老害と世代交代
死という、絶対的な世代交代のスイッチがある。
どれだけ有能で権威があっても、死によって退場を強いられれば、その席は、誰か他のものに譲られなければならない。
肉体が衰えることを生物は知っている。
だから死を設定し、若く強靭なものに置き換える。
メンテナンスによって巻き戻すのではなく、一から作り直すという方法を採用したのには、何かきっと合理的な理由があってのことなのだろう。
現代は分断の時代である。
インターネットによって全世界が繋がり始めると、今度はその多すぎる情報に眩暈がして、吐き気をもよおす。
あまり遠く、広く、多くを見ない方が身体に負担がないことを知ると、近く、狭く、少なく情報を求めるようになる。
誰かが、地球が人の数だけあれば争いは起こらないと言った。
それがバーチャルな情報のうえでは、実現されようとしているのかもしれない。
争いとは何なのか。
ふれあいとは何なのか。
感情とは何なのか。
人間関係とは何なのか。
どれだけ悩んだところで、答えは出ない。
自分もまた、いずれ無力に席を立つ存在である。
歳をとって、人に講釈を述べたい欲が年々増しているのを感じる。
自分が見聞きしたもの、考えたことを、人に教えてやりたいと思うのである。
それでも、自分は人から話を聞きたくない。
上の世代から苦労話など聞かされても、嫌気がさすだけである。
そう思って、我慢している。
口を噤むと、何かが腹の中で膨れ上がって、今にも弾けそうになる。
今朝、出勤前にマスクを探していたら、2歳の娘が閃いたように駆け出し、棚から使い捨てマスクの束を引っ張り出してきて、あい!と渡してきた。
マスクマスク……と呟きながら父がウロウロしているのを見て、知ってるよ!と思ったらしい。
こんなことがあるのかと素直に驚いた。
何も教えていないのだ。




