会社の困った人
私の会社には、困った人がいる。
仕事を忘れたり、説明を聞いていなかったりする。
漏れ抜け、確認不足、注意散漫、挙動不審。
指導係になった人は大変だ。
何を教えても満足にできない。
説明をしても上の空。
返事だけは良い。
わかったのかと思って、いざやらせてみると、やはりできない。
もれ抜けがある。
怒りたくても、腰だけは低かったりする。
それでもときどき怒る。
怒っても、なんで怒られているのか、ピンときてなかったりする。
私はというと、実はその困った人と、仲がいい。
同僚の中で一番信頼できると思っている。
もちろん、一緒に仕事をしたことはない。
仕事の面では、おそらく信用できないだろうとさえ思っている。
指導係の人がよく愚痴をこぼしている。
周囲を巻き込んで、その困った人を、悪者にするような陰口を言って回っている。
言われた人は、たしかに仕事っぷりが酷いので、同情する。
私は指導係の人に、諦めた方がいい、と助言している。
指導係の人は、あまりピンときてないようである。
どころか、私を「冷たい人」扱いしてくる始末。
これが、面白いことに、周囲の人もそう感じるようである。
私が「怒ったって無駄ですよ」とか「できるようにはならないと思います」と言うと、聞いた人は、私がその困った人を見限っているとか、指導係の人よりその困った人に対する扱いが怖い、と感じるらしい。
指導係の人は、自分を優しいと思っている。
腹が立つのを我慢して、陰口でガス抜きしている自分を、頑張り屋さんとさえ思っているだろう。
集団の力で追い込まれた弱者が、どれだけ悲惨な末路を辿るか。
知ってか知らずか、そういう悪どい手口を使って、一人のスケープゴートをいじめてしまうのが、愚かしいが、人間らしさである。
怒りをぶつけるというのは、実は副交感神経が優位になっている。
つまり、リラックス状態である。
仕事とは緊張の連続である。
ヘマをしてはいけない、これを言ってはいけない、という制限を自分にかけ、圧力がかかっている。
腹が立っても怒ってはいけない、大人だから、角が立つから。
そうやって抑圧された状態は、実は興奮している。
緊張と緩和でいえば緊張の側なのである。
いじめとは、つまり楽なのである。
怒りがエネルギッシュであり、自分の中では悪を正すという理屈が通るために、何か労を払って建設的なことをしているように感じるかもしれない。
しかし、それは紛うことなく、錯覚である。
ただ、疲れただけ。
ただ、腹が立った怒りの感情を、制限かけずに吐き出しただけである。
なぜ腹が立ったのか。
なぜ疲れてしまったのか。
そこに目を向けるべきである。
おそらく、なかなか共感は得られないだろう。
私の考えも、だいぶ倒錯していると思う。
しかし、例えば平等とは、本来カオスで不均衡な、格差だらけの現実を、それだと慈悲に欠けるから、人為的に均そうよという、人間の理性のなせる営みである。
自然に逆らうのだから、倒錯していて当然ではないだろうか。
私は、もし抗えるなら、自然には対抗したい派だ。
もちろん、私も弱い人間。
自分の楽な範囲で、という話にはなるが。