名も無き想い 人知れず
雨が降ってきたね。そろそろ梅雨の季節かな。初めて会った時も、こんな風に静かな雨が降っていたっけ。タバコ屋の軒先で雨宿りをしていたところに僕が傘を差し出した時の顔は、今でも昨日の事のように覚えているよ。
強引に傘を押しつけたのは、前の日に男前だって言われてる俳優がドラマでそうしていたのを見て真似したかっただけなんだ。びしょ濡れで帰ったものだから、母さんに雷を落とされたよ。そうまでして格好をつけて名も名乗らぬ誰かを演じたのに、次の日に同じクラスに転校してきた時は決まりが悪かったなぁ。
それでよりによって隣の席になるものだから、どうしていいかわからなくて笑顔で挨拶してくれたのに無視してしまったんだ。それでもめげずに話しかけ続けてくれたお陰で、だんだん話す事ができるようになっていったんだよ。それがなかったら、きっと僕はずっと仲良くなるきっかけを掴めないままで終わっていたんだろうな。
ああ、もう時間かい。また明日、会いに来てくれるのを待っているよ。
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小学校の合唱コンクールの時の事を覚えているかい?歌があまり得意でない僕は、口パクで歌っている振りをしていたんだ。けれど、ピアノを弾きながら何か言いたげにこっちを見る目に気が咎めて、仕方なく歌っていたんだよ。先生には何度も音程がズレていると言われるし、クラスメイトにも笑われたのは恥ずかしかったけれど、嬉しそうな笑顔を見られるならそれでもいいかななんて思ったよ。
そうだ。今度、あの時の曲を弾いてみせてくれないか。久しぶりに聞いてみたいんだ。え?ハハハ、心配いらないよ。少しくらい間違えたって、僕はわからないから。
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初めてバレンタインのチョコレートを貰ったのは中学の時だったかな。当時はバレンタインというものを知らなくて、ただただ贈り物を貰ったという事実に舞い上がって折角の告白の言葉を聞き逃してしまった事は今でも悪かったと思っているんだ。本当だよ。だから、ちゃんと僕から改めて想いを伝えただろう?
え?そうだったかな。だけど、あれがあの時の僕の精一杯だったんだ。少しばかり言葉が足りなかったのは許してくれないか。少しどころじゃないって?手厳しいな。
明日は何の話をしようか。まだまだ思い出は沢山ある。ゆっくりと思い出しながら、お茶を飲もう。
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毎年夏には、一緒に夏祭りに行くのが恒例だったね。照れくさくて言った事はなかったけれど、浴衣姿がとても綺麗でいつも見惚れていたんだよ。他の男の視線から守るのが大変だったんだ。できもしないのに、毎回射的に挑む僕に笑顔で頑張れと言ってくれたね。今だから話すが、その応援が欲しくてやっていたんだ。もちろん、君が欲しいと言った賞品は全力で取りに行ったよ。
ああ、そうだ。一度だけ、花火を見に行く途中ではぐれてしまった事があったね。あの頃は携帯なんて便利なものはなかったから、探すのに苦労したよ。お互い大きなケヤキの木の反対側で途方に暮れていたと気づいた時は、思わず笑ってしまったよ。あれはあれでいい思い出だったかもしれないね。
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秋には、通学路の途中にあった公園で焼き芋を食べるのが楽しみだったね。赤や黄色の絨毯に囲まれたベンチに腰かけていたところに、まるで簪みたいに髪に落ちた紅葉の葉がよく似合っていたよ。引き込まれるように触れた唇からは、焼き芋の甘い香りがしたなぁ。
痛っ。ハハ、いいじゃないか。あれだって大切な思い出の一つだ。先生の前で言うなって?そうだね。デリカシーがなかったかな。
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僕達の町ではあまり降らないのに、一度だけクリスマスイブの夜に雪が降った事があったのを覚えているかい?空からチラチラと舞う雪に白い息を吐きながらはしゃぐ顔は鼻が真っ赤になっていて、歌に出てくるトナカイそっくりだったよ。思わず笑ってしまった僕に、今度は頬を真っ赤にして膨らませる姿が可愛くて仕方なかった。
あの時に言ってくれれば良かったじゃないかって?勘弁してくれ。昔の僕は、そんな歯の浮くような事を言える男じゃなかっただろう?
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大学生になって上京する時、駅まで見送りに来てくれた事もよく覚えているよ。毎日手紙を書くと言ってくれたのに、照れ隠しで無理しなくていいと言ってしまった僕は本当に馬鹿だったと思うよ。だけど、そんな僕の性格をよく知っているから、僕の分まで寂しいと言って抱き締めてくれた腕の温かさと風に吹かれる桜吹雪は、今でもこの目によく残っているんだ。
そうだ。今度、あの桜を見に行こうか。もう長いこと帰っていないからね。大丈夫、少しくらいなら先生も許してくれるさ。
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若気の至りとはよく言うが、あの頃の僕はどうしようもなかった。都会での暮らしに現を抜かして、手紙の返事も下宿先にかかってくる電話も疎かにしてしまった。心のどこかで、僕から気持ちが離れていく事なんてあり得ないと思ってしまっていたんだ。実際遠のく事のない便りにすっかり甘えて、盆や年末年始の休みでさえ碌に帰ろうとしなかった。だけど、就職して一人前に働けるようになったらプロポーズしようと思っていたんだ。なんていうのは、ただの言い訳でしかないんだけど。
今更じゃないかって?正論すぎてぐうの音も出ないよ。何十年経っても、僕は口で勝てそうにないな。
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お見合いをする事になった。
そう電話で聞かされて初めて、自分がどれだけ愚かだったのかを思い知らされたよ。ご両親に言われて、断る事ができなかった。自分も、もうあなたの気持ちがわからない。泣きながらそう言われたのは堪えたな。そんな時でさえ上手く引き止める言葉を口にできなかった自分が、心底情けなかったよ。受話器を置いてから、僕も一人で泣いたんだ。
あれ、でも今こうして話ができているのはどうしてだろう。いけないな。最近はどうも頭がぼうっとして、記憶が曖昧になってしまっている。年は取りたくないものだね。
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事故に遭った時、薄れゆく意識の中で声を聞いた気がしたんだ。あの時は、ああこれが走馬灯ってやつかと妙に納得した気分だったよ。初任給で東京見物をさせてやりたいと思った親孝行が、あんな事になってしまうとは思わなかった。目を覚まして、家族を全員亡くして、もう二度と目が見えず歩く事もできないという話を聞いた時は、神様が罰を与えたのだと思った。真っ暗で、自分の手も見えない中で浮かんだのはあの頃の風景と笑顔だった。
うん、大丈夫だよ。今はこうして、握ってくれる手から温もりを感じるんだ。視力と引き換えに素直に自分の気持ちを言えるようになったのだから、人生というのはわからないものだね。
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再会した時は、これが運命というやつかと震えたよ。何年も会っていなかった、もう顔を見る事もできなくなっていたのに、柔らかい声と優しい手ですぐにわかったんだ。声をかけた時は随分と驚いていたね。無理もない。事故のせいで、最後に会った頃の僕の面影はなかったらしいから。それでもまた僕を好きになってくれて、本当にありがとう。
すまない、少し眠ってもいいだろうか。最近、どうにも眠くて堪らないんだ。これも年のせいかな。折角来てくれているのに申し訳ないな。すぐに起きるから、少しだけ待っててくれるかい?
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結婚式では、みんながドレス姿を褒めてくれていたね。僕だけの花嫁だったのに、僕だけが晴れ姿をこの目に焼きつけられなかったのがとても悔しくて堪らなかった。けれど、左手の薬指にはまる指輪の感覚は他のどの花婿よりもはっきり感じていた自信があるんだ。最愛の人と一緒になれて、僕は本当に幸せ者だと思った。
泣いているのかい?泣かないでくれ。昔から泣き顔には弱いんだ。こんな体じゃあ、上手く涙を拭ってやる事もできやしない。
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ここのところ、どうにも頭がボーッとしていけない。さっき来てくれていたのは、中学の時の友達だったかな?それとも高校?とにかく一番の親友だったんだ。懐かしくて思い出話に花を咲かせたかったのに、どうして彼は曖昧な返事ばかりだったんだろう。僕は何かおかしな事を言ってしまったかい?まるであの頃を知らない人間に気を遣っているような、そんな口ぶりだったな。
彼も年だから色々忘れてしまっているんだろうって?そうか、そうだね。こうして毎日話していると気づきづらいけれど、僕達の年ならそうそう昔の事を覚えている人もいないのかもしれないな。寂しくないと言えば嘘になるが、これも年を重ねるという事なんだろうね。
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昨夜、不思議な夢を見たんだ。他の男と幸せそうに笑っているんだよ。僕は大きな川を隔てたこちら側から必死に名前を呼んでいるのに、ちっとも振り返ってくれないんだ。僕の声が届かないんだと思うと、とても悲しい気持ちになった。だけどあまりに幸せそうだから、僕は心の中でさよならを言ったんだ。すると、一瞬だけこちらを振り返ってくれたよ。何か言っていたような気がしたんだけど、一体何を言っていたんだろう。
僕の夢なんだから知らないって?それはそうだね。怒らせてしまったかな。でも、本当に不思議な夢だったよ。
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僕はね…ええっと…何を言おうとしたんだっけ。ああ、今日は陽の光が心地いいな。散歩にはもってこいの天気だ。一緒に中庭へ行かないか?え?雪が降っている?ああ、そうだね。とても寒いな。そういえば、今日はまだ先生が見えていないんだ。珍しいな、もう昼になるっていうのに。え?ああ、そう、朝ご飯はパンだったよ。僕の好きなあんパンだ。付け合わせはわかめの味噌汁で…いや、違うな。看護師さん、今は何時かな?検温?さっきやったじゃないか。もう一度?仕方ないな。
それじゃあ、散歩しながらゆっくり話そうか。え?ああ、うん、今日は冷え込むね。部屋にいようか。先生はまだかな…え?ああ、そう、今日はお粥を食べたよ…いや、昨日だったかな?そうだ、中庭を散歩でもしないかい?
*
「おはようございます」
いつも通りナースセンターにいた看護師さんに挨拶をすると、向こうも笑顔で応じてくれた。
「おはようございます。毎日お疲れ様です」
「いえ、こちらこそ。今日はどんな調子ですか?」
「朝食は少し残されましたね。ここ数日は、あまり食欲がないみたいで。ですが、奥様が来られたと知ったらきっと喜ばれますよ。先程バイタルチェックをした時も、まだ来ていないかとお聞きになりましたから」
「そうですか。お世話をおかけします」
軽く会釈をして、病室へ向かう。
「ホントに仲がいいですよね、あのご夫婦」
「小学校から今までずっと一緒なんて、めちゃくちゃ羨ましいなぁ」
微かに聞こえる会話にフッと笑ってしまう。傍から見れば、確かに私達は幼馴染の間柄から今まで純愛を貫いた理想の夫婦に見えるのだろう。
けれど…
「あなた、来ましたよ」
病室のドアを開けると、優しい顔が私を出迎えてくれる。
「やあ、待っていたよ」
「お加減はどうです?」
「悪くはないよ。今日は何を話そうかと考えていたところだ」
話しぶりから察するに、今日の調子は悪くないらしい。日課のように始まる思い出話に、私は微笑みながら相槌を打った。
*
私が彼と初めて会ったのは三十を迎える少し前の事だった。私が働いていた会社を訪れ、車椅子に乗っていた彼をたまたま私がサポートしたのがきっかけだ。
応接室に案内しようとした時に手が触れた瞬間、彼は突然名前を呼んだ。女の名前ではあるけれど、私ではない。だけど、私はその名前を知っていた。忘れる筈がない。だって、それはもう一人の私だったのだから。
両親は私達が小学生の時に離婚した。具体的な理由は知らない。けれど、風の噂で別れた父がすぐに再婚した事は聞いた。
夫婦の離婚で親権が争われるというのはままある事だが、ウチは違った。私は母に引き取られ、もう片方が父の元へ行く事になった。どちらがどちらを、というのは多分どうでも良くて、何となく先に生まれた方が父の元へ行くのが自然だと両親は思ったのだろう。たかが十数分、生まれる時間が違っただけで私達の人生は大きく変わったのだ。
母は母なりに私を愛して、精一杯幸せにしようとしてくれた。それでも、母子家庭というレッテルは事あるごとに私に理不尽を強いてきた。新聞配達や皿洗いに青春を費やしてまで通った高校では貧乏人と嘲笑され、クラスメイトが当然のように進学する大学や専門学校など進路に悩む中で、選択肢などないに等しい働き口を見つけ、お茶汲みと雑用に追われる日々。周囲曰く、それなりに見栄えのいい容姿のせいでどこに行っても下世話な視線が私を舐めた。
母は長年の無理がたたり、私が二十一の時に質の悪い風邪を拗らせてあっさり逝ってしまった。母方の祖父母も早くに亡くなっていたので、私は本当に独りになった。
父に頼るつもりはなかった。ちょうど同じ時期に、ある新聞記事を読んだからだ。とある二つの企業が互いの社長の子供同士の結婚を機に事業の提携を行うと報じたその記事で、私は十数年ぶりに父の名を見た。再婚をきっかけに大きくなった会社を更に発展させようとする野心もさることながら、【親孝行な一人娘を持って嬉しい】という父のコメントを見てスゥッと心に乾いた風が吹くのを感じた。一緒に載っていた写真に写る自慢の一人娘は、私と同じ顔で、私よりもずっと幸せそうだった。
こき使われるのが職場から家庭に変わるだけなのだから、さっさと結婚でもしてしまえば生活は楽になれたのかもしれない。こう言っては何だが、ある程度相手を選べるぐらいには言い寄られる事は多かった。だけど、結婚をして苦労をした母を見てきたからか、どうにも家庭に入る事に拒否感が拭えなかった。
そうして一人で生きてきて、婚期を逃したと笑われるようになった頃に彼は現れた。車椅子で、目が見えなくて、なのに若手実業家として社会に貢献しようとしていた彼の姿は、私には眩しく映った。
そんな彼が、必死な顔で私の手を掴み、何度も名前を呼びながら謝った。
「本当にすまなかった。あの頃の僕は愚かだったんだ。こんな体でこんな事を言っても、困らせてしまうだけなのはわかっている。けれど、もう一度…もう一度だけチャンスを貰えないだろうか。今度こそ幸せにすると誓う。次こそは、決して間違えたりしないから」
最初は何を言っているのか全くわからなかった。でも、彼の呼ぶ名前と彼の出身地を聞いて、何かがストンと腑に落ちた。
ああ、そうか。彼が見ているのは私ではない。彼がこんなにも懸命に許しを請うているのは、私と同じ顔で、私と同じ声で、私と同じ手で、そして私とは正反対の生き方をしている女なのだ。
どうして私じゃないのだろう。どうしてみんなあっちを選ぶのだろう。たった十数分の違いで、どうして私だけがこんなにも惨めな思いをしなければいけないのだろう。そこまで考えて、思い立った。
なら、成り代わってしまえばいい。聞けば、彼もまた事故で両親を喪っているのだという。長らく故郷にも帰っていないので、当時を知る人間は彼の周りにいなかった。今までの苦労はこの瞬間のためにあったのだと耳元で囁いたのは、神様か、それとも悪魔か。もう私はどちらでも良かった。
もちろん、騙しきれるとは思っていなかった。私が欲しかったのは彼の愛で、苦労知らずの生活でも周囲からの羨望の眼差しでもない。だから結婚してからも贅沢なんてしなかったし、仕事でも家庭でも献身的に彼に尽くした。
─忘れられない初恋の人と私が重なるそうです。それを承知で一緒になりました。彼を愛しているのは事実ですから
私を違う名前で呼ぶ彼に疑問を持つ周囲の人達には、そう説明すると納得と同情二つの感情が向けられた。中には彼の資産が目当てなのではないかと訝る人もいたけれど、公私共に彼を支える私の姿を見るとやっぱり憐れむような目で見られた。それで良かった。だって、繰り返すようだけれど私が欲しかったのは彼の愛、それだけだったのだから。
*
「寒くありませんか、あなた」
「ああ、平気だよ」
今日はいいお天気だったから、先生の許可を頂いて病院の中庭を散歩する事にした。足元にある花壇には、色々な種類のお花が植えられている。いくつか蕾が出ているのを見ると、春が近いのだと感じた。
「ん?」
「どうかしましたか?」
「この匂いは…スミレだね」
車椅子を止めると、すぐ側に紫色の小さな花を見つけた。
「あら本当。よくわかりましたね」
「わかるとも。初めて教えてもらった花だ。通学路の途中にも、綺麗に咲いている場所があっただろう?」
「…そうでしたね」
「花は知らなかったけれど、葉を天ぷらにすると美味しいんだと僕が言った時の顔は今でも忘れられないな。嘘だと思うなら食べてみればいいと言って、ウチで母さんに料理してもらったっけ。恐る恐る箸を取ったのに、口にした途端顔が輝いたのは面白かったな」
「もう、やめてくださいな。まるで、私が食いしん坊みたいじゃないですか」
照れている振りをして話題を逸らすと、すぐにその思い出は彼の頭の奥底に消えていった。その事に安堵しながらも、私はどうしようもない悔しさを覚えた。
ここ最近、彼は昔の事をよく話すようになった。代わりに、大人になってからの…私と作ってきた思い出を徐々に忘れてしまってきている。どうあっても彼が愛しているのはあの頃の"私"で、今ここにいる私ではないのだと言われている気がした。
少し前、ある婦人が亡くなったというニュースが流れた。老衰だったそうだ。親から受け継いだ会社を夫に大きくしてもらい、自身は病気の子供を支援する団体の代表を長年務めてきた。先に旅立った夫を追いかける形で逝ったのだと、その死は多くの人から悼まれた。最期まで幸せな人生だっただろう。
「どうかしたのかい?」
「…何でもありませんよ」
「本当に?何だか悲しそうな顔をしている気がしたんだ。何かあるなら、言ってほしい。この優しい温もりが冷えてしまうのは、僕も悲しいんだ」
この手が愛しいという彼が、どうしようもなく滑稽でならない。彼が今愛を囁いているのは、甘酸っぱい青春時代を共に生きた女ではなく、姿かたちが同じなだけで中身はどす黒い嫉妬に支配された醜い他人なのだから。
*
「───午後十六時三十六分、ご臨終です」
「お世話に…なりました」
先生と看護師さんが部屋を後にするまで下げていた頭をゆっくりと上げる。ベッドの上の顔はまるでただ穏やかに眠っているだけのようだ。
「お疲れ様でした、あなた。ゆっくり休んでくださいな」
これから忙しくなる。まずは親戚や、会社関係の方々にご連絡をしなければ。葬儀の相談と、お役所にも届け出を出して、ああそうだ、弁護士の先生にもご連絡して、それから…
「…」
そっと握った手は、もう冷たくなり始めている。これで、また私は独りになった。
(違う)
最初から彼が愛していたのは私じゃない。わかっていた。それでも、彼の話に耳を傾けている間は私は"私"になれている気がした。
だけど、本当は…
私が本当に欲しかったのは…
「…ねぇ、あなた…今気づきました。私ね、多分あなたに愛されなくても良かったんですよ。ただ一度…一度だけでいいから、"私"の名前を呼んでもらえれば満足だったんです…ねぇ、あなた…起きてくれませんか…?起きて、私の事を呼んでくださいな…何十年も嘘をつき続けた私を哀れだと思って、ねぇ…罵ってくれて構いません…頬の一つや二つ、いくらでも打っていいから、お願い…っ、"私"を見てくださいな…!」
今更こんな事を言っても、もう遅いのはわかっている。
勝手な嫉妬で、勝手な対抗心でついた嘘は、この人を救ったのだろうか。そうであったと信じたい。せめて愛した人が幸せであったなら。そうでなければ、本当に誰も報われない。
とめどなく溢れてくる涙を堪える事はせず、私はただ彼の側で泣き続けた。