はるかな空に星は降る
「辻崎さん、ちょっといいかな?」
課長に声をかけられ、美花はパソコンのキーボードを叩く手を止めて視線を上げる。
「何でしょうか?」
「いやあ、突然で申し訳ないんだけどさ。明日のギャラリーギャラクシーとの打ち合わせ、広田君の代わりに同行してもらえないかな?」
「え?」
「頼むよ~。広田君、お子さんがインフルになっちゃったらしくてさ。ほら、彼シングルファーザーだから他に面倒見てくれる人いないじゃない?大丈夫、一緒に来てくれるだけでいいから」
「あ、あの、でも、私急ぎの案件が…」
「じゃ、よろしく」
ポンと肩を叩かれ、断ろうとした言葉は相手に届かず宙ぶらりんになる。小さくため息をつき、パソコンに向き直るとスケジュールアプリの明日の予定を【外回り同行】と変更する。
また断れなかった。
これでまた一つ、担当する案件が増えるのだろう。他の人間のフォローに入って、それがまともに元の担当者のところへ戻った試しはない。美花の頭には、" NOと言えない日本人"という言葉が過る。
子供の頃からそうだった。嫌われるのが怖くて、頼まれると引き攣った笑顔で引き受けるのが日常茶飯事。気づけば、周りにとって都合のいい存在として扱われるようになってしまった。
それは社会人になってからも変わる事はなく、同僚や先輩、果てには後輩の尻拭いまでする日々。野心がないので出世しない事には何の不満もないが、仕事量で言えばとうの昔に役職に就いていてもおかしくない。
(憂鬱だなぁ)
無理な願いだとわかっていても、明日会う先方の担当者が厄介な相手でない事を祈らずにはいられなかった。
*
「お待たせしました」
通された部屋で先方を待っていると、担当の男が入ってきた。随分若い。こちらの担当者と同世代だと思っていたが、自分と同い年くらいではないだろうか。清潔感のあるスーツに、きちんとセットされた髪。いかにも"デキる"といった雰囲気の彼は、美花の顔を見て小さく目を見開いた。
「?」
「…失礼、広田さんはどうされたのですか?」
ああ、待っていたのが知った顔じゃない事に驚いたのか。今まで会っていた男がいきなりこんな冴えない女になったのだから、無理もない。
美花は名刺入れから名刺を出すと、お辞儀をしながら自己紹介をした。
「初めまして。辻崎美花と申します」
「広田は諸事情で担当を外れる事になりまして。今後はこちらの辻崎がお話を進めさせて頂きます」
課長の言葉に美花はやっぱりかと心の中でため息をつく。昨日はただの同行だと言っていたのが、サラッと担当を変わる事になっている。
相手の男はすぐに話を理解すると、自身も懐から名刺入れを出して名乗ってくれた。
「初めまして。降旗流星と申します。よろしくお願い致します」
名刺を受け取ると、左手首に着けられた腕時計が目に入る。ブランドには疎いが、なかなか高そうな代物だ。きっとそれなりに稼いでいるのだろう。下世話で現実逃避のような事を考えていると、降旗は美花の名刺を見て言った。
「珍しい読み方のお名前ですね」
「あ、はい。よく言われます」
"美しい花"と書いて"はるか"。確かに初見で正しく読まれた事はない。シンプルに花のように美しく育ってほしいという両親の願いが込められたこの名前は、正直名前負けもいいところなのであまり好きではなかった。
「とても素敵なお名前だと思います。どこまでも遠くまで行けそうですね」
「え?」
思わぬ言葉にキョトンとする。
「ハハッ、相変わらず面白い方だ。ねぇ、辻崎さん」
「あ、はい。お褒めに預かり恐縮です」
軽く肘で突かれ、慌てて礼を言う。確かに、独特の感性をしている。"はるか"という名前の響きからそう言ったのだろうが、そんな事を言われたのは初めてだ。
(あれ?初めて、だよね?)
わずかに抱いた違和感に首を傾げるが、すぐにお掛けくださいと促され慌てて質の良さそうな椅子に腰かけた。
*
打ち合わせは一時間ほどで終了した。課長と握手を交わした降旗が、美花にも手を差し出す。
「辻崎さんも、引き継ぎなど大変でしょうがどうぞよろしくお願い致します」
「は、はい。精一杯務めさせて頂きます」
かけられた気遣いの言葉に頭を下げる。けして物腰柔らかとは言えないが、ただクールというわけでもないらしい彼が担当者だった事はまだ幸運だったかもしれないと少しだけ安堵した。
(───とか思ってた自分を殴りたい)
《頂いた案なのですが、想定している顧客層を考えるともう少しポピュラーなエピソードを取り入れた内容にしてもらえますか?夏休み期間ですし、夏の大三角を取り上げるのであれば最低でも七夕伝説は絡めてください。それから…》
「はい、はい…わかりました。では、明後日までに訂正版のシナリオを送らせて頂きます…はい、失礼致します」
相手の電話が切れるのを待ってから受話器を置き、ガクッと項垂れる。手元のメモには、降旗から言われた要望がびっしりと書かれている。デキる男だとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。
送ったメールは一時間もしない内に戻ってくる(こちらが提示した内容の三倍の訂正が参考文献の注釈付きで書いてあった)。
電話は最低限、伝えるべき事だけを言うと問答無用で切られる(マニュアルを読み上げているのかと思うほどわかりやすかった)。
予算の見積もりを上げると、全ての項目において一円単位で削れそうなところは削られた(ただし、必要とわかれば逆に増える事にも躊躇はなかった)。
この案件しか抱えている仕事がないのではないかと思うほど迅速かつ丁寧な対応で、何より見る人を喜ばせようという情熱は十分すぎるほど伝わってくる。だから美花も何とか要望に応えようとあれこれ頭を悩ませては、関係各所にどうにかならないかと頼み込んで回っている。
(お陰で今日も無事に残業か…)
頭の中で今日中に終わらせなければならない仕事のリストに先程の電話の件を追加し、少しでも早く上がれるようパチンと両手で頬を叩いた。
*
星に興味を持ったのは五歳の時だった。お盆休みに田舎の祖父母の家へ遊びに行き、初めて満天の星空というものを見た。その年はペルセウス座流星群が特によく見える当たり年で、祖父と一緒に真夜中まで夢中になって星が夜空を駆ける様を目に焼きつけた。
中、高と部活は迷わず天文部を選んだ。いわゆる"オタク部"だと揶揄されたが、天体望遠鏡を覗き込んでいる瞬間が一番幸せだった。月食、日食、星座の成り立ち、宇宙の神秘。とにかく、星に触れている時間が自分の心を躍らせた。
部員達とはオタク同士、仲良くやっていたと思う。月に一度、学校の屋上でお泊まり天体観測をしてはその時々の星座について興奮気味に語り合ったり、夏のキャンプ合宿では他校の生徒と関わる貴重な機会にも恵まれた。
─"はるか"っていいね。どこまでも遠くまで行けそうな星好きにピッタリな名前だと思う
合宿のメインイベントであるペルセウス座流星群を見たあの夜、そう言ってくれたのは誰だったか。都会ではけして見られない満天の星空の下、ライトなど必要ないほどに明るかった筈なのにその顔だけは暗闇の中に隠れたままだった。
(───何か、すっごい懐かしい夢を見た気がする)
ぼんやりと天井を見上げ、美花はほんの数分前まで見ていた光景を思い出そうとしたが、残念ながらそういう時ほど内容を思い出せた事はない。確か昨夜は遅くまで最後の確認を念入りに行なって、気絶するようにベッドに入った筈だ。
それでもアラームをセットするのは忘れなかった自分の社畜っぷりに嫌気がさしながら、さっさと起きろとうるさく鳴り続ける時計に手を伸ばした。
*
「すっごく綺麗だったねー!」
「七夕伝説、素敵だったな~」
「お陰様で、順調なスタートを切る事ができています」
満足そうに出てくる客の姿を降旗と見ながら、美花も良かったですと微笑む。
リゾート施設の一角に設置された移動式プラネタリウム。夏休みの家族連れが多いこの時期に開かれるイベントの一つとして企画されたこの催しは、どうやら好調な滑り出しのようだ。
降旗は自身の腕時計に目をやり、良かったらと口を開いた。
「昼食をご一緒しませんか?」
「え?」
「ここのレストランのカレーライス、美味しいと評判なんです。もしこの後のご予定に支障なければ、ぜひ」
「あ、はい。大丈夫です」
返事を聞くなり、じゃあ行きましょうとスタスタ歩いていくマイペースな彼の後を、美花は慌てて追いかけた。
「───あ、美味しい」
一口食べた途端広がる味に、美花は顔を綻ばせる。リゾート施設と聞いて思い浮かべるものとは異なるが、どこか懐かしさを覚える素朴な味だ。
「飯盒炊爨をイメージしているそうです。ここはキャンプ場もありますから」
降旗の解説を聞いて成程と納得する。自分達で和気藹々としながら作ったあの味を思い出し、ますます美味しさが増した気がする。
「ありがとうございました」
急に改まった様子で礼を言う降旗に、美花は目を瞬く。
「えっと、何がでしょうか?」
「イベント開催に至るまで、こちらの要望に応えようとあちこち奔走して頂いた事に対してです。かなり無理難題を通した自覚はあったので」
それはぶっちゃけその通りですと思わず頷きそうになったのを堪え、曖昧な営業スマイルを浮かべる。
「お気になさらないでください。弊社としましても、これだけのものを作る実績を持てたというのは今後の仕事にもプラスになる事ですから」
「正直なところ、ここまでわがままを聞いて頂けるとは思っていませんでした。前任の広田さんと打ち合わせをしていた頃は、どこかで妥協をしなければいけないという気持ちと細部までこだわりたいという気持ちのせめぎ合いでしたから」
「頼まれると断れない性格なんです、私。それで損な役回りをする事も多いんですが、今回に関しては私としても勉強させて頂く事も多々ありましたので、結果良かったと思っています」
「辻崎さんは、どうしてこのお仕事を?」
「星が好き、という単純すぎる理由からです。学生時代は天文部だったんですが、都会でも綺麗な星が見られるプラネタリウムが大好きで、その運営に携われる仕事がしたいと思いまして…子供みたいでしょう?」
眉を下げて笑う美花に、降旗は目を細めていいえと返す。
「私も似たようなものです。一度だけ、天文部の友人の誘いで合宿に参加させてもらった事があって、その時に見たペルセウス座流星群の美しさが忘れられなくて今の会社に」
「ペルセウス座流星群ですか!私も、夏の合宿の度にそれが一番楽しみでした!ハッキリ見えると嬉しくなりますよね!」
「はい、ちょうど私が参加した年も当たりだったようです。まあ、星が好きになった理由は他にもあったんですが」
(あ、笑った)
昔を思い出したのか、フッと零れるように微笑んだ降旗に美花はドキッとする。やりとりをしていてもずっと淡々と仕事をこなす印象だったし、自分はそれについていくのがやっとだったのであまり意識していなかったが、普通にイケメンだと思う。うだるような暑さの中でも涼しげにスーツを着こなしていて、汗だくになりながらあっちこっち走り回っていた自分とは程遠い。
不意に、美花は自分の化粧が落ちていないかと心配し、そしてすぐに余計な事を考えた自分に恥ずかしさを感じた。
(落ちてたから何よ、相手はただの取引先!)
何を意識しているのかと思いながらも、ガタンと立ち上がり化粧を直してきますとその場から離れる。
(い、一応ね!大人のマナーだし、身だしなみはちゃんとしとかないとね!)
パタパタと熱い顔を手で扇ぎながら、パウダールームの鏡と向き合う。顔が赤いのは、暑さのせいだと言い聞かせた。
*
結果として、イベントは大成功を収めた。運営側のこちらも十分に利益は上がり、リゾート側からもぜひ定期的に催しをお願いしたいという声も頂いた。美花も、半年かけただけあって久しぶりにやりがいのある仕事だったと喜んだ。
そんな嬉しさの中迎えた最終日。移動式プラネタリウムの解体作業を降旗と見守っていると、突然課長が現れた。隣には、元担当者の広田の姿もある。嫌な予感がする美花をよそに、課長はほくほく顔で降旗へ声をかけた。
「いやあ、この度は本当にありがとうございました。これもひとえに、降旗さんのお力添えあっての事です」
「いえ、こちらこそ辻崎さんには色々とご無理を聞いて頂き感謝しております。引き続き、彼女とはより良いイベントを作り上げていければと…」
「ああ、それなんですが」
と、広田の肩に手をやり課長は続ける。
「次回からは、再度広田が担当させて頂きます」
スッと頭が冷えるのがわかった。
何も言わない美花の隣で、降旗が怪訝そうな顔で尋ねる。
「失礼ですが、それはどういう…?」
「何度も申し訳ございません。なにぶん、辻崎は抱えている案件が多いもので。もちろん、引き継ぎはしっかりとさせて頂きますので…」
つらつらと色々並べ立てているが、要するに手柄の横取りである。世情の目もあって男性の育児参加に理解を示しているように見せているが、中身は時代錯誤の男尊女卑がまだ色濃く残っているこの会社は、基本的に成果は全て男のもの、女は黙って裏方へ回れという考えなのだ。
何度目かの事に、もう落胆すらしない。どうせ、自分にはそれを断る勇気もない。大人しく今までの礼を言ってこの場を去ろうと開きかけた美花の口を、降旗が手で塞いだ。
「⁉」
「申し訳ありませんが」
今までにないほど冷たい声が斜め上から聞こえる。
「これは彼女とやり遂げた仕事です。半年をかけて信頼関係を築いたから生まれた成果です。元担当者とはいえ、今更別の方と同じようにやれと言われても困ります」
「は、で、ですが…」
「失礼を承知で申し上げますが、広田さんが戻ってこられたところで彼女以上のものが作れるとは思いません。これほどイベントが成功したのも、全ては辻崎さんの情熱あっての事です。弊社としましては、クオリティが下がるとわかっている条件を受け入れる事はできません。どうしてもと仰るのであれば、これ以上の契約は打ち切りとさせて頂きます」
「!い、いや、それは…」
課長は目に見えて狼狽えているが、自分こそ何が起こっているのかわからないと美花は目を白黒させる。
「わ、わかりました!降旗さんがそんなにも評価して頂いているのであれば、この件に関しては引き続き辻崎に任せるという事で!た、頼んだよ、辻崎さん!」
結局、そそくさと帰っていく課長と広田の背中が見えなくなるまで降旗が美花の口を塞ぐ手をどける事はなかった。
*
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
すっかり日も暮れ、綺麗に片付けられてしまったイベントスペースのある中庭を窓越しに見ていると、降旗から缶コーヒーを渡される。
戸惑いながらそれを受け取り、プシュッとプルタブを開ける音を隣で聞きながら手の中で缶を遊ばせる。そのまま突入した沈黙に美花は何か話題をと必死に頭を回そうとするが、完全に脳は思考を放棄しているようで何も浮かんでこない。
「すみませんでした」
「え、あ、いや、勝手を言ったのはこちらですし…!」
徐に頭を下げた彼に美花もあたふたと言葉を返すが、降旗はいいえと首を振る。
「柄にもなく焦りました。あんなにも呆気なくあなたと会えなくなってしまうのかと思って」
「え?」
斜め上の言葉に美花の目は点になる。バツの悪そうな顔を少し背けながら、降旗は話を続ける。
「あなたは覚えていないと思いますが、実は私達がお会いするのは今回が初めてではないんです」
「え?」
「友人の誘いで天文部の合宿に参加した事があると話したのを覚えていますか?」
「は、はい」
「私が高校三年生の時、受験勉強に行き詰まっていたところに息抜きをしないかと言われてついていきました。他校の天文部との交流会を兼ねたその合宿、その中にあなたがいたんです」
「あ…」
その時、美花は記憶の隅にいた一人の男子生徒の顔を思い出した。明らかに慣れていない手つきで望遠鏡を触っていたので、余計なお世話かと思いながらも声をかけたのだ。その時に言われた言葉、それが…
「"どこまでも遠くまで行けそうな名前だ"、と。参加者リストの名前を見てそう思いました。生き生きと空を見上げて星の解説をするあなたを見ていると、不思議なほど元気が出たんです。合宿が終わってからも、模試の結果が良くなかった日、アルバイトで嫌な事があった日、就職活動で疲れた日。落ち込んだ時に空に光る星を見ては、あの時のキラキラしたあなたの目を思い出しました」
だから、とこちらを見る目にドキリとする。
「最初に打ち合わせであなたを見た時はすぐにわかりました。変わらず星に情熱を持っていたあなたと仕事をして、やっぱり好きだと思った」
「好…⁉」
「頼まれたら断れない、と以前言っていましたよね?」
真っ赤な顔の美花に微笑み、隣に腰かけていた体を真っすぐに向き直る。
「この先、仕事相手として以外でもパートナーになってほしいと思っています。いきなり付き合えとは言いません。ただ、まずは…プライベートで食事に行ってくれませんか?」
「え、あ、あの、え⁉」
「ずるくてすみません。昔から、手段は選ばない主義なので」
「!」
ずるすぎる。
こんな場面でそれを言われて、自分じゃなくても断る人間がいるだろうか。
「…わ、私で良ければ、ぜひ…」
この日、美花は生まれて初めて星の存在を恨めしく思った。都会から離れた山の中、窓から見える夜空に輝く光は羞恥で泣きそうになっている自分の顔を余す事なく照らしているに違いない。
プライベートの連絡先を交換する二人を祝福するように、一筋の流れ星が空を駆けていった。