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千代に八千代に 尾の裂くるまで

「オサキさまオサキさま、おねがいします」

 また来た。

 舌足らずな子供の声で眠りから覚めたオサキは、欠伸をして下を見下ろす。

 つぎはぎだらけの着物を着た少女が祠に向かって手を合わせ、何やら熱心に頼みごとをしているのを見て、毎日毎日よく飽きないなと鼻を鳴らす。祠と言っても、山奥の田舎にある小さな村、そのはずれにぽつんと申し訳程度に建てられた何とも貧相な祠である。ちょうどいい塩梅の形をした石があったから適当に積み上げてみた、そんな祠。

 一応土地神というものに分類される自分だが、何せ先にもあった通りここは寂れた農村。百年か二百年か前までは村人達が多くの供え物を持ってきていたが、次第にその数は減っていった。海の向こうからこの国では見かけない鬼が黒い船で襲ってきたとか、"めいじいしん"なる国の改革が行われたとかいう話を村人がしていたのをおぼろげに覚えている。そのせいかは知らないが、若い衆は続々と都会へ出ていきただでさえ少なくなっていた信仰は小石が坂を転げ落ちるように廃れていった。

 土地神は信仰を失えば消えてしまう。別に元々栄えたいという野心があったわけでも、村人達に報いてやりたいという殊勝な意志があったわけでもない。みすぼらしい祠を建てて祀った気分になっているような信仰など、初めからなかったも同然だ。神とて人と同じ、消える時は消えるのだ。そう悟ってからいくらか経った頃、その子供は突然現れた。

 いつも薄汚れた着物姿で、木の実ほどの小さな握り飯を一つ木の葉を敷いて供えては手を合わせて帰っていく。今どきの子供にしては珍しい信心深さだが、どうせすぐに飽きると冷めた目で見ていた。だがひと月、ふた月、雨の日も風の日も欠かす事なく少女はやってきて、必ず握り飯を置いて手を合わせる。気づけば、二年の月日が経とうとしていた。

 オサキはふとこの少女に興味が湧いた。一体何をしてほしくてこんなに熱心に参っているのか。束の間の暇つぶしくらいにはなるだろうと思い、少女に声をかけてみる事にした。

「おい、そこの(わっぱ)。お前はわしに何を願う?」

 いつも寝そべっている木の枝から飛び降り、祠の上に立つ形で少女の目の前に現れると、想像していた間抜けなものとは違うきゅっと眉を吊り上げた勝気そうな顔がこちらを見ていた。

「…おじちゃん、そこはかみさまがいるところだよ。はやくどかないとばちがあたっちゃうよ、知らないの?」

 この糞餓鬼、(ばち)を当ててやろうか。

 これが二人の出会いであった。



「オサキ様オサキ様、お願いします」

 今日も今日とて熱の入ったお参りをする背中から声をかける。

「たまには他の物を供えてくれんか。馬鹿の一つ覚えで握り飯ばかり持ってきおって」

「うひゃあ⁉」

 突然耳元で話しかけられ、驚きの声を上げた少女はばっと後ろを振り返った。

「もう!いきなり現れないでって言ってるでしょ⁉」

「ほう、現れん方がいいのか。ならば、願いなど聞かず帰るとしよう」

「わー、嘘嘘!ごめんなさい!帰らないで!」

 がしりと腕にしがみつく姿に、オサキはにんまりと笑う。

「ふふん。最初からそうしてしおらしくしておれば良いのだ、どちびのちぃ子が」

「ち・よ・こ!」

 憤慨しながら名を訂正するこの娘の名は稲生千代子(いなきちよこ)。四つの時に両親を亡くし、母方の親戚を頼ってこの村にやってきて九年。時が経つのは早いもので、初めて見た頃に着ていた着物は今セーラー服へと変わっている。

「女学生になっても背の伸びん糞餓鬼なぞ、ちぃ子で十分だ。悔しければわしの頭でも触ってみろ。まあ、天地がひっくり返っても届かんだろうがな」

「ま、まだ成長期は終わってないわ!これからもっと伸びるんだから!」

「はてさて、いつになる事やら」

 握り飯を口に放り込み、オサキは細い目を更に細めてにやにやと笑う。

 あの日、千代子の目の前に姿を見せたオサキは彼女の境遇を聞いて色々と腑に落ちた。薄汚れた着物を着ていたのも、このように一口で収まる小さな握り飯しか供えないのも、家で碌な扱いを受けていないからなのだ。両親は半ば駆け落ちのような形で結婚し、千代子が生まれた。その後すぐに父親は戦争に駆り出され、母親は頼る身内もいない中女手一つで千代子を育てた。

─でもね、おとうさんはめいよのせんしをして、おかあさんはくうしゅうでおうちのしたじきになっちゃったの

 そう語る千代子は、泣くのを我慢するように口をへの字にしていた。結局、親戚中をたらい回しにされてここへ来たのだが、出生の経緯もさる事ながら世は世界規模の戦争の真っただ中で引き取ってくれた今の家も決して生活は楽ではなかった事もあり、彼女への風当たりは強かった。

 そんな折、村の誰かしらから祠の話を聞いたのだと言う。

─オサキさまにおそなえものをしてねがいごとをしたら、なんでもかなえてくれるって。だから、おとうさんとおかあさんをちゃんとてんごくでしあわせにしてくださいっておねがいしてたの

 何とも無責任な希望をちらつかせる輩がいたものだと、その時オサキはため息をついた。幼気(いたいけ)なこの娘はその話を信じ込み、ただでさえ少ししか貰えない飯を更に小さく握り直してせっせとここに通い詰めていたのだ。

 事情を知ったオサキは、せめてそれまでのお参り分くらいは現実を知る権利はあるだろうとはっきり告げた。信仰を失いつつある自分にあの世へ働きかける力はもうないのだと。泣かれる覚悟はしていたが、千代子の反応は想像の斜め上を行った。

─じゃあ、わたしがずうっとおまいりしたらオサキさまのちからはもどるよね!

 阿呆だ、こいつ。オサキはそう思った。

 たかが子供一人の信仰で神力が戻るならば苦労はしない。けれども千代子はそれからも毎日欠かさずここへ来るので、オサキは呆れながらもぼーっとしているよりは退屈せずに済むだろうと話をするようになったのだった。

 千代子は自身が置かれている環境に不満一つ言わない娘だった。家でも学校でも居場所がない事は見て明らかだったが、通学途中で見つけた花がとても綺麗だったとか雨上がりに虹を見られたのが嬉しかっただとか、そんなどうでもいい話を明るく話す娘だった。そして最後に必ず、こう言うのだ。

─お父さんとお母さん、天国で仲良くしてるかな

 そう呟く時だけ、静かな笑顔を浮かべた。千代子をからかうのが大好きなオサキも、その時だけは「さあな」とそっけなく返した。



 戦争が終わったそうだ。この国は負けたらしい。人々は外の国の者達に蹂躙されると恐れていたが、想像していたほどひどい事は起きなかった。

 しばらくの間、混乱と穏やかさが入り混じった時が過ぎたある日。千代子は新しく仕立てられた汚れ一つない着物姿で、いつもよりずっと大きく(ひえ)(あわ)などではない白米だけでできた握り飯と上等な酒を持ってやってきた。

「私ね、お嫁に行く事が決まったの」

 頬を染めてそう言う千代子は、とても幸せそうに笑っていた。曰く、都会の大学へ通っていた村長の息子が里帰りをした際に子供の頃以来会っていなかった千代子を見初めたのだと。それまで厄介者として扱っていた彼女の親戚は諸手を上げて喜び、千代子も今まで世話になった者達に恩を返せるならばと縁談を受けたらしい。

 オサキは嬉しそうに話す千代子を見ながら、もやりと胸の中に何かがまとわりつくような感覚を覚えた。子供だと思っていた者が急に見せる女としての姿に、何か長年手慰みにしていた鞠をひょいと取られてしまったような、上手く言葉にできないがとにかく面白くないと思ったのだ。

 長く生きているが、こんな感覚は初めてだ。それをどう扱えばいいのかわからず、オサキはふいとそっぽを向いた。

「そうか。つまり村を出るのだな。今までせっせと参り続けた努力も、都会へ行ってしまえば水の泡だろう。お前の両親は、さぞや落胆するだろうな」

「そ、そんな事ないよ。私、お嫁に行っても毎日オサキ様のいる方角に向かって手を合わせる!約束する!」

「口では何とでも言えよう。ほれ、嫁入りの支度があろう。もう行ってしまえ」

 少しの沈黙があった後、しょぼんとうなだれて帰っていく気配を感じて顔の位置を元に戻す。残された握り飯と酒は久方ぶりの上等な供え物だったが、手をつける気にはなれなかった。



 千代子が村を出ていってから何年経った頃だろうか。盛大な花嫁行列で送り出された彼女は、生まれて間もない乳飲み子を抱いて戻ってきた。こういう時の村人たちの噂というのは、聞こうと思わなくても勝手に耳に届いてくる。どうやら、夫として生涯の愛を誓った筈の男は資産家の娘と不義を働き、あろう事か家ぐるみで一方的に千代子へ三行半(みくだりはん)を叩きつけたらしい。せめてもの情けか、千代子は元義理の実家となった村長の家に使用人として迎え入れられ、辛うじて親子揃って路頭に迷う事は避けられたそうだ。

 オサキは(いか)った。いつの世も、人という生き物は身勝手で仕様もないものだと。千代子の親戚も、離縁された娘を恥だと切り捨て助けようとはしなかった。たんまりと結納金を貰い、小躍りするほど喜んでおきながら、出戻ってきた彼女の子供の顔を拝む事すらしなかった。何と愚かな事だと憤った。けれど、オサキは何よりも戻ってきて初めて顔を見せた千代子の言葉に腹を立てた。

「ごめんなさい、オサキ様。お産が長引いて、一日だけ手を合わせる事ができなかったの。だから(ばち)が当たっちゃったのかな」

 阿呆かお前はと(なじ)ってやるところだった。千代子は夫だった男や、親戚を恨む心など微塵も持っていなかった。大人びた顔をするようになったとはいえ、子供の頃から全く変わらぬお人好し加減にオサキは苛つきを抑えられなかった。

 だけども背に負ぶった赤子を起こすのが忍びなくて、嫁に行くのだと言われた時のようにそっぽを向き言った。

「ふん。本当に一日だけか?遠い地から合わせる手なぞ、か弱くて届かんわ。大方、子作りに勤しみ過ぎてすっかり忘れておったのだろう。ちぃ子のくせに調子に乗るから、捨てられるのだ」

 ひどい事を言った自覚はあった。千代子は一瞬だけ傷ついた顔をしたが、すぐにへらっと笑って「ちぃ子じゃないよ」とだけ返し帰っていった。そっと置いていった握り飯は、米こそ白米だけで握られてはいたがあの頃よりも更に小さかった。

 オサキはわかっていた。毎日、確かに遠くから自分を信仰する思いが届いていたのを感じていたのだ。千代子は本当に、嫁いでからも欠かさず手を合わせ続けていた。だからこそ、もはやそれに報いてやれる力も失ってしまった己の無力さに、オサキは一番腸が煮えくり返る思いだった。



 それからの千代子は、ただただ哀れの一言に尽きた。紙一重で生きていけるだけの飯を貰うために日の出前から夜遅くまでこき使われ、雀の涙ほどの給金で懸命に子供を育てた。外へ出れば指を指され、笑われ、ひどい時には村の子供達から石を投げられる事もある中で、それでも不満も泣き言も一つも口にする事はなく、変わらずオサキの元へ手を合わせにやってきた。

「だって、何ができるわけでもない私を置いてくれるんだもの。あの子を守るためにも、受けた恩は返さないと(ばち)が当たるわ」

 にこにこと笑う千代子に、オサキはもう腹を立てるのをやめた。代わりに、ある事を思いついた。

「ちぃ子、わしの嫁になれ」

 唐突な求婚に千代子は目をまん丸にした。それからくすくすと笑うと、首を横に振った。

「神様に嫁ぐなんて、そんな畏れ多い事できないわ」

「その神が許すと言うておる。わしに嫁げば、人などよりずっと長く生きていられる。そうすれば、お前の両親も喜ぶだろう」

「長く生きられればいいってものじゃないのよ。私はただ、あの子がすくすく育って幸せになってくれればそれでいい。お父さんとお母さんがそれを見て、安心してくれていたらそれで充分なの」

 オサキにはわからなかった。人は死ぬ事を恐れる。あの世へ行った時に極楽浄土へ行く事を望む。だから祈る。だから願う。ならば、長く生きればいい。力を失いつつある身と言えど、人が未練をなくせるくらいの時間は共に生きてやれる。それなのに、千代子は長く生きる事にはこだわらないと言う。

「やはりお前は変わった女だ」

 そう言って、供え物の握り飯をひょいと口に運んだ。



 またいくらか時が過ぎた。千代子の子供が小学校へ上がる頃、彼女の人生は何度目かの転機を迎えた。

「再婚?」

 オサキは眉を寄せて聞き返した。

「そう」

「相手は?」

「この村からそう遠くない町の会社の偉い方よ。前に村の再開発のために視察にいらっしゃって、私の事を見かけて気に入ってくださったんですって」

「…その男、年は?」

「ええと、確かもうすぐ六十七だって言っていたと思う」

「ちぃ子はいくつになった?」

「この間、二十七になったばかりよ」

「その縁談、村長から是非にと頼まれただろう」

「すごい。どうしてわかったの?」

 もう阿呆と言う気力も湧かなかった。千代子の話には思い当たるものがある。この村の自然豊かな環境を活かして、きゃんぷ場なるものを作ろうという計画があるらしいという村人の噂は耳にしていた。恐らく(くだん)の男はその事業に深く関わる人間なのだろう。そして、少しでも自分に旨みのある方向に持っていきたい村長は千代子を差し出す事で話をまとめた、そんなところか。

 四十も離れた年寄りに、それも仕事と私情を混同するような男に嫁いでどうなるかなど目に見えている。千代子も千代子だ。なぜそんなあっさりと受け入れる事ができるのか。オサキは今度こそはっきりと自覚した。他の男になぞ渡したくはないと。

 オサキはすぐ側に()っていた木の実を手に取ると、千代子に差し出し言った。

「ちぃ子、これを食え」

「え?」

「今この実にわしの力を込めた。これを食えば、お前はわしのものだ。人ならざるものになれる。くだらぬ人の世界で生きていかずともよくなる」

「オサキ様」

「食え。食ってくれ」

 最後は懇願に近かった。けれども、千代子は穏やかに微笑んで首を振った。

「私は人でありたいの。人として生きて、人として死にたい。そうじゃなきゃ、あの世でお父さんとお母さんに会えないもの」

 ありがとう、オサキ様。私の事を心配してくれて。

(違う)

 去っていく彼女の背中を見つめながら、オサキはぎゅっと拳を握った。

 心配しているからではない。自分もあの男達と何も変わらない。いや、それ以上に千代子を愛している。千代子のためを思うような御託を並べてはみたが、結局のところ共に生きたいと願っていたのは自分の方だったのだ。



 何十年かが経った。すっかり人気の観光の場となった村は、毎日のようにたくさんの人が訪れ賑わっていた。夜でもあちこちで煌々と明かりがついていたが、祠の存在は観光客どころか村の人間でさえ知らぬものとなっていた。

 もう自分を信仰する者は誰もいないのだろう。オサキは自身の手を見て思う。ほんのりと、けれど確かに透けたそれは自分が間もなく消えようとしている事を示唆していた。

(ちぃ子の祈りも届かなくなったのだ。無理もあるまい)

 二度目の嫁入りをした千代子は、再び村を離れても律儀に手を合わせ続けていた。しかしここ数年、それはぱったりとなくなってしまった。

 いい加減飽きたのだろうか。願い事をしなくともよくなるほど幸せになったのだろうか。とにかく、自分は唯一の信仰すら失ったのだ。

 ふと自身の長い過去を振り返ってみる。千代子にも話した事はなかったが、オサキは元々ただの狐だった。森で自由気ままに暮らしていたのを狩人に()殺され、成仏できず村人へ悪さをしていたら鎮魂のために祠を建てられ、勝手に広まった伝承にこれでもかと尾ひれがつき、気づけば多くの信仰を得て神力を手に入れオサキと呼ばれる土地神となっていた。

 振り返って思うが、自分も大概人の勝手に振り回されてきたものだ。だから余計に、千代子を放っておけなかったのかもしれない。そう思いを巡らせていたところにその娘はやってきた。

 観光客の装いをした彼女は、一人で祠を訪ね綺麗な三角の握り飯を供えて手を合わせた。その姿が千代子に重なり、オサキは思わず声をかけた。

「どこで話を聞いたか知らんが、もう手を合わせても無駄だぞ」

 娘はびっくりした顔でオサキを見ていたが、「本当だったんだ」と呟くとぺこりと頭を下げた。

「初めまして。私…えっと、旧姓何だっけ…あ、稲生千代子の孫です」

「!」

 オサキは驚いた。確かに、顔を見てみればどことなく千代子の面影がある。

「おばあちゃんからあなたのお話を聞いて、ここにお参りと報告に来ました」

「報告?」

「おばあちゃんに頼まれたんです。自分に何かあったら、オサキ様に伝えてほしいと」

─手を合わせられなくてごめんなさい。私にはどんな(ばち)を当ててもいいから、ずっと長生きしてね

「…」

「おばあちゃん、ここ何年かはずっと寝たきりで…碌に手を動かす事もできなかったんです」

 オサキ様に信仰を届けられない事をずっと悔しがっていたと話す娘に、オサキは尋ねる。

「ちぃ子は、今…」

「…亡くなりました。一昨年の暮れに」

 さぁ、と木々が風に吹かれる音が聞こえる。

「おばあちゃん、お母さん…あ、おばあちゃんの娘を再婚先で育てたんですけど、お父さんと結婚するって決まった途端身体を壊して入院がちになったそうです。それまでだいぶ無理してたらしいので、お母さんがお嫁に行くって知って一気に力が抜けたんだと思います。おばあちゃん、ずっとオサキ様の話をしてましたよ。意地悪だけど、とても優しい神様だって。自分が供えるおにぎりをいつもちゃんと食べてくれて…あ、すみません。神様へのお供え物に、こんなコンビニのおにぎりで…お葬式が終わった後も色々バタバタしちゃって、ここに来るのが遅くなっちゃって」

「…そうか」

「え?」

 ぽつりと言葉が落ちる。

「そうか。もうおらぬのか」

 合点がいったように手を見つめる。

─じゃあ、わたしがずうっとおまいりしたらオサキさまのちからはもどるよね!

 ただ一人信仰を届けてくれていた千代子は、もうこの世にはいないのだ。なるほど、力を失っていく筈だ。静かに納得したオサキは、千代子の孫にまた尋ねた。

「ちぃ子は…笑って逝ったか?」

「…はい」

「…そうか」

 村の方へ帰っていく千代子の孫を黙って見送る。その背中を見ていると、毎日見ていた千代子が重なり何とも言えない気持ちになった。どんどん自分から遠のいていき、やがて彼女の姿は見えなくなった。

 オサキは目を閉じ、村の方へと耳を澄ませる。わいわいと祭りでも催しているような楽しげな声がそこかしこで聞こえる。自然以外に取り柄などなかったこの土地も、もう自分などいなくとも十二分にやっていけるようだ。所詮自分は化け狐上がりの土地神もどき。ここらが潮時だろう。後悔を挙げるとすれば、己の行く末をあの世の神に祈っていなかった事か。千代子のような信心深さがあればと悔いても、もう遅い。

「もしもわしも生まれ変わりとやらをして、人に生まれる事ができるのならば、今度こそお前はわしに嫁いでくれるだろうか」

 その声を最後に、辺りにはしんとした静けさが広がった。

 山の奥底にある小さな農村。そのはずれにぽつんとある小さな祠。その昔、そこに人を馬鹿にし、人を見放し、そして人を愛した土地神がいたのだが、それを知る者はもう誰もいない。

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