偏見
差別と通ずる意味で使われることの多い「偏見」だが、文字だけの意味でいえば、単なる「偏った見方」と書く。
これは認知の過程である。
人間誰しも、すべてを一瞬にして理解することはできない。
必ず、最初は一方向からの観察になるはずだ。
そのあとで、別角度からの観察を継続することで、情報を補完する。
つまり、文字通りの意味でいう「偏見」は誰しもが通る道である。
なぜ悪い意味で使われるかというと、そこに勝手な憶測や思い込みが入るからである。
本来是正されるべき偏りをもった情報をそのまま信じ、浅い理解のまま、都合よく結論を出してしまう。
その結論と矛盾するような後発の情報があると、意図的に無視してしまう。
認知負荷を下げようと、蔑視という形で自分から遠ざけることで、情報を遮断するのである。
だから本当の悪は、継続すべき観察を怠ることなのである。
ただ知ればいい。
鵜呑みにしてもいい。
矛盾が生じても、どちらも飲み込めばいいのである。
子供の学力が落ちているという情報もあれば、逆に賢くなっているという情報もあるだろう。
女性は感情的であるという偏見があれば、男性より理性的だという偏見もあるだろう。
黒人は危険だという偏見も、もしかしたら現実には役に立つのかも知れない。
ただそこに矛盾するできるだけ多くの情報を、怠ることなく取り入れればいい。
それが偏見や差別を自戒する唯一の手段であって、つまりは修正の連続なのだ。
大事なのは、人間は間違える、と思い続けることである。




