17話 禁足地
ざわざわと庭の方が騒がしくなる。窓から離れた位置にいるロザリンデには確認することはできないが、今日も池の工事作業員が来たのだろう。
あれから数日経った。ロザリンデは相変わらず部屋の中で過ごしているが、ライナスの姿を見ることはなかった。
余程、騎士団の仕事が忙しいのだろうか。そう考えかけて、ロザリンデは彼がわざわざこの部屋に立ち寄る理由はないことに気がついた。
ここに来てからいろいろなことが起こり、どうしてもロザリンデと話さなければならないから、ライナスは毎日来てくれていただけだ。ロザリンデは顔を合わせることが当たり前のように考えてしまっていた自分が恥ずかしくなった。
ライナスの顔を見たい。ロザリンデの無意識の願望からそのように考えてしまったのだろう。
恥ずかしさを誤魔化すように、ロザリンデはシャンタルが淹れてくれたハーブティを飲む。やはりこの味が一番落ち着くと息をついた。
「ところでご主人様ですが、異端者の新情報が入ったそうで、二日前から泊まりがけで仕事をしているそうですよ」
「それは大変ですね……。体を壊さないといいのですが」
「体は頑丈な方なので、大丈夫だと思いますよ。それに、以前はさらに多忙だったので、夜に寝ているだけ改善された方です」
教会騎士とはそれほど過酷な仕事なのかとロザリンデは驚く。ロザリンデの反応を見たシャンタルは苦笑をこぼした。
「ご主人様が自分の判断で根を詰めていただけです。団長をはじめ、周りはもっと休むように勧めたですが、聞こうとされなくて。今回も何を言っても自分のしたいようにされると思います」
意外とライナスは頑固なのだろうか。
グレイディ家にいた時のライナスは従順だった。ロザリンデや兄などの上の立場の人間の命令には決して逆らわなかったが、ロザリンデの裏切りによって変わってしまったのかもしれない。
申し訳なさを覚えながら、ロザリンデはその日一日、シャンタルと共に刺繍をして過ごした。
それからもロザリンデはライナスと顔を合わせることなく、池の工事は二週間ほどで終了した。
ロザリンデは久しぶりに窓に近づき、庭を眺めた。以前見た時とは咲いている花の種類がいくつか変わっており、時間の変化を感じる。
「よろしければ、庭に降りますか?」
「そうですね。朝の礼拝が終わった後に……あら?」
視界に見覚えのある姿が映った。遠目で顔は見えないが、あの髪と騎士服はおそらくライナスだろう。
体調が悪いのか、足取りが覚束ない。周囲にも人の姿はなく、ロザリンデは不安に思い、シャンタルを振り返る。
「すみません、やっぱり今から庭に行っても良いでしょうか?」
簡単に理由を説明し、ロザリンデはシャンタルと護衛を伴い庭に降りる。ライナスが歩いている方向へと向かっているうちに、ロザリンデは気がついた。
この先に見えるのは、立ち入り禁止とされている温室だ。これ以上は近づいてはいけないだろうとロザリンデは足を止める。
「ライナスはあの温室に入ったんだと思います。私はここで護衛の方と待機していますので、すみませんが、シャンタルさんに様子を見にいってもらえないでしょうか?」
「いえ。皆で温室まで行きましょう。ご主人様がそこにいたら、私たちは外で待機しますので、ロザリンデ様が話をされてください」
「ですが、私はライナスに温室には立ち寄るなと厳しく言われていて……」
「気にしないでください。ロザリンデ様が温室に入っても、ご主人様は怒らないと断言できますから」
シャンタルは言い切るが、ロザリンデは先に進むことはできなかった。
温室への立ち入り禁止を告げた時、ライナスは険しい顔をしていた。余程ロザリンデが近づくことに不都合があるのだろう。
彼の言いつけを破ったことで、ロザリンデが罰を受けるのならいい。けれど、見張りを怠ったとシャンタルまで不興を買うのではないか。
懸念を伝えると、シャンタルは微笑んだ。
「安心してください。私、ご主人様……ライナスの従姉妹ですから」
意外な事実に驚くと同時に納得する。ライナスとシャンタルが主従というより姉弟のような関係に見えたのも、親戚だからと思えば腑に落ちた。
「ライナスに近い人間が身の回りの世話をしていたら緊張させるだろうからと、この屋敷では間柄を隠してライナスに丁寧に接していました。母親同士が姉妹なんで……たまに会うくらいの仲でしたが、どうしてもと彼に頼み込まれてこの国に来たんです。ロザリンデ様の力になってほしいと。ですから、このことで文句を言われることも解雇されることもないでしょう」
むしろ感謝されるのではないでしょうかと、シャンタルは微笑んだ。
「ライナスに言っておいてください。あまり無理はするなと」
「私が言っても不快にさせるだけかと思うのですが……」
「いえ。ロザリンデ様に注意されたら、耳を傾けると思いますよ。捻くれ者の割には、素直なところがありますから」
明るく背中を押してくれるシャンタルに、ロザリンデは温室へと向かった。
温室は想像していたよりも広く、様々な植物が置かれている。
周囲に目を走らせながら歩いていると、奥の方にライナスがいるのを発見した。
「私たちはここで待機していますので、どうぞロザリンデ様おひとりで行かれてください」
ロザリンデは頷き、大きく深呼吸をして、ゆっくりとライナスに近づく。
ライナスは設置している椅子に座り、俯いていた。近くの花に手を伸ばし、その花弁に優しく触れている。
ロザリンデはハッとする。
あの花は、奇跡の花だ。かつてロザリンデが憧れ、ライナスが贈ってくれた綺麗な青い花。
けれど、ロザリンデはその贈り物を無惨にも叩き壊した。
あの時のライナスの泣きそうな顔が頭をよぎり、ロザリンデは足を止めた。自分はここに足を踏み入れてはいけないのではないかと、罪悪感がこみ上げる。
ロザリンデの気配を察したのか、ライナスが顔を上げる。憔悴した様子のライナスはロザリンデの姿に目を丸くした。
ライナスは二週間振りとなる我が家をぼんやりと見上げた。
ここしばらくは騎士団に泊まり込んでおり、ろくに屋敷に帰っていなかった。団長のギャリーや部下たちに少しは家で休めと強制的に追い出されたため、こうして戻ってきた。
自室に戻って休もうかと思ったが、戻ればアントナンが働きすぎだとクドクド説教をするだろう。それは面倒だ。
ロザリンデは元気だろうかと、ライナスは彼女の部屋の方角を見やる。
定期的にアントナンから連絡をもらっているので、既に体力は回復していることは知っている。
だが、実際にこの目で確認したい。ロザリンデの部屋に行こうとしたが、すぐにライナスは思い留まる。
久しぶりすぎて緊張してしまうというのもあるが、疲弊して頭の回らない状態ではろくなことを言い出さないとも限らない。
どこか落ち着いて過ごせる場所と考え、温室へと向かった。
温室ではドレスブルクをはじめとする外国から持ち寄った花が育てられている。色あざやかな花々を横目に、ライナスは一番奥にある青い花の元に辿り着く。
椅子に座ると、疲れがどっと押し寄せてきた。この二週間、異端者の行方を追い続けているが、未だ発見には至っていない。
なるべく早くロザリンデをドレスブルクに移したいのに、成果もなく時間が流れ、焦りが募る。
しかも、最近はやたらと大神官長が絡んでくるようになって、鬱陶しいことこの上ない。負傷しているからとロザリンデの葬儀の警備を断ったのが、相当不満なのだろうか。
ロザリンデの葬儀は大神官長にとって、最後の大舞台だ。彼女の出自の真実を暴いたライナスがいた方が、周囲からの評判がいいと考えているのかもしれない。あの男は己の名声を上げることしか考えていないから。
「くそっ。ヒヒジジイに構ってる暇はないってのに……」
ため息をついたライナスの視界に、青い花が映る。
咲きはじめたばかりの、美しい花。ロザリンデが愛した花だ。
『まあ、よく知ってるわね! そうよ、これは奇跡の花よ』
かつてロザリンデが楽しそうに語っていた声が脳裏に蘇る。
『限られたところでしか咲けなかったのに、今ではたくさんの地で咲けるようになったなんて、すごいわよね。運命を変えたのよ!』
キラキラとした目だった。弾んだ声で、楽しげに花について語る彼女を見て、どうにかして本物の花を贈ってやりたいと思った。
ドレスブルクに生家がある母の伝手を頼り、どうにか青い花を手に入れた。
けれど、苦労して手に入れたそれも、ロザリンデに手厳しくはねつけられた。
ひどくショックだった。それと同時に、自分は身の程知らずなのだと思い知らされた。
自分のような低い身分の人間では、彼女の願いを叶えたいと願うことも傲慢だったのかもしれない。
騒動後、ジョルジュはタイミングが悪かっただけだとライナスを励ました。それでも、ライナスは劣等感を拭えなかった。
もし自分が高貴な人間だったらと、ライナスは夢想する。
ライナスが差し出した花を、ロザリンデは笑顔を浮かべて大切そうに受け取ってくれたのかもしれない。礼を言う彼女に、ライナスはきっと心の底から幸せを感じただろう。
あり得ない空想に耽る自分に気がつき、ライナスは自嘲した。どれほど足掻いたところで出自や過去はどうにもならないというのに。
だが、今ならどうだろうか。
王政は廃止され、みんな等しく平民となり、身分の差は無くなった。ライナスは騎士団の副団長を務め、地位も名誉もある。ロザリンデに花を贈っても、許される立場になったのではないだろうか。
そこまで考えて、ライナスは自分の考えを鼻で笑った。
ロザリンデは既にこの花を毛嫌いしている。目にするだけでも嫌だろう。だから、こうして彼女が立ち入ることを禁じた場所にしか置いていない。
意味がないのにこうして青い花を手元に置いているのは、この花を贈って彼女に喜んでほしいというかつての願いを忘れられないからだろう。
これではアントナン達に執着が強すぎると呆れられるのも当然だ。
青い花弁に触れながらそんなことを考えていると、不意に人の気配を感じた。
慌てて顔を上げると、そこにいたのはロザリンデだった。