転機を迎えました【3】
深夜、ルルはハッと目を覚ました。
全身がじっとりと汗ばんでいる。気持ち悪い。
(……夢、か)
無意識のうちに掴んでいた胸元がドクドクと嫌な音を立てている。ルルはぎゅっと目を閉じると、上体を起こして息を深く深く吐いた。
久しぶりに見た夢だった。子供の頃に実際に体験した出来事。
忘れることなど決してできない、辛く苦しい記憶の残滓。
(……お水、飲もうかな)
もう眠れる気はしなかった。このまま朝を待つことにしよう。そう思った矢先、窓に何かが微かに当たる音がすることに気がつく。ベッドを降りてカーテンをそっと開くと、かなり強い勢いで雨が降っていた。ルルは思わず顔を顰める。
(朝までには止んでくれないと困るのに……)
月や星の明かりは分厚い雨雲に遮られてか、窓の外は真っ暗だった。
ますます気分が沈むルルだが、とりあえず喉の渇きを潤そうと部屋を出る。そしてそのまま厨房に入ろうとした時、ふいにユートのことが気にかかった。普通に考えれば自室のベッドで寝ている時間帯だ。しかし夢見が悪かったせいか、妙な胸騒ぎがする。
ルルは僅かに躊躇しながらも、欲求には逆らえずにユートの部屋の扉の前に立った。そして軽く二度ほど、ノックをする。夜中に起こすなんて非常識なことだが、それでも確かめたかった。彼が今、この家に居ることを。
しかし期待した応答の声も気配も全く感じられない。不安になったルルは思い切って扉を開けた。
そして室内の様子に大きく目を見開く。
「……ユート……?」
そこに居るはずの青年は、まるで最初から存在しなかったかのように忽然と姿を消していた。
寝具は綺麗に整えられたまま。それどころか荷物らしい荷物も見当たらない。
「うそ」
ルルは呆然と呟くことしかできなかった。しかし頭の片隅では理解していた。
ユートが夜中にこの家を出て行った――その事実を。
途端に目の前が真っ暗になる。なぜ、どうして。そんな疑問符ばかりが浮かんでくる。
「ユート……ユート、隠れてるの? 冗談はやめて、出てきてよ……ねぇ……っ!」
ルルの動揺した声だけが静かな室内に大きく響く。もしやと思って手洗い場も風呂場など家の中をくまなく捜すが、やはりユートの姿はどこにもなかった。
まるで今の状況こそが悪夢のようで、頭の中はもうぐちゃぐちゃだった。気づけば目からは止めどなく涙が溢れてくる。しかしぱたぱたと雫がいくら床を濡らしたところで状況は何も変わらない。
そうしてしばらく家の中で立ち尽くしていたルルだったが、
「さがさなきゃ」
誰に言うでもなく、ポツリと声を漏らした。そのまま弾かれるように部屋どころか家の外へと飛び出す。靴を内履きから外履きのものに変えることすら考えられなかった。
降りしきる雨に全身を晒しながら、ルルは薄手の夜着のまま、あてどなく森の中を走る。走る。走る。
「……ユート」
まるでルルの方が迷子の子供のように。
「ユート……ッ!」
いなくならないで、置いていかないでと。
「ユートぉ……やだよぉ……どうして、どこにいるの……返事してよぉ!!!」
徐々に激しさを増す雨音に混じりながら、ルルの悲鳴にも似た叫び声が森に木霊する。途中で何度も足元を木の根や草に取られ、無様に転んだ。雨でぬかるんだ地面のせいで全身があっという間に泥まみれになり、打ち付けた手足がじんじんと痛みを発する。
それでもルルは何度でも立ち上がり、棒のような足を懸命に動かし続けた。
汚れた顔を乱暴に拭い声が枯らしながら必死でユートの名前を呼んだ。
「っ……ゆーと、ゆーと……! おねがい……かえってきて……あっ!?」
再度の転倒。ずしゃりと右半身が汚泥に浸かる。
痛みに顔を歪めながら、ルルはゆっくりと身体を起こそうとする。しかし上手く全身に力が入らない。そこでようやく自覚する。もはや気力も体力も尽きかけていた。おまけに激しさを増す雨がルルの体温を容赦なく奪っていく。
(……さむい)
ルルはひどく疲れていた。こんな状態なのに、もういっそこのまま眠ってしまいたいとすら思った。
だから抗うことなく目を閉じようとして――しかし、結局はできなかった。
何故なら、そうする前に強く身体を抱きすくめられたから。
「お前……何やってんだよッ!!!!」
耳元に響いた怒声に、ルルは反射的に顔を上げる。
そして、自分を抱きしめる者の正体に気づくと、
「……ユートぉ!!!」
ぽろぽろと涙を流しながら残りの力を振り絞って、求めていた人に必死でしがみついた。
硬い外套越しに伝わる熱が本物であることを告げてくる。ルルはぐちゃぐちゃの感情を吐き出すように、ユートの胸の中で泣きながら声を上げた。
「どうして……どうして急に出て行ったりしたの!? そんなに避難するのが嫌だったの……ねぇ、どうして……それとも私と居るのが、嫌だったの……?」
「ッ! ――違う、そうじゃない」
「なら、どうして……ッ!」
「ちょっと野暮用のつもりだった。お前が気づかない間に済ませるつもりだったんだ」
酷くバツの悪そうな声と表情でユートは言った。どうやら本当のことのようだ。つまり、最初からルルを置いていったわけではなかったのだ。それが分かって嬉しい反面、当然ながら怒りも湧いてくる。
「……約束したのに。勝手にいなくならないって」
「それは……いや、俺が悪かった。謝る」
「っ……もう、帰ってこないかと、思って……も、もし魔族にでも遭って、死んじゃったら、どうしようって……わたし、わたし……っ」
頭が上手く働かず支離滅裂な言葉しか紡げない。それでもユートは黙ったままルルを抱きしめ続けてくれた。そして時折、背中を優しく叩いてくる。まるでもう泣かなくていいと言われているようだった。
だが逆にそれでルルの涙腺は完全に壊れてしまった。
悲しみではなく、安堵の涙が次々に零れ落ちる。
「……まさかお前が俺なんかのためにこんなに泣くだなんて、思ってもみなかったんだ」
一向に泣き止まないルルの耳元でユートが心底困ったように囁く。
そこでルルは再び顔を上げると彼を強く睨みつけた。
「泣くよ……泣くに決まってるでしょ! だってユートは、もう、わたしにとって大切なひとなのに……!!」
「……大切? お前にとって、俺が……本当に……?」
「そうだよ……ユートがいなくなったら、やだよ……本当は、ずっと一緒に居たいよ……っ」
それは、ずっと言えなかった本音。感情が昂るままルルはそれをユートへとぶつける。
全身びしょ濡れな上に泥まみれ。おまけにあちこちが痛い。状態としてはこれ以上ないほどに最悪だ。
けれど、だからこそ今――ルルはユートに伝えたかった。
「私、ユートのことが好きだから……もし叶うなら、私が、ユートの帰る場所になりたい」
言いながら、ルルは気の抜けたようにへにゃりと笑った。途端になんだか凄くホッとして、全身から力が抜けていく。ああ、限界だなと自分でも分かった。
(でも……きっと大丈夫)
少なくとも次に目を覚ました時、きっとユートはルルのすぐ隣に居てくれる。
だって、
「――ルル」
とても大切そうに、大事そうに、初めて名前を呼んでくれたから。
その柔らかな音と大きなぬくもりに包まれながら、ルルは今度こそ意識を手放した。
ようやくここまで辿り着きました。次回はユート視点です。
そして溺愛執着を期待されておりました方、お待たせいたしました!
ここから怒涛のモードに突入していく予定ですので引き続きよろしくお願いいたします。
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