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 東の霊峰アルカネスの山頂から日が昇る。

 採石のために大きく三日月形に抉れた独特の山体の影が伸びる。

 まだ空に星が輝くほどの早朝。

 キトノスが静まり返るわずかな時間に、街の外れを大きな荷馬車がのろのろと走っていた。凸凹な路面に荷物が崩れないか心配して、きょろきょろと背後を振り返る。鼻歌交じりの旅立ちとはいえないようだった。

 キトノスを囲う城壁はない。高い壁や重い門の隔たりがないから、景観の変化は劇的だ。中心部の喧騒から離れだすと、それまで並んでいた背の高い建造物の数が減っていき、気づけば畑が広がるような場所に出てしまう。

 畑の中を突っ切る、王都への道程。

 ここまでくれば旅は軌道に乗る。

 そう思って馭者が正面を向き直ったところ、背後が騒がしいことに気づく。

「そこの馬車、止まれ!」

 保安隊の騎士の叫び声と、早馬の蹄の音が迫ってくる。

 この街の保安隊に捕らえられたら終わりだ。いつか自分にも疑いが向いたにせよ、一日くらいなら誤魔化せるだろうと高をくくっていたが、相手は想像した以上に優秀だった。魔法使いは外見上魔力を持たない人間界の人々と変わらないから、田舎に逃げて別の人間を騙ればいいと思っていた。

 ところが、この早さである。馭者は魔法を行使した。

 魔力で以て荷馬車を軽くし、馬に活力を与える。これくらいは他愛無い魔法だ。一気に加速し、保安隊たちを置き去りにする。馬の脚力では勝てないところだが、魔法を使えばこれだけ差がつく――どうやら相手に魔法使いはいないらしい。

 息を切らしながら、馭者はほくそ笑む。

 これなら逃げ切れる!


 そのとき、ふっと全身から力が抜けた。


 馬の動きが鈍くなり、荷車ががたりと揺れる。それまでの加速が嘘のようにブレーキがかかり、馭者は背もたれに背中を押された。あまりの衝撃の大きさに、手綱を握っていられない。

 空中で身体が一回転する。

 荷馬車が三頭の馬もろとも傾いていくのを見た。


「ああ、痛そうだな。おい、起きろ」


 ぼんやりと赤い視界に、黒髪の少女が割り込んできた。

 仰向けで倒れたまま、動けない。

「おっと、無理に動くなって。骨も臓物もダメになっているだろうから。たぶん死ぬけど、まあ、もう少し頑張れ」

 天を仰ぐ姿勢、全身の激痛、少女の言葉。馭者は、馬車が急停止する勢いで投げ出され、地面に叩きつけられたのだと悟った。視界の赤は血液で、呼吸に変な音が混じるのは、折れた肋骨が肺や気管を突き破ったからだ。

 少女の言葉通り、もうすぐ死ぬのだろう。

 いったいどうしてこんなことになってしまったのか、馭者は朦朧とする意識の中で強く疑問を抱いていた。

「おまえ、魔法使いか?」

 無理に喋るなよ、と少女は口を尖らせる。

「混血だけど人間だよ、魔力はない」

 馭者は少女の言葉を嘘だと受け取った。

「魔法が、解かれた……」

 他者のかけた魔法を解く魔法は、未だ発見されていない。魔法を解く方法が一切ないわけではないが、畑しかないこの場所でそれを成せるとすれば、何らかの魔力しか考えられない。少女のほかに人影はないから、少女の魔力の仕業としか思えなかった。

 しかし、少女モニカが魔力を持たないのは、紛れもない事実だった。魔力はなくとも不思議な能力を持っていることを、馭者は知る由もないのだが。

 モニカは馭者には答えず、ニコニコと笑っているだけだった。

 そこに、アールが歩み寄ってくる。転倒した馬たちを魔力で以て落ち着かせて、主人のもとに戻ってきた。彼は、いくつかの関節をあらぬ方向に曲げ、血の海をつくっている馭者を認めると、憐れむように嘆息した。

「やりすぎたな、モニカ」

 アールが声を低くして窘めると、モニカはアールの背中に抱き着いた。都合の悪いときに限って、進んで無口な少女を装ってくれる。

 周囲をいくらか見回す。荷馬車の馬たちは落ち着いていて、魔力を持つ馭者も虫の息。周辺に危険はなくて、保安隊の人間たちはもうしばらく追いつかない。状況を確認したアールは、馭者の罪を語った。

「かつてハーシュの弟子で、いまは商売仲間の運送屋。魔煙草密売人のエルマー・ジーメンスを殺害したのは、お前だな」

 アールの宣告を受けて、馭者はうっすらと思い出す。このふたりは、前日にハーシュの店で話した客たちではないか、と。馭者はすべてを悟るが、すでに遅い。

 馭者に歩み寄り、彼の顔をアールが覗きこむ。死に向かおうとする馭者には喋らせない。


「ハーシュの犯行に見せかけてジーメンスを殺した、そうだろう?

 凶器は氷柱。ただし、優れた腕を持つハーシュの凍結魔法ではない。犯行後、凶器の氷は融けて消え去っていた。たった一晩で融けてしまう氷が、自らを凍らせて一週間も形状を保つハーシュの氷とは思えない。先端部分だけでも私の手ほどある巨大な氷なら、なおさらだ。

 だが、ハーシュの氷が現場になかったわけではないだろう。お前はハーシュの氷像を、お前の変形魔法で氷柱の形に変えた。巨大な氷があれば、同じ質量で凶器がつくれたはず。そいつでジーメンスを貫いたあとは簡単だ。薄く広げるか、小さく砕くかして融解しやすい状態をつくり、現場を去ればいい。

 氷像を王都に運ぶ運び屋のお前なら、凶器のもとになる氷も手に入れやすかっただろう? ちょうど職人のほうも、最近大きなものが売れたと話していた。大きな荷台なら隠しておけるだろうさ。

 変形魔法は平易な魔法だから、それだけでお前を犯人だと決めつけるわけにはいかない。でも、手掛かりは充分だ。運び屋としてハーシュの氷像を容易に入手できた。ハーシュのもとで修業をしていたから、氷の加工にも慣れていたはずだ。運び屋として信頼を得ていたのも、そのためだろう? 確か、腕の悪い職人は変形魔法で氷像を仕上げをするのだったよな?

 さらに、あまりに派手な殺しをしてしまったこともお前が犯人だと物語る。あれでは、ハーシュが疑われるよう仕向けたとよくわかる。何せ、魔族が魔力を持たない人間を殺すのに、あれほど大掛かりに魔法を使う必要はないからな。ハーシュが優秀な魔法使いとわかっているだけに、過剰な演出をしてしまった。

 動機は、お師匠の裏切りに絶望した、というところかな。

 ハーシュは魔煙草を魔界から輸入し、ジーメンスに仲介させて人間界で売りさばいていた。そのときの輸送は、お前が担っていた。氷像に隠すのは良い手だ。魔煙草は魔力残渣を蓄えているから、魔族にはある程度臭いがわかってしまう。しかし、ハーシュの氷像は魔力素を吸収しているから、微量の魔力残渣を発していた。一度に大量に運ぶような失敗を犯さなければ、ちょうどいい隠し場所といえる。

 この事実に気がついて、お前はお師匠とジーメンスに腹を立てたことだろう。

 高い技巧で人間界でも成功したかに見えたお師匠が、まさか密売で飯を食っていたとは思うまい。そのくせお前という弟子を見限った挙句、危険に巻きこんだ。相手は冷徹さで有名なジーメンスだ、お前ひとりでは到底逃げだせない。まさしく裏切りだ。師をひどく恨んだお前は、ジーメンスを殺し、ハーシュを牢に入れさせたうえで、自分は遠くへ逃げる筋書きを思いついた。

 運び屋として知らずに関わっていたのだから、ハーシュを追求すればジーメンスと会う道も開けたのだろう。価格交渉に応じないジーメンスといえど、カネを出さないわけではない。それまでカネを払っていなかった利害関係者が取り分を求めてきたと言われれば、会わざるを得なかったはずだ。夜の闇に紛れて対面を果たし、目的を達成した……そんなところか?」


 力なく天を仰ぐ馭者は、アールに異を唱えなかった。

 気力はすでに生を手放してしまっていたが、体力はごくわずかに残されていた。精いっぱいの力を振り絞り、掠れる声で最後の訴えをアールとモニカに届ける。

「知っているか? 王都で、氷像が……」

 言葉が切れた。

 アールとモニカが続きを待っていると、置き去りにされていた保安隊の騎士たちがようやく追いついた。その先頭は、きのうハーシュを連行した人間だ。彼は現場を目の当たりにして、

「徒労だったか」

 と舌打ちした。




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