一の章・竜子様
一時間ほど歩いた場所に、男の目指す場所はあった。
(巨きい……)
『宮』を目にして、レグルスは胸のうちでつぶやいた。
小国の王子だったレグルス。自分の住んでいた宮殿にも負けぬくらいに、『竜子様の宮』は巨きかった。
……宮の玄関口には、特殊な形の赤い門が、いくつもいくつも並んでいる。その内を儀式のようにくぐっていき、ふたりは宮へと行きついた。
玄関番の兵たちに、男が何やら話しかける。彼らはちらちらこちらを流し見ながら、異国語でしばし話をしていた。やがて男は、金らしきものを兵に渡され、にやにやしながらこちらへ向けて手をふった。
「じゃあな、ガキ。せいぜい竜子様にご奉仕して、可愛がってもらうんだぞ!」
言葉の意味も分からぬままに、王子がへりくだって笑う。そんな笑い方をするようになった自分が、もうたまらなく嫌だった。
「黄金の髪に、青い瞳か……なるほど、美しい異人だな」
兵の一人が感心したようにつぶやいて、王子レグルスの手を握る。手をひかれ、宮の奥の風呂場に連れていかれ、レグルスははっと気がついて抗った。
「どうした? 大丈夫だ、身についた砂を流すだけだ。何もしない、大丈夫だ」
兵たちが王子をなだめながら、砂まみれの衣服を剥いだ。あらわになった王子の裸身に、男たちは息を呑む。
――レグルスの幼い体には、紫のあざや切り傷、無体な口づけの痕が無数に咲いていた。
「……だいぶ苦労したのだな。安心するが良い、竜子様はお前にそのようなことはしない。友人のように、母のように愛しんでくださるだろう」
意味の通じぬなぐさめが、弄られつくした耳に痛い。視界がにじんで潤むのを、くちびるをぎゅうっと噛んでこらえる。
体を清い水で流され、濃茶色の異国の衣を着させられ、今さらの不安がだくだく胸にせり上がる。情けないほど呼吸がはあはあ荒くなる、体がかあっと熱くなる。
……それに気づいた兵が微笑し、穏やかな声で言い聞かせる。
「緊張しているのか? 大丈夫だ、竜子様は優しいお方だ。互いの言葉の通じないのも、あの方ならば何とかしてくださるだろう」
意味の分からないながらに、その口ぶりにほんのわずかに安心する。弱々しく微笑ってみせるレグルスに、兵がほの淡い笑みで応える。
しばらく宮の内をめぐり、王子はこじんまりした部屋の前へと立たされた。
「竜子様……かなめ様! あなた様にお見せしたい者がおります! 内へお連れしてよろしいでしょうか?」
「入れ」
部屋の中から、ガラス製の小鈴のような声が響く。兵が扉を開くと、中には一人の少女がいた。
紫色の袖の長い衣に、腰に巻いた赤いリボン。その髪は白銀に輝いて、床に波打って流れている。『かなめ様』と呼ばれた少女は、妖怪じみた血の色の目で、じっと王子を見つめて聞いた。
「そなた、異人か。名は何と言う?」
どうしよう、何を言っているのか……何とも答えができなくて、ただあいまいに微笑する。少し首をかしげた少女は、ふっと小さくうなずいた。
「そうか、言葉が分からんか。されば……」
少女がすっと衿もとから短刀をとり出し、己の指に刃をあてる。指の腹にぷくっと浮いた血玉を突きつけ、驚く王子に優しく告げる。
「さぁ、舐めろ」
――舐めろ? なめろ、と言っているのか?
かなめの身ぶりで判断し、王子はおずおず丸い鮮血に口づける。
「……どうだ?」
レグルスがかなめの言葉に顔を上げる。
分かる、どうしてか理解できる。
耳なじみのない異国の言葉が、水が砂に染みるように、すっと頭に入ってくる。
「これは……」
思わず口にして、自分の耳が信じられない。
――自分の言葉が、異国の言葉に形を変え、くちびるからあふれて来たのだ!
兵が静かに進み出て、何ごとか少女にささやいた。かなめはレグルスに微笑いかけ、楽しげな顔で問いかける。
「そなたは、新しいお付きの者か?」
「あなたは……いったい、何者ですか? 人間とも思えぬその能力、あなたはいったい……?」
あまりに当然の疑問に対し、少女ははぐらかすように、小首をかしげてはにかんだ。
「さ、それはおいおい……まずは、そなたの話をせい。そなたのような綺麗な異人が、何故に岸辺にひとりきりで倒れていたのじゃ?」
王子がぐっと口ごもる。黙ってうつむく幼い異人に、かなめはちょっぴり意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「ほう? されば我も、我の話をせぬとしよう。我の身分を明かすのは、そなたがそなたの身分や出自を明かしてからじゃ。おぬし、名は?」
なおも黙り続ける王子に、少女はふっとあきれたような笑みを見せた。
「名も言えんのか、困ったのう! されば……そうだ、おぬしは肌がたいそう白いから『白』が良い」
「……しろ?」
「さようじゃ。しかし、ただの『白』では何だから……そうじゃ。おぬし、今から『忠白』と名のるが良い」
「ただ……しろ……」
つぶやいたレグルスのほおに、じんわりと笑みが浮かんでくる。
新しい自分の名、忠白。悪くない。
兵はいつしか部屋を去り、レグルスは……忠白は、少女とふたりきりになった。
「忠白。髪を梳いてくれ」
ひらりと背を向け、少女が無防備に申しつける。草を編んだらしい敷物の上に、半月型の木製のくしが置かれている。忠白はそのくしを手にとって、おそるおそる白銀の髪をすき出した。
髪をすいてもらうことはあったが、すいてやるのは初めてだ。頭皮に傷をつけぬよう、静かにくしを入れてゆく。
さらり、さらり。
気持ちの良い感触に、幼い指がひたされる。
(死ななくて、良かったのだろうか)
小国の王子は、異国の地でそう、ぼんやり考えた。もし海上で嵐に遭わずに、あのまま『目的の地』に無事船が着いていたとしたら。
(どうなったろう――)
ふっと考えかけた王子が、あわてて大きく首をふる。考えるのもおぞましい。忠白の手つきの変化に気がついて、かなめがこちらを見上げて聞いた。
「どうした? 忠白」
「何でも……なんでもありません」
気がつけば、ちゃんと敬語で答えていた。幼い異国の少年は、船上で仕込まれた敬語使いを、この時初めて嬉しく思えた。
さらり、さらり。
こしのある絹糸のような手ざわりが、甘く指先を撫ぜてゆく。
その存在すら知らなかった異国の地で、『小間使い』として少女の髪をすきながら……それでも王子は、幸せだった。