春らんまん 恋色前線暴走中
「蘭!生まれたか!」
頬を紅潮させながら飛び込んできた夫に、部屋の主は微笑みを返す。そしてゆっくりと身を起こすと、傍らにあった小さなベッドに視線を向けた。
「か…ッ」
妻の隣でスヤスヤ寝息を立てているのは、紛れもなく待望の我が子。その顔を覗き込んだ途端、彼は裏返った声に引き摺られるように仰け反る。
「可愛い!!何だこの可愛さは!!まさに天使だ!!」
「ごめんね~。今だけでいいから許してね~」
鼻の下をデレ~ッと伸ばす父親はスルーし、我が子の頭を撫でながら謝る。
ひとしきり悶絶し終えたのか、彼は先程とは打って変わって穏やかな笑顔を向けた。
「ありがとう」
「あら、改まっちゃってどうしたの?」
「からかうなよ」
クスクス笑われ、照れくさそうにそっぽを向く。
「名前、どうする?」
「そうだなぁ…」
色々考えてみたんだけど、とポケットからゴソゴソ手帳を取り出す。
ペラペラと捲られていくページを覗けば、細かい字で候補と思われる名がびっしりと並んでいた。
(相変わらず几帳面なんだから)
昔から変わらない癖への呆れと、娘のために一生懸命考えてくれた事への嬉しさが混じった笑みをこっそり浮かべる。
うんうんと唸っている彼から目を離し、窓の外を見たところでふとある事を思い出す。
「そういえば、あそこの桜はもう咲いた?」
その問いかけに手帳から視線を上げる彼の顔は、キョトンとしている。が、すぐに思い当たったのかニッと笑い言った。
「ああ。見事に満開だよ」
「そう」
「今年は見れそうにもないけど、来年はこの子を連れて三人で行こう」
「ええ、そうね」
二人で愛らしい寝顔を見つめる。
すると、彼の口から感慨深そうな声が漏れた。
「八年か…」
「え?」
「いや…君に出会ってからもう八年経つのかと思うと、ね。あの頃は、こうして君の隣に立てるなんて思わなかったよ」
「それ、結婚式の時にも言ってたわよ」
「何度だって言うさ。それくらい、あの頃の僕にとっては困難な道のりだったんだからね」
そう言いながら、手帳に挟んでいたある物を手に取る。
一枚の桜の花びらを押し花にした白い栞。
─いらっしゃいませ!
今も耳に残る声と窓からそよぐ春の匂いに、懐かしい思い出が甦った。
*
「おはよう蘭ちゃん!今日も素晴らしく可愛いね!」
「おはようございます。今日も素晴らしくウザいですね、春日井先輩」
サークルの部室に入ってくるなり、この会話。かれこれ一年近く続いているやりとり、ツッコむ人間は最早皆無だ。
グサリと言葉のナイフを突き立てられ、意気消沈する青年を横目に蘭はハッと鼻を鳴らす。
「何で…何でわかってくれないんだ…!こんなに好きなのに!」
「何でわかってくれないんでしょうね。こんなに全力で嫌がっているってのに」
「部長。どうします、アレ?」
「ほっとけ。関わるだけ無駄だ」
会話の温度差がすごい。室内に木霊す泣き声に、部長の青年は頭を抱えた。
「───うわ、機嫌悪っ」
「悪くもなるわよ」
イライラと店のエプロンをつける姿に、友人はケラケラと笑う。
「毎日飽きないねぇ。ちょっと感心しちゃう」
「当事者じゃないからって、面白がるのやめてくれる?」
「あ、バレた?」
だって素敵じゃない!、と目を輝かせる。
「一目惚れされた相手から毎日好きだって言われる生活よ?世の女子大生の憧れじゃない」
「どこが」
ため息をつきながら蘭はホールに出る。しかし、すぐに立ち止まってしまったのを見て友人は首を傾げる。
その視線の先を辿ると…
「…ああ」
いた。
ウキウキと鼻歌でも歌いそうな様子でメニューを開いている青年を指差し、蘭は尋ねる。
「アレ見ても羨ましいとか思える?」
「…うん、でも悪い人じゃないんでしょ?」
(微妙に空いた間は何なのよ)
敢えて声には出さず、スタスタと彼のテーブルへ歩いていく。
こちらに気づきパァッと顔を輝かせる姿は、まるで無邪気な子供のようだ。
「やあ、蘭ちゃん!」
「就職活動はどうしたんですか先輩。三年ももう終わるってのに、随分と余裕なんですね」
「アハハ!大丈夫!面接の帰りだから」
ほらスーツ、と大きな袋を見せる。
「家に帰る前に、蘭ちゃんのコーヒーが飲みたいなと思ってさ」
「淹れてるの、私じゃないんですけど」
「蘭ちゃんが運んでくれるからいいんだよ」
「バイトは私だけじゃないんですけど」
「じゃあ蘭ちゃんを指名します!」
「キャバクラ行けよこの野郎」
「マスター。客に暴言吐いてますよ、あの子」
「春日井君も楽しそうだからいいんじゃないかな」
注文の伝票をやりとりしながら、外野組はのほほんと二人を見守る。
「とりあえず、ご贔屓のキリマンジャロ飲んだらさっさと帰ってくださいね邪魔なんで」
「…」
「…何笑ってんですか」
ニコニコ嬉しそうな顔に眉をひそめる。
「ん~?いやぁ、何だかんだ言って優しいなぁと思って」
「は?」
「僕がいつも頼むのがキリマンジャロだって、ちゃんと覚えてくれてるんだなぁって」
それも砂糖一つミルクなしでさと言われ、フイッと顔を背ける。
「常連さんが何を頼むか頭に入れておくぐらい、接客する人間なら当たり前の事ですから」
「つまり、客としては見られてるってわけだ」
言葉の隙を突かれ、蘭はやりにくそうに伝票を切るのだった。
*
第二印象はとにかく強烈だった。
─春日井…よし、いち?
─"かいち"だよ。春日井佳壱。経済学部の三年で、ここの書記係なんだ
─はぁ…で、その先輩が私に何か?
─まどろっこしいのは苦手だから直球で言うよ。僕と、結婚を前提にお付き合いしてください!
─…は?
成績優秀、文武両道。爽やかで、誰とでも分け隔てなく仲良くなる事ができる好青年。
ただし、どこか残念。
それが、蘭の脳内データベースに書き込まれた彼の評価だった。
(大勢の前であんな事言うから、変に有名になっちゃったし…)
面白がる先輩達の誘いに負け、そのままそれほど興味もなかったサークルへ入る羽目になった過去を思い出し、眉間に皺を寄せる。
「あ」
「あ」
噂をすれば何とやら。部室に一人いた悩みの元凶とバッタリ出くわす。
「あれ、蘭ちゃんどうしたの?今日は何も活動ないけど」
「その台詞、そっくりそのままお返ししますよ。就活生がこんなトコで何やってんですか」
メモ用紙やら資料やらで埋め尽くされている机を見て、怪訝そうに問う。
「そろそろ引き継ぎの時期だから、その準備を色々ね。ウチは、書記の記録ファイルが大事だからさ」
そう言うと、再び資料に視線を戻していく。こっそり後ろから覗いてみれば、そこには細かい字がビッチリ羅列されている。
"映画鑑賞サークル"と書かれたその紙は、これまでの活動を記しているらしかった。細かく書かれた活動報告のファイルの隣には、記入の仕方は勿論注意点や後々の活動をスムーズに進めるためのアドバイスなどがわかりやすくまとめられている。
「さすがメモの鬼」
「ハハッ。その名前で呼ばれる事もなくなるのかと思うと、寂しいな」
サークル内でのあだ名を呟けば、朗らかな笑顔が返される。そうやって普通に笑っていればそこそこモテなくもないだろうにと、心の中でため息をつく。
ふと視線を机にずらすと、ちょうど手帳に書いてある予定が視界に入った。
「打ち上げの場所、決まったんですか?」
「ん?ああ、一応ね」
「自分達の送別会なのに幹事やるって、どこまでも残念ですね」
「蘭ちゃん、僕も傷つく事ってあるんだよ?」
いいけどさ、と涙を滲ませながらポツリと呟く。
「どっちにしろ、僕にとっては最後だからさ」
「え?」
「あ、マズい!ゼミに顔出すって言ってたんだ!」
用事を思い出した佳壱は、慌ただしく片付けだす。
「じゃあ蘭ちゃん、また今度ね」
バタバタと出ていく背中をただ立ったまま見送る。
「…そういえば」
今日は“好きだ”って言われなかったな。
唐突にそう思った自分にハッとし、何考えてんだと首を振った。
*
佳壱の意味深な言葉の真相は、それからしばらくしてからわかった。
大学一年目の授業が終了し、春休みに入ったある日の事。蘭はバイト先の喫茶店で昼食を取っていた。マスターがサービスしてくれた食後のコーヒーを飲むが、慣れない苦味に砂糖とミルクを追加した。
すると入口のドアのベルの音がカランカランと鳴り、サークル仲間の友人が慌てながら入ってきた。
「あ、いた蘭!」
「どうしたのよ、そんな息切らしちゃって」
呑気にコーヒーを飲む彼女に、その友人はバンッとテーブルを叩き言う。
「春日井先輩、海外行っちゃうんだって!」
「は?」
店中に響くような大声だったが、それでも信じられず己の耳を疑った。
*
「え~、では。俺達の引退…というか、春日井の門出を祝って…」
「「「カンパ~~~イ!!」」」
あちらこちらでグラスがぶつかり合う。
座敷を一つ貸し切ってのこの送別会。テーブルの真ん中では、友人から揉みくちゃにされる佳壱の姿があった。
「こんにゃろ!就活から脱出どころか、海外留学だと!?」
「羨ましすぎんだよ、コンチキショウ!」
「痛い、痛いって!お前ら、少しは手加減しろよ!」
「でも、寂しくなるわねぇ」
「だよなぁ。何たって…」
「「「ちょうどいい暇潰しのオモチャがいなくなるんだし」」」
「お前ら…三年も付き合ってて他に言う言葉はないんかい」
わいわいと盛り上がっている様子を蘭は離れた所からぼんやり眺める。
元々行きたいと思っていた大学に空きができ、試験を受けたところ見事合格した。そう聞いた。
自分は彼が留学したいと思っていた事も、就活の合間に試験を受けた事も知らなかった。彼は何も言わなかった。
「蘭ちゃん」
「あ…先輩」
「どうかした?何だか元気ないみたいだけど」
春日井がいなくなるのが寂しい?という問いに、バッサリ答える。
「それはないです」
「うん、せめてもう少し悩む素振りを見せようね。嘘でもいいから」
最後の最後まで手厳しいね、と同情の声を漏らさずにはいられない。
「…それはない、んですけど…」
(お?)
初めて見る反応に、先輩はついジッと見つめる。
「…とにかくないです!」
「あ、やっぱりないんだ」
まあまあとグラスを差し出す。
「こういう席で暗い顔ってのも何だしさ。これ飲んでパーッと楽しもうよ!」
「先輩、私未成年…」
「今日は固い事は抜き抜き!無礼講って事で」
ね!とウインクされ、はぁと促されるまま受け取る。
コクリと一口含んでみると、思っていたより甘い風味が広がった。
(結構美味しい)
そのままゴクゴクと飲み干す。
─どっちにしろ、僕にとっては最後だからさ
部室で聞いた台詞が脳裏に蘇り、また胸が苦しくなった。
*
「おお~っ、蘭ちゃん結構イケるじゃん!」
「ん?」
いつの間にか騒がしくなってきた向こうのテーブルに、佳壱が何だと振り向く。
「うるはいな。もっと持ってきてくらはいよ」
「でも、これで日本酒三本目だよ?流石にそろそろやめといた方が」
「らいじょーぶれすって。いーから早くくらはい」
「そこの不良共ちょっと待てええぃ‼」
渾身の叫びを上げながら盗塁王も真っ青のスライディングで頭から突っ込み、徳利を奪い取る。
「川島ぁ!!我がサークル鉄の掟を言ってみろ!!」
「メンバーはいかなる理由であっても国の法を破るべからず。よって、成人するまではジュースで我慢すべし」
「そのとーり!なのに何じゃこりゃああ‼」
「松○優作れすか。鬱陶しいんでやめてくらはーい」
「そんだけベロンベロンなのに、何で僕への毒舌だけは全開なの!?」
紅潮した顔に潤んだ目。正直勘弁してほしいほど色っぽいが、それだけにいけない。
「~~~っ、ちょっと来て!」
グイッと手を引っ張り、自分と彼女二人分の荷物を持って出口へ向かう。
「お、何だ春日井。お持ち帰りかよ」
「キャー!春日井先輩のヘンターイ!」
「酔っ払いは黙ってろ!」
それと川島ぁ!!、と般若のような顔で振り返る。
「俺とこの子の分の代金、ここに置いとくからお前が払っとけよ!」
「キレてても、そういうとこキッチリしてんだな」
しっかりと自身の仕事を果たしていく背中に、頑張れよーという声がかけられた。
*
「先ぱ~い、どこまで連れていく気れすか」
「君の家だよ」
「私の家まで来て何する気れすか~?堂々と誘拐しないでくらはいよ~」
「うん、自分の台詞の噛み合わなさに早いとこ気づこうか」
「大体、先輩のくせにこんな事するなんて五百年早いれすよ~」
「はいはい、わかったから」
慣れた様子でこっちの台詞を受け流す佳壱に、だんだん本音が出てくる。
「ホント…先輩はいつもそうです。ヒトの話なんか全然聞かないし」
「蘭ちゃん?」
「散々好きだとか言っといて、急に何も言わず行こうとするし。何か、その事に傷ついてる自分がいるし…」
「…」
「何だってんですか、もう…ホント意味わかんな…」
文句は最後まで続かなかった。なぜなら、彼に抱き締められてしまったから。
唐突すぎるこの展開に、蘭は酔いも忘れしばし固まる。
しかし…
「ッ、放して!」
ドンッと思いっきり押しのける。佳壱の方も無意識だったのか、二人の間にはいとも容易く距離が空いた。
「あ…ごめん」
「ホントに意味わかんない。ヒトを振り回すのがそんなに楽しいですか!?いつもいつも調子いい事ばっかり言って…もう、先輩なんか海外でもどこでも行けばいいでしょ!清々するわよ、バカ!」
叫ぶだけ叫べば、あとは言い逃げするだけ。
クルリと背を向けると、猛然とダッシュする。こんな事になって初めて自覚した気持ちに、心底嫌気が差した。
*
「───お先失礼しまーす」
「お疲れさん。明日もよろしく」
あれから数日経つが、気分は変わらず落ち込んだままだった。
浮かない顔で店を出ると、昼過ぎとはいえ少しひんやりとした空気が頬を撫でる。
「春らんまんにはまだ遠いか…」
今年は花見に行けるかななんて事を考えながら、帰路につきかけた時だった。
「蘭ちゃん」
店の前のガードレールに寄りかかるように座っていた佳壱に驚き、固まる。
「…ついにストーカー化しましたか?いい加減にしてくれって言った筈ですけど」
「うん、ごめん。だけど、出発する前にどうしてもハッキリさせたかったんだ」
場所移ってもいいかなと言われ、目を逸らす。
「悪いんですけど、私はもう…」
何も話す事はないとその場を去ろうとした蘭の手を佳壱が掴む。
「!」
「頼むよ、蘭ちゃん」
有無を言わさない真剣な表情に、蘭は頷くしかなかった。
*
「お、咲いてる咲いてる」
連れてこられた場所は、喫茶店から少し歩いた河川敷。彼の言う通り、道に沿って植えられた木には薄紅色の花が咲いていた。
「ここの桜は毎年咲くのが早いんだ。まだ三月半ばなのに、すごいよね」
「…」
「…一年前まではさ。嫌いだったんだ、ここの景色」
「え?」
ずっと逸らしていた目を向けると、どこか遠くを見るように桜を見上げる佳壱がいた。
「僕の両親、小さい頃から仕事が忙しくてね。実質、ばあちゃんに育てられたんだ」
それが豪快な人でね、と懐かしそうに笑う。
「春になると、いつもここの桜を見にくるのが定番でさ。ばあちゃんの作ってくれたいなり寿司…この景色を見ながらだと、いつも以上に美味かったなぁ」
「なら、何で嫌いなんて…」
「…三年前、亡くなったんだ」
─ばあちゃん!やったよ!合格だ、って…
「大学の合格発表の日だった」
─ばあ、ちゃん…?
「きっと受かってるだろうから、大量にいなり寿司作って待ってるって…そう言ってたのに…」
─プレッシャーかけないでよ。ダメだったらどうするのさ…あだっ!
─男のくせに弱音吐いてんじゃないよ!さっさと可愛らしいお嫁さんでも見つけて、ばあちゃんを安心させとくれ!
─ばあちゃん…大学は見合いじゃなく、勉強する所なんだけど…
「夕方なのに、布団に入ったまま冷たくなってて…多分、夜中の内に逝ったんだろうって…前日別れるまであんなに元気だったのに何で、って…」
不思議と泣けなかった。葬式が終わっても、涙は一粒も出てこなかった。
「だから余計にかな。その年の桜を見た途端、溜まってたものが一気に溢れてきたんだ」
もう一緒に見ていた人はいないのに、変わらずに色づく花が憎かった。かけがえのない大切な思い出だからこそ、余計にその美しさが辛かった。
「だけどそれも、一年前がきっかけで変わったんだ」
君のお陰で、と照れくさそうに振り向く。
「私…?」
キョトンと首を傾げるのを見て、クスッと笑う。
「そう、君のお陰」
「私、別に何もしてないですけど…」
「うん、君は知らないだろうけどね。君のお陰で、僕はまたこの場所に来る勇気を持てたんだ」
だから、と寂しく笑う。
「さよならの前に、どうしてもそれだけは言いたかった」
二人の間をサアッと風が吹き抜ける。
「ありがとう」
「…」
「蘭ちゃんに会えて良かった。君と過ごしたこの一年、ホントに楽しかったよ」
元気でねと微笑みかける顔は、いつもとは違って大人に見えた。
「…ふざけんな」
去っていく背中に小さく呟き、鞄から取り出したハードカバーの文庫本を思いっきりぶん投げる。
「痛っっったぁ!?」
桜が綺麗に咲くのは、下に埋まっている死体の血を吸って栄養にしているから。
うわぁい、今日から自分も桜のご飯になるんだぁと佳壱の脳内では小さな自分が無邪気にはしゃいでいた。
「いやいや、待って!縁起でもない!」
ズキズキ痛む頭を押さえながら振り返った佳壱だったが、思ってもみない光景に目を見開いた。
「蘭ちゃん…」
「…っ」
大きな瞳から零れていく涙。戸惑ったように声をかければ、それを拭う事もせずキッと睨まれた。
「…いごまで…」
「へ?」
「最後の最後までこっちの話を聞く気はナシですか!ああそうですか!だったら私だって好きに言わせてもらいますからね、この超身勝手男!」
スゥ、と大きく息を吸い込む。
「好きです!」
「!」
「先輩に"好きだ"って言われないと、一日終わった気がしないんです!いつの間にか先輩の扱いがサークル内で一番だとか言われるようになっちゃったし、あとアレ、キリマンジャロ何なんですか!砂糖一つなんかじゃ苦くて飲めないですよ!甘いもの好きなくせしてカッコつけてんじゃないわよ、バーカ!」
「…」
「すっごい認めたくないけど!すっごい不本意だけど!春日井先輩がすっごい好きです!これで満足しましたかコノヤロ…」
台詞を遮られるのは、これで二度目だ。一度目と違うのは、抱き締める腕が格段に力強いところだろうか。
「か、す…」
「ごめん…顔見ないで…きっと今、だらしないくらいニヤけてるから」
彼の言う通り、チラッと見える耳は赤く染まっていた。普通ここは、惚れた女の涙を優しく拭ってやるところじゃないのか。
「やっぱり先輩は残念な人です」
「う、はい…精進します」
「あーあ、こんな筈じゃなかったのに。結局、第一印象を忘れられなかった私の負けか」
「え?」
予想外の言葉に、佳壱は目を丸くする。
「大学で会うまでは、普通にいい人だと思ってたのになぁ…」
「会うまでは、って…」
すると、蘭は口を尖らせて言った。
「まだバイトし始めたばかりでぎこちなかった私に、先輩が言ってくれたんじゃないですか」
─肩の力抜きなよ。折角いい笑顔してるんだから
「思えば、あれが最初で最後のまともな姿でした…って、聞いてます?」
「っ」
何も反応がないのを不思議に思い顔を上げると、バッと後ろを向かれた。
「先輩?」
「ダメ!いや、ホント今はこっち見ないで!タンマ!」
片手で彼女を制し、もう一方で緩む口許を隠す。
─先輩が言ってくれたんじゃないですか
(覚えてくれてた…)
─い、いらっしゃいませ!
あの日、友人と何気なく立ち寄ったあの喫茶店。自分を出迎えた笑顔は、ぎこちなくもまるで春の日差しのようだった。友人と話している間も、働く彼女の姿を目で追いかけた。
その日の帰り、なぜだか無性にここの桜を見たくなった。久しぶりに足を運べば、この木はやっぱり何一つ変わらぬ姿で迎えてくれた。
自分でも驚くほど穏やかな気持ちでいる中、不思議と祖母の声が聞こえた気がした。
─やっと来たねぇ。報告一つするのにどんだけ待たせるつもりだったんだい、このバカ孫が
そんな言葉を届けるかのように、一枚の花びらが掌に収まった。あの時の花びらは、栞にして今も肌身離さず持ち歩いている。
入学してきた彼女を見つけた時、これは運命だと思った。だから嬉しかった。
─肩の力抜きなよ。折角いい笑顔してるんだから
慣れない手つきが危なっかしくて、彼女の記憶の片隅に残りたくて言った必死すぎる一言。それがまさか、彼女の中に芽吹いていたなんて夢にも思わず。
「今だったら幸せすぎて死ねるかも…」
「何か言いました?」
「ごめん、こっちの話」
初々しい青年を見守るように、桜の枝が優しく風に揺れた。
*
「───え~!それでパパってばそのまま海外行っちゃったの?」
「そうよ。惚れた女置いていくなんて薄情でしょ」
「留学辞めるって言ったのに、遠距離恋愛でもいいって言ったの君だよね⁉」
アルバムを見ながら娘に馴れ初めを話す蘭に、佳壱は必死に反論する。
「まあ、パパと付き合うなら海を超えるぐらいの距離があるぐらいでちょうどいいか」
「そうそう。実際、毎日電話かかってきてウザかったしね」
「ひどい!」
妻はともかく、手塩にかけた娘まで冷たい対応にこれが思春期かと嘆く。
【咲希】と名付けた娘は、保育園に入る頃までは名前の通り花が咲くような愛らしい笑顔で"パパ大好き"と言ってくれていたのに、顔だけでなく性格も完全に妻のDNAが上回ったらしい。
シクシクと泣く夫に蘭はクスッと笑い、でもねと咲希に囁いた。
「だから、寂しくなかったわ。愛されてる自信は嫌ってほどあったからね」
「うえ~、ごちそうさま」
結局似たもの夫婦って事ね、と咲希は両手を合わせるのだった。