童心に返るには大人心を知る必要がある
転校する前に、幼少期を過ごしていた街へ遊びに行った。
高速道路で一時間。
覚えのある公園や通学路をドライブして楽しんだ。
大きな橋の手前に私は住んでいて、渡った先に友達が住んでいた。
が、今日、その橋が実は二つの橋だったことが判明した。
A橋の手前に私は住んでいて、その少し下流にも似たような大きな橋があり、そのB橋の先に友達は住んでいたのだ。
他にも、よく訪れていた公園に行ってみると、私の記憶よりだいぶ明るく開けていた。
それでは私の記憶にある、木々が生い繁り、じめっとしていて、光の届かない森のような公園は一体何だったのか。
謎は残るが確かめようがない。
帰りのインターで、夕飯はどこかのサービスエリアで適当に食べるのもありだな、と思ったら、急に感慨深くなって泣きそうになった。
自由なのだ。
強制された転校。
遅くまで遊べなかった公園。
帰宅するまで、なぜかハラハラしていた通学路。
迷うのではないか、暗くなるのではないか。
母ともう一生会えないのではないか。
そんな思いをもうしなくていいのだ。
そんな思いをしなくても、当時からある楽しみはずっとそこに残されていて、誰のことも気にせずに味わうことができる。
そんな思いをしなくてもいい立場になった。
道は知っている。
知らなくてもどうにかできる。
お金もある。
車もある。
今日明日突然何かがあって、家に帰れなくてもどうってことはない。
母以外に、一緒に食事をしてくれる人がいる。
その人の笑顔のことを考えていれば、心が満たされる。
正しいことをしていると思える。
自分のことよりも心配な人たちを乗せて車を運転している。
改めてその幸福を噛み締めたら、自然と涙が込み上げてきた。堪えたが。
帰宅後、妻にこのことをそれとなく伝えたら、「車のCM?」と言われた。