか。ようやく部屋を見渡すくらいの余裕が出てきた頃に、彼は現れた。
「失礼、随分とお待たせした」
まだ少し幼さを残した顔立ちは、父親に似て真面目さがよく表れている。再びうるさく鳴り始めた心臓の音を抑えようとしながら、シーカーは努めて笑顔を作った。
「いいえ、こちらこそこのような席を設けて頂きありがとうございます。私は…」
「早速だが、こちらを」
名乗ろうとした自分の言葉を遮り、彼は側に控えていた執事に目配せをする。すると、執事は脇に抱えていた茶封筒をシーカーに渡した。
「これは?」
「あの男の経歴と身分証明書の写しです。この家に来る前のものは、母の実家から取り寄せました。憲兵局にも同じものを提出済みなので、公的な文書として活用して頂いて構いません」
「ええっと…」
話が見えず、困惑するシーカーをよそに彼は一方的に話を続ける。
「当家からお渡しできる情報はこれが全てです。あの恩知らずを徹底的に糾弾する記事を期待します。これ以上、くだらない憶測で両親を貶めたくはない」
それから、とまた執事から今度は分厚い封筒を渡される。その中身は見なくてもわかる。
「どういう事でしょうか?」
「当家の御社に対する誠意、と捉えて頂きたい。世論を納得させる記事を書いて頂いた暁には、更に同じだけの額を約束します」
ふざけるな、と怒鳴ってやりたいところだった。トゥルータイムズは貴族にも読まれる信頼ある出版社だ。だからこそ、彼…新たなパペット家の当主は、ウチを選んだのだろう。
ざっと茶封筒の中身を確認するに、確かにハイドは奴隷出身だったようだ。アリシアがなぜ側に置くほど彼を重用したのかは不明だが、少なくともパペット家は今回の事件をあくまでもハイドの裏切りと逆恨みによるものとしたいらしい。全ては世間体を守るために。
これが貴族か、と拳を握り締める。金を積めば思い通りの情報操作ができると思われている事が、常に真実を追い求めるシーカーにとっては最大の屈辱だった。
とはいえ、ここで断るわけにはいかない。相手は法の番人パペット侯爵家なのだ。国の傀儡が本気を出せば、自分も会社も無事で済むとは思えない。
「…善処します」
相手の目を見ないように頭を下げる。唇を強く噛み過ぎたせいだろう。口の中では鉄の味がした。
「───あの!」
屋敷を後にし、門へ向かう途中。両側に広がる庭園、その片方から聞こえた声にシーカーは足を止めた。
よく手入れされた木の陰に隠れるようにして立っていた人物を見つけ、小さく目を見開く。
「あなたは…」
覚えがある。法廷で見かけたあの女だ。身につけているのは侍女の服。この家の使用人だったのかと驚く一方で、どこか納得する自分がいた。彼女からすれば、同僚が主を殺したのだ。見世物感覚で傍聴していた他の人間と違い、真剣に審理を見守りたいという気持ちはあっただろう。
余程他の人間に見られたくないのか、しきりに辺りを気にしている。シーカーもそっと周りに目をやり、誰も見ていないのを確認すると彼女に近づいた。
「何か?」
「その…奥様とハイドさんの事で、どうしてもお話ししたい事が…」
そして聞かされた話に、シーカーは驚愕した。
*
「何度もすみません、ハイドさん」
謝ってはみたが、やはり相手は何も言わない。だが、シーカーは開いていた手帳を閉じて言った。
「今日は私の話を聞いて頂けないかと思いまして」
「…」
「今から三十年以上前、貧民街で奴隷として売り物にされていた少年がいました。ある日少年が奴隷小屋から逃げ出し、奴隷商人から罰という名の暴力を受けていたところに一人の令嬢が居合わせた。正義感の強い彼女は、その場でその少年を買い取り屋敷へ連れ帰ったのです。通常、貴族に買われた奴隷の末路は使い捨ての汚れ仕事か慰み者と相場は決まっている。ですが、令嬢はあろう事かその奴隷に手ずから文字を教え、家の者に剣術を仕込ませ、成長を見守ったそうです。まるで弟のように」
当時を知る使用人を探すのは骨が折れた。ようやく見つけた当時の侍女頭は、半分ボケかかった記憶を思い起こしながら懐かしそうに語ってくれた。
─お嬢様は、幼い頃に流行り病で弟君を亡くされておられましてねぇ。同じ年頃のあの子に、坊ちゃまの面影を見ておられたのでしょう。あの子はあまり感情を表に出さない子でしたが、お嬢様に手を引かれる時はどこか嬉しそうに見えましたよ
「そして数年後、令嬢はある侯爵家に嫁ぎました。その際、彼女は実家からその奴隷…いえ、婚約者に頼んで特例として護衛騎士となった少年も連れてきた。夫となった人物は、自分の仕事に誇りを持ち国のために身を粉にして働く真面目な男だった。妻である令嬢を愛し、二人は社交界でも有名な仲睦まじい夫婦でした。そう、表向きは」
「…」
シーカーはチラ、とハイドの顔を見る。
「侯爵家に仕える使用人の一人から、こんな話を聞いたんです。国のためなら王族さえも粛清する侯爵の行き過ぎた正義に、侯爵夫人が度々苦言を呈していたと。そして、そんな妻に侯爵が日常的に暴力を振るっていたとも。昔からいる使用人達の間では見て見ぬ振りが暗黙の了解だったようで、まだ入って日が浅いその使用人は偶然夫妻の口論の現場を目撃したのだと言っていました」
─それだけじゃないんです
恐ろしいものを思い出すように、彼女は声を震わせて言っていた。
「事件のあったあの日、その使用人は現場の部屋を通りがかった時に侯爵夫人の声を聞いたそうです。"私が止めるしかなかった"、と」
青い瞳が小さく揺れた気がした。
「そのすぐ後に、別の使用人が夫妻が殺害されているのを発見した。それからの事は、あなたが一番知っているでしょう」
「…」
「侯爵夫人は、一体誰と話していたんでしょうか。侯爵か、それとも…」
沈黙が続く。その間も、ハイドは目を逸らす事なくシーカーを見つめていた。ただ、何の感情も読み取れなかったその視線はシーカーの話を聞いてから何かを訴えかけているように思えた。
コンコンとドアを叩く音がして、案内役の憲兵が入ってくる。
「時間だ」
「わかりました」
ここまでか、とシーカーはゆっくりと目を閉じる。椅子から立ち上がり、部屋を出ようとしたところで足を止め、ハイドに背を向けたまま言った。
「最後にお会いできて光栄でした。騎士としてのあなたの覚悟に、心から敬意を表します」
返事は待たなかった。ガシャンと閉まるドアの音は、地下の廊下に重く響いた。
*
憲兵局の調べによると、凶器となったナイフには"Lieven"と彫られていたらしい。つまり、アリシアが常日頃から持っていたナイフが犯行に使われたのだ。護衛騎士ならば自分の剣があっただろうに、なぜ彼は主の持つナイフを使ったのか。
自分の心を弄んだ主を夫婦の愛の証で殺してやりたかった。わからなくはない。同じ情報を得た他の出版社は、皆身分を弁えぬ元奴隷の逆恨みだと報じている。しかし、シーカーはどうしてもある仮説を払拭できないでいた。
奴隷として生きるしかなかったハイドに教育を施し、地位を与え、信頼を寄せたアリシア。そんな彼女に彼はただ黙って側に付き従い、守り続けた。
─彼はわたくしを守ってくれる頼もしい騎士ですわ
社交界でハイドとの関係を勘繰られた時、アリシアはいつもそう答えていたという。もしも彼が守っていたのが、悪漢ではなく夫の暴力からなのだとしたらどうだろう。そしてあの日、使用人が聞いた"私が止めるしかなかった"というアリシアの言葉。
もしも、もしもだ。リーベンを殺したのがアリシアだとしたら?普段から各々の正義に食い違いがあり、口論の末に暴力を受け続けたアリシアが耐えかねたのだとしたら?人の道を外れる事をしてしまった事で自身を嫌悪し、死を望んだのだとしたら?
いくら主とはいえ…いや、主だからこそ自分が手にかけるその絶望はどれほどのものだろう。
(ましてや…)
「判決を言い渡す」
法廷に立つ背中をシーカーはジッと見つめる。周囲の見立て通り、身分不相応な想いを抱いている事に違いはなかったのだろう。恐らくは、アリシアも。でなければ、実家からただ一人連れてきたりはしない。
社交界での振る舞いを聞くに、貴族としての生き方は受け入れていたのだと思う。割り切っていたという方が正しいか。それでも、あの日何かが限界を迎えたのだろう。そして、彼女は最期に彼の手にかかる事を望んだ。彼もそれに従った。
シーカーには貴族の矜持は理解できないが、あれほど社交界の中心にいたアリシアが、国の傀儡と恐れられたパペット家が夫婦の諍いで当主を亡くすというのは、家の名誉を汚す事に繋がるのだろう。おしどり夫婦だと言われながら、実は暴力を受けていたという事も他ならぬアリシアが知られたくなかったに違いない。だから、ハイドが守った。
シーカーは、彼の青い瞳を思い浮かべる。今ならば、あの時の違和感の正体がわかる気がする。あの静かな眼差しは、主の秘密も尊厳も…
「主文、被告人を極刑とする」
自らの死を以て何もかもを守ろうとする覚悟の表れだったのだ。
正気とは思えない。自分に人並みの人生を与えてくれた人に頼まれ、その手を汚すなんて。だが形は歪でも、そこには確かに"愛"があったのだ。
ざわつく廷内の中、シーカーは黙って手帳を懐へしまう。憶測でしかないこの考えを記事にする事はできない。彼も、それを望んではいない。ならば、彼の意図を汲んで世間の目を欺くだけだ。
判決を言い渡される間も、退廷する時も、ハイドはやはり口を開く事はなかった。常に真実を追求するシーカーにとって、自身の信念に背く記事を書いたのは後にも先にもこれだけだった。