14話 気まずいふたり
「さあ、行こうか」
砕けた口調で、ライナスがロザリンデの手を引いて外へと連れ出そうとする。
グレイディ家の使用人入り口に配置されたふたりの門番は、町娘に変装したロザリンデの正体に気付いていない。
このままライナスについて行けば、ロザリンデは外に出られるだろう。この十四年、憧れ続けた外の世界に。ーーライナスと共に。
本来であれば、ここでロザリンデは声を上げるはずだった。変装を解き、正体を明かして、ライナスの罪を白日の元に晒す。そのつもりだった。
なのに、ロザリンデは計画を実行に移すことができなかった。
あと一歩で外に出られる。そう思った瞬間、ふたりを制止する侍女の声が響いた。
繋いでいたライナスの手から動揺が伝わる。
予想外のことに驚いたのか、罪を暴かれることを恐れたのか、それともーーロザリンデを連れ出そうとしたことを後悔したのか。
ロザリンデは心が急速に冷めていくのを感じ、ライナスの手を振り払った。
「もう、茶番は終わりよ」
言い捨て、門番達にライナスを捕獲させる。
「全部、嘘だったんですか? ここから連れ出してほしいって、言ってたのにーー」
絶望しきったライナスの眼差しと声が、ロザリンデの心を突き刺す。己の弱さを誤魔化すように、ロザリンデは嘲笑を浮かべてライナスを侮辱した。
こんなこと、いつもしてきたことだ。神の子であるロザリンデが使用人をどう扱おうが、許される。大したことはないとロザリンデは自分に言い聞かせる。
「ーーなら、お前には報いを受けさせてやる。傲慢でわがままなお前に相応しい報いを」
けれど、ライナスの鋭い視線が、憎悪に満ちた言葉が、いつまで経っても頭を離れなかった。
目を開くと、景色がぼやけていた。起きたばかりだからだろうかと思ったが、目尻から伝う涙で、泣いていたせいだと気づく。
「私、は……」
夢を見ていたようだ。ライナスを裏切り破滅へと追いやった、己の罪の夢を。
だんだんと意識がはっきりしてきたロザリンデは今の状況を振り返る。
確か、庭を散策していた。この屋敷には池があり、水面をのぞこうとしたところで、バーニスに虐げられていた記憶を思い出し、倒れたのだ。
「! ロザリンデ様! お目覚めになったのですね!?」
部屋に入ってきたシャンタルが、ロザリンデの顔を覗き込み、安堵の表情を浮かべた。
その顔には濃い隈がある。どうやら、かなり迷惑をかけてしまったらしい。
「すみません、シャンタルさん……」
「いいえ! こちらこそ、ロザリンデ様の状況を確認せずに迂闊に池に近づけてしまって申し訳ございません。お辛いところはございませんか?」
「ええ。大丈夫です」
「それは良かったです。ロザリンデ様、丸一日お眠りになっていたから、どうなることかと心配で……ああ。そうです、喉が渇いているでしょう? お水をお飲みになってください」
シャンタルは持ってきたばかりの水をロザリンデに飲ませてくれた。
喉が潤い、ロザリンデがほっと一息をついたその時。
「シャンタル、いるのか? ロザリンデ様の部屋の扉が開きっぱなし……ああ。ロザリンデ様が目覚めたのか」
開いた扉から、青年が顔を出した。見覚えのない顔に、ロザリンデは体をこわばらせる。
「アントナン、女性の部屋を勝手に覗かないで! それと、ロザリンデ様が目を覚ましたから、すぐにご主人様にお伝えして」
「あ、ああ。申し訳ございません、ロザリンデ様。……じゃあ、ちょっと行ってくる」
青年が一礼して去っていく。
それを見送ったシャンタルはロザリンデに謝罪する。
「申し訳ございません、ロザリンデ様。扉を開けっぱなしにしたばかりに……」
「いいえ。驚いただけですから。あの方はどなたでしょうか?」
「執事のアントナンです。彼のドレスブルクの人間で……私の夫です」
少し恥ずかしそうにシャンタルが告げる。ふたりとも、ロザリンデとそれほど歳が離れていないように見える。新婚なのだろうか。
しっかりしているシャンタルの可愛らしい姿に口元を綻ばせると、彼女はそういえば、と立ち上がった。
「ロザリンデ様が目覚めたら医師にお伝えするように言われておりますので、呼んできますね。しばし、お待ちください」
シャンタルは部屋の隅に控えていた護衛にロザリンデを頼むと、慌てて部屋を後にした。
ロザリンデの診察を終えた医師は優しい顔で口を開いた。
「体力は落ちていますが……問題はありませんね。ただ、貧血のこともありますから、ここ数日はしっかり食事と睡眠をとって安静になさってください。あと、池にもしばらくは近づかない方がいいでしょう」
「わかりました」
医師はロザリンデの返事に頷くと退室した。
シャンタルが控えているためか、護衛の騎士も控え室で待機すると立ち去った。
「ロザリンデ様、お腹は空いていらっしゃいませんか? シェフに胃に優しいものを作ってもらいましょうか?」
ロザリンデは少し悩んだ。昼食には遅く、夕食には早い時間だ。丸一日食事をとっていないが、空腹も感じなかった。
「大丈夫です。夕食にお願いします」
「承知しました」
丁寧に一礼したシャンタルは、不意に扉に目を向けた。誰か来るのだろうかとロザリンデも彼女に倣ったが、その扉が開く気配はない。
「変なところで、度胸がない……」
「え?」
シャンタルが小さくつぶやいた言葉が聞こえたが、意味がよくわからず、ロザリンデは首を傾げる。
そんなロザリンデにシャンタルは優しく微笑むと、先ほどの呟きがなかったかのように明るい声を出した。
「そうだ、ロザリンデ様。夕飯までまだ時間もありますし、ティータイムにしましょう。持ってまいりますね」
意気揚々とシャンタルが扉を開くと、そこにはライナスの姿があった。
思わぬ人物の登場に、ロザリンデは驚いた。同じく、ライナスも予想外の出来事に目を見開いた。
だが、シャンタルだけは冷静で、ライナスをジロリと見上げる。
「ご主人様、一体いつまでそんなところに立っていらっしゃるのですか?」
「……気づいていたのか」
「私を侍女に採用したのはこの耳の良さもあってのことだと、お忘れになりましたか? あれだけバタバタ足音を立てていたら、気づくに決まっているでしょう」
呆れたようにつぶやくシャンタルに、ライナスは所在なさげに口をつぐむ。このふたりは主従であるのに、まるで姉弟のようだとロザリンデは思った。
アルクレアでは使用人の主人への礼儀作法には厳しいが、ドレスブルクではそうでもないのだろうか。
シャンタルはロザリンデを振り返り、微笑んだ。
「ちょうどご主人様がいらっしゃったので、一緒にくつろがれていてください」
「え……あの……!」
困惑するロザリンデを置いて、シャンタルは立ち去った。
くつろげと言われてもと、ロザリンデはうつむいた。先程裏切りの夢を見たせいか、ライナスの顔が直視できなかった。
それに、池で倒れて騒ぎを起こしてしまった。ただでさえ屋敷に住まわせてもらっているのに、迷惑をかけてばかりで申し訳なさと居たたまれない気持ちでいっぱいだ。
それでもただこうして黙っているわけにはいかないと、恐る恐るライナスを見上げる。
ライナスと目が合った。ロザリンデは一瞬怯むが、視線は逸さなかった。
てっきり冷たい目か呆れた目で見られると思っていたが、意外にもライナスはロザリンデと同じように気まずそうにしていた。
扉の前にいたのをシャンタルに気づかれたからだろうか。入るタイミングを見計らっていたところを見つかったのなら、確かに気まずく思うかもしれない。
「……少し、邪魔するぞ」
「は、はい……」
屋敷の主人が来たのにベッドにいたままでは失礼かと、ロザリンデは慌ててベッドから出ようとした。だが、ライナスがそれを止める。
「医師から安静にしていろと言われたんだろう。そのままでいい」
ライナスはベッドの近くに椅子を持ってきて、そこに座った。
間近で見るライナスの目元にはうっすらと隈ができていた。よく見れば、顔色もよくない気がする。
この屋敷の仕事は手一杯だとシャンタルが言っていた。ロザリンデの看病でシャンタルが他の仕事ができなくなったため、その皺寄せがライナスに来てしまったのだろうか。
ロザリンデの罪悪感が増していく中、ライナスは口を開いた。