感動ではなく
押井守のインタビュー動画を見た。
10年も同じゲームをしている、感動したくないなど、なるほどと思った。
子どもの頃にはわからなかったことが大人になってわかる、とよく言うし、思うのだが、しかし私の場合、子どもの頃から周りの子どもより物分かりの悪いタイプだった。
例で言うと、ポケモンの初代赤緑で、私はオーキド博士の前に並べられたモンスターボールからどれか一つを選ぶのだということがわからなかった。
当時は幼稚園年長か、小学校に上がったくらいではなかったかと思う。
自分は頭がいいと思っていた。
いまだに過信することがしょっちゅうある。
なぜこんなことがわからないのか、と他人に対して思う。
それはおかしいんじゃないか、と理屈に対して思う。
しかし、それは自分の中の理屈しか見えていないからで、外から見たら、どちらの理屈も同じくらい変だし、どちらでもいい瑣末な問題だということばかりなのだろう。
小学生の頃に、千と千尋やハウルの動く城が流行った。
宮崎駿作品だから、流行りも何もないかもしれないが、私の通っていた小学校では、給食の時間にサントラが流れていた。
私はそこまでハマっていなかったので、ふーんだった。
先日の金曜日ロードショーで、大人になってから観たら、かなり面白かった。
自分の子どもと一緒に観たからかもしれない。
子どもは、カオナシが怖かったようだ。
でも湯婆婆が怒り狂うシーンは楽しかったらしい。
恐怖の質の違いだろうか、不思議だ。
エンディングでは、冒険から帰還する千尋に思わず感動してしまった。
子どもというのは、冒険の中にいるとき、それを冒険だと思っていない。
大人になって、振り返って、あれは何だったのだろうと考えている時、それに冒険と名づけるのだと思う。
そのことを知っているのは大人だけだ。
だから冒険譚は、子どもの頃の私に響かなかった。
子どもという冒険期を抜けて思う。
私はよく頑張った。
周りの子どもたちが好きなものを好きだと思えない、複雑な幼少期だったと思う。
今は、純粋に、宮崎駿の美術や物語表現に感動できる。
誰もそのロジックで感動してもらうようには作っていないだろう。
サイケな感受性だ。
だけど、ここでこの感動の仕方ができるということが嬉しい。
パチンコ玉が思わぬ釘と釘の間を通ったみたいな感じだ。
余計わからないかもしれない。
ときどき感動して、また淡々と過ごす日々に戻っていく。
心の中に冒険譚があれば、平坦な日常をこなしていくことも、立派な幸せになってくる。
子どもはそれをしたがらないし、周りからもそれを許されない。
成長を期待され、若さに魅入られ、未知という闇の中に放り出されている。
「淡々」を体で理解するのに、歳をとる必要があるのかもしれないし、歳を取ったらそう思わないとやってられないのかもしれない。
どちらにせよ、とにかく、今日は良い日和で、雪解けが少し心地よい。




