16話 刺繍入りのハンカチ
数日は安静にと言われたロザリンデは、連日ベッドの上から、飾られた花や空をぼんやりと眺めていた。あまりに何もしないのを心配してかシャンタルが本を勧めてくれたが、読む気にはなれず、断った。
今日も朝の礼拝と朝食が終わり、することもなく時間を持て余していた。
「ロザリンデ様。よろしければ、刺繍などはいかがでしょう?」
「刺繍……。でも、いいのでしょうか? 私が針を持っても……」
バーニスはロザリンデが刺繍をすることを贅沢だと一蹴した。針やハサミで襲いかかってくるのを懸念したのもあるし、ロザリンデが怪我をして無駄に血が流れるのを嫌ったからだ。
だから、ロザリンデは趣味の刺繍を長いこと嗜んでいなかった。
「問題ございませんよ。お医者様からは手を動かすのは良い気分転換になるからと許可をいただいています」
それならと、ロザリンデはシャンタルが持ってきた刺繍道具に手を伸ばした。
久しぶりに触る針と糸に少し緊張したが、スイスイと手は動いた。白いハンカチに色を刺していくのは自分の世界を作り上げていくようで楽しく、ロザリンデは作業に没頭した。
「ーーできた」
ハンカチを広げて、出来を確認する。自画自賛だが、かなり良い出来ではないだろうか。
「とても綺麗です。ロザリンデ様、お聞きしていた通り、刺繍がお上手ですね」
「ありがとうございます」
「あら。もしかして、この花って……」
「はい。この庭に咲いている花です」
庭を散策中に、シャンタルがお気に入りだと言ってたピンクの花だ。何を刺そうかと考えた時、真っ先にこの花が浮かんできたのだ。
「良かったら、もらってください。お世話になっていますから」
「まあ、ありがとうございます。大切にしますね」
シャンタルは嬉しそうにハンカチを受け取った。しばらく見入ったように眺めた後、大切にしまい、少し言いにくそうにロザリンデに告げた。
「ロザリンデ様……良かったら、私に刺繍を教えてくださいませんか? 夫に贈りたいのです」
聞けば、シャンタルは刺繍が大の苦手で、今まで一度も夫のアントナンに刺繍のハンカチを贈ったことがないらしい。
アルクレアを含む大陸の国々では恋人や婚約者に自分の好きな花などを刺繍して渡す慣習がある。だから、貴族令嬢たちは幼い頃から刺繍に励み、いつか出会うであろう婚約者のために腕を磨くのだ。
婚約者にハンカチを貰った男性は、お礼に相手の好きなものを贈る。相手が望んでいるものを手に入れるために骨を折るものもいるが、想いの強さを証明する良い機会だと張り切る者も多い。
「私は刺繍が苦手で……夫はそれを理解してくれているから、ハンカチではなく通常の贈り物がいいと言ってくれて。お礼の贈り物もしてくれたんです」
シャンタルは胸元からペンダントを取り出した。淡い桃色の宝石がついた美しいペンダントだ。
「贈り物も、わざわざ私が好きな宝石を探してきてくれて……夫が気にしないと言ってくれているんだからいいだろうと思っていたんですが、ロザリンデ様の刺繍を見ていたら、私も頑張ってハンカチを贈りたくなったんです」
「そうなんですね……人に教えたことがないので上手くできるかはわかりませんが、私で良ければ喜んで」
申告通り、シャンタルの手つきは確かに不慣れで危なっかしかった。簡単な線や円もおぼつかないが、本人はやる気に満ちていた。
「まだまだ先は長いですが、いつかロザリンデ様のように美しい刺繍をさせるようになりたいです」
婚約者にハンカチを贈ることは女性にとって重要なことなのだろう。そう思えるほど、シャンタルの笑顔は輝いていた。
ロザリンデは貴族令嬢ではあったが、ハンカチを贈ることに憧れたことはなかった。神の子は生涯独身であるのが通例で、ロザリンデも同じような人生を辿るのだろうと思っていたから。
その証拠に、令嬢ならば十五歳には大抵婚約者ができる者だが、ロザリンデは一切婚約の話がなかった。
想い人にハンカチを渡すことは、ロザリンデには違う世界の話のように思えた。
シャンタルの指導をしつつ、ロザリンデは二枚目のハンカチに刺繍を始める。
次は何を刺そうかとしばし考え、鮮やかな青色の糸に手を伸ばす。かつて好きだった花を、なぜだかまた刺してみたくなった。
ふと、一度だけ刺繍したハンカチを渡したことがあったことを思い出した。
五年前、庭で落としたハンカチを、拾ってくれたライナスにあげた。
婚約者や恋人という関係ではなかったし、ただ趣味で塗っただけのものを贈り物と称していいのかはわからないが、ロザリンデの好きな花を刺繍し、好きな人の手に渡ったことは事実だ。
傲慢な渡し方だったが、使用人のライナスは嫌な顔ひとつせず受け取ってくれた。けれど、きっとすぐに捨ててしまっただろう。わがままなロザリンデは嫌われていただろうから。
嫌いな人間に関するものは嫌いになることもある。ライナスは刺繍そのものも嫌いになっているかもしれない。
作りかけている青い花に目を落とし、そんなことを考えていた時だった。
「ーー相変わらず、刺繍の腕がいいな。見事な出来だ」
不意に聞こえた声に、ロザリンデは驚いて顔を上げる。
そこには騎士服を着たライナスの姿があった。
「ライナス、いつの間に来ていたんですか?」
「たった今だ。ノックをしたが、返事がなかったから勝手に入った」
シャンタルと顔を見合わせる。刺繍に夢中になっていて、気が付かなかったようだ。
「申し訳ございません、ご主人様」
「いや、いい。お前たちに伝えておきたいことがあって来ただけだから、すぐにすむ。今日から池の工事が始まるから、庭には出るな。極力、窓にも近づくな」
「あら。職人の選定に時間がかかると聞いていましたが、今日からなんですか?」
「ああ。とっとと潰してた方がいいからな。作業員はすべて素性を調べている。みんなごく普通のアルクレア人だ。問題ない」
何のことだろうと疑問に思っているロザリンデに、シャンタルが説明をする。
「池の庭を埋める工事をするんです」
「立派な池でしたが、埋めてしまうんですか?」
近くでじっくり観察はできなかったが、パッと見ても手入れをされている綺麗な池だったはずだ。
このタイミングで埋めるということは、ロザリンデが倒れてしまったことと無関係ではないだろう。
ロザリンデがライナスに視線を向けると、彼はふいと顔を逸らした。
「元々、俺は池に興味はない。あってもなくてもどっちでも良かったからな。あの池があるせいでお前がいちいち倒れる方が面倒だ。……申し訳ないと思うのなら、とっとと回復しろ」
それだけ言うと、ライナスは部屋を後にした。
扉を閉めたシャンタルはロザリンデを気遣うように微笑んだ。
「申し訳ございません、ロザリンデ様。ご主人様はだいぶ拗らせてしまった方なので、あれでもロザリンデ様のことを心配しているんですよ。刺繍のことだって、あの方がロザリンデ様は今もお好きかもしれないから勧めてみろと言われたんですから」
「そうだったんですか?」
「ええ。素直ではありませんから」
シャンタルはため息をつくと、立ち上がった。
「ロザリンデ様、お茶はいかがですか?」
「お願いします。もう体調もいいですし、今日からテーブルに座っていただきます」
「承知しました。……あ。工事が始まるので、椅子の位置を少し動かしますね。万一、庭から見えたら大変ですから」
「はい。貴族の私がここにいると知られてたら、パニックになってしまいますから」
テキパキと行動していたシャンタルは、手を止めてロザリンデを振り返った。
「民衆もそうですが、ご主人様が一番警戒しているのは異端者です」
異端者。神の教えに背き、生贄として神の子を狙う悪しき存在。狡猾で残忍な彼らから守るために、ロザリンデは幼い頃から屋敷に囲われていた。
捕まれば想像を絶する痛みと苦しみの中で死に絶えるのだと、だから何があってもロザリンデは屋敷から出てはいけないのだと、大神官は教え諭した。
ロザリンデの手が震える。シャンタルに気取られぬように、拳を握りしめて内心の不安を隠した。