懐の勇気
熱い物を鼻先に感じた。
衝撃が顔面全体に走る。そのまま、風を後頭部に感じたかと思うと、僕は一瞬の内に数メートルの距離を吹き飛ばされた。
息が出来ない。状況把握が出来ない。頭の奥で火花がスパークし、目の前がチカチカとする。
一秒。尻餅をついた痛みに腰をさすり、続けて反射的に鼻を押さえると顔を上げた。
ずちゃ、と一歩を踏み出した目の前の男を見上げ、僕は呻いた。
男の唇端が引きつっていた。血走った目に、時代遅れの角刈りの髪。まさにチンピラ、肩を怒らせながらの詰め方はまるで菅原文太そのものだ。
脳内で記憶が繋がった。振り向きざまにいきなり殴られたのだ。
男は更に一歩を踏み出し暴言を吐く。
「ッからよォ! メてんじゃネェぞガキがァッ!? ッ殺すゾ!?」
何が何だか解らない。僕が何をしたというのか。暴力は突然やって来る。それを体現したかのような出来事だった。
町中をぼんやりと歩いていた僕も確かに悪い。
前日の試験の成績が芳しくなく、家に戻ればそれを元にこってりと絞られるであろう事は判っていた。
家に帰りたくなかった。さりとて、街で時間を潰そうにもアルバイトすらしていない学生にとって居場所など無かった。
威張れる事ではないが、僕に友達は少ない。いや、むしろ世間的には苛められっ子のレッテルを張られる人間だろう。
学校での友人は皆、暴言を吐いた。隙あらば小突く、蹴飛ばす、その程度は日常茶飯事だった。
黙っていれば嵐は過ぎ去る。面白くなければ相手は去る。
そうやって生きてきた数年間、僕はただ空気のように生きてきた。
駅前のビルに入り、立ち読み御用達の本屋で二時間を潰し。公園で適当な小説を読み耽り、どうにも間が持たなくなったが故に、家路を目指そうとしたその矢先。
小さく肩がぶつかった。
せいぜい、その程度の事だった気がする。
すみませんの一言も発せぬまま、いきなりの一撃だった。突然の出来事に何も言えず、まるでミステリーサークルのように野次馬が取り囲んだ。
また男が怒声を上げた。
「ッ見せモンじゃねェぞこの野郎ッ! ン何見てやがンだ!」
ギロリ、とまるで鷹のような眼が睨め返した。反射的に全員が目を剃らした。関わり合いになりたくない、そんな意志が伝わってくるかのようだった。
(…あぁ、やっぱりこんなモンだよな。誰だって、関わり合いたくはないしな。)
諦めにも似た感情。鼻先の熱さが紛れると、すぐにドクリとした血に気付いた。痛みがぶり返した。黒地の学生服に赤い粘液が広がった。
そんな僕を振り返り、男は再びその凶暴性をぶつけて来る。踞る僕の胸元を掴み上げ、無理矢理立たせるとビル壁にぶつけるように押し付けた。
「――あァ!? ッどう落とし前ェ付けようってぇんだ!?」
背中が痛む。同時に鼻も。首は締め上げられ、窒息しそうになる。一瞬、死すら覚悟した。
恐ろしくて声も出ない。ごめんなさいとすら言えない。
救世主なんかどこにもいない。助け船が来るとしたなら、きっと時間が経ってから警察がやって来て、役にも立たない事情聴取をする程度の物だろう。
全てが諦めに満ちていた。意識せず、涙が流れていた。どうしようもなかった。
が。
男の手が何故か緩んだ。衝撃。そして、勇ましい黄色い声。
「――止めなよ。」
男が膝を付く。その後ろに、逆行になったシルエットが立っていた。
女の子だった。
長い黒髪、切れ長の眼。細面の顎先には小さなほくろがあり、見たことのある黒い制服を着ている。面識はないが、同じ学校の生徒に間違いなかった。
「ンだぁ、テメェはァッ!」
恐らく少女が背中を蹴飛ばしたのだろう。男が唾棄しながら腰の辺りを片手でさすっていた。
「止めな、って言ったんだよ。いい大人が。」
「ンだとぉッ!」
まるで瞬間湯沸かし器だった。男はタコのように真っ赤になりながら、僕の事を手放すと腕を思い切り振り上げた。
次の瞬間。
男は、宙を舞っていた。
理解の範疇を遙かに越える出来事だった。
確かに、男は少女の胸座に向かって手を伸ばしていた。刹那、少女が黒髪を棚引かせると、男が逆さまになって飛んでいた。
物凄い衝撃音。植え込みに頭から飛び込んだ男は益々凶暴な顔を見せながら、足元の砂利を握り締めると少女に向かって振りまいた。
目潰しだ。僕は反射的に叫んでいた。
「あぶな…ッ」
が、杞憂だった。男の次の拳は、またも空を切っていた。
その姿勢のまま再び逆さまにビルの壁に激突。先よりも激しい衝突音を上げ、男はそのまま地面に叩き付けられると昏倒した。
僕は呆然とその様子を見つめていた。言葉も無かった。
「…大丈夫?」
少女がハンカチを手にしながら近付く。鼻先に差し出されたそれを手にするのは何となく気が引けた物の、それでも受け取らない方が失礼な気がして、僕はそっと頭を下げながら赤く染まった顔を拭った。
バタバタと激しい足音。今頃になって、警察のお出ましらしい。少女は僕に手を差し出すと、ニッコリと微笑んだ。
そっと少女の手を掴んだ。いきなり、物凄い牽引力が加わった。
「――あ、き、君っ! 待ちなさいッ!」
背中で警察が叫ぶ。しかし、少女は一向に後ろを振り向くことなく走り続けた。
爽やかな空気が僕の頬を撫でるように。鼻の痛みも、どこかに飛んでいったかのようだった。
暫く走り続けた後、僕は息切れしながら「もう無理だ」と音を上げた。
少女は「情けない」とばかりに溜息を吐くと、近くにあった公園に入る。
ベンチを見つけるなり、僕はそこに深く腰掛けた。もう、一歩たりとも動けなかった。
少女はふぅ、ともう一度深い溜息を吐く。そして、僕の隣に腰掛ける。
落ち着いた頃を見計って、僕はようやく感謝の言葉を口にした。
「あ、…えと。…ありがとう。」
「お礼なんていいわ。…見てられなかっただけだし。」
会話が途切れる。それ以上の進展がない。
空気は徐々に冷たく、夜の帳が降りようとしていた。
虫の声。辺りの電灯に一つ、また一つと明かりが点き始める。
「つ…強いんだね。」
僕の呟きに少女は三度目の溜息を吐く。
「…強くなんて、ないわ。」
どこがだよ、と思うがそれ以上は口に出来ない。僕はまたも言葉を無くし、そのまま俯いてしまう。助けてくれたのは有り難かったが、今は逆にこの空気に耐えられなかった。
「…ずっと。」
突然、少女が一言を呟いた。
「…え?」
「ずっと、そうしてるの?」
「そう、って?」
「そうやって、何も言わず、黙って、やられるままなの?」
「だ、黙って、て――! 君は強いから…強いからいいけど、僕は――!」
「強くなくちゃ、抵抗出来ないの?」
「やられるだけだろ!? そ、それだったら…そのまま…」
「さっきみたいに、黙って? あの人、黙っていたら見逃してくれた?」
「………」
僕は言葉に詰まった。確かに、死ぬかと思った。僕にとって、気付かれぬよう、静かに生活することは処世術だった。
でも、その生き方では突然の暴力には何の対処も出来なかった。下手をすれば、そのまま本当に殺されていたのかもしれない。
「黙って風が過ぎるのを待つのは、ある意味では正しいわ。でも、助けての一言も無いままじゃ…あなた、薙ぎ倒されるだけよ。」
「………」
「さっきもそう。あなた、何も言わないつもりだったでしょ。あの男に飽きるまで殴らせて。それで、それが終わったらツイてなかった、とか愚痴りながら帰るつもりだったんでしょ?」
「君に…何が解るんだよ。」
苦し紛れだった。全てが図星だった。僕はただそう言う事でしか面子を保てない情けない男だった。
しかし、少女はそれにもはっきりと返した。
「解るわよ。…私は、貴方を見てたから。」
「…え?」
プイ、と少女がそっぽを向く。そして、そのままガタン、とベンチを立ち上がり、いきなりその場から走り出した。
あ、と声を出した瞬間には、もう数百メートルの距離を離されていた。僕の手には、ただ一枚の血塗れになったハンカチが握られていた。
完全に漆黒に包まれた公園で、僕は今しがた起きた出来事に現実感を失いながら、それでも目の前のハンカチを見つめるしかなかった。
数日後。
洗ったハンカチを懐に、僕は校内を虱潰しに歩いた。勿論、あの少女に礼を言う為だった。
だが、幾ら探しても――上級生、下級生のクラスも含めて探したのだが、あの時の少女の姿は見つけられない。
それどころか、誰も彼もが「そんな少女は聞いたことがない」と返すばかりだった。
首を傾げるしかなかった。一体、あの少女は何者だったのか。溜息を吐きながら、職員室前の廊下を通り過ぎようとした時、僕は信じられない物を見て振り返った。
三代前の校長の写真。老齢の淑女が白黒の写真で映っている。
その顎先には、小さなほくろがあった。
似ても似つかぬその顔。だが、面影が見える。皺が目立つ切れ長の眼。そして、恐らく若い頃には黒かったであろう髪を上で纏めた姿。
「……まさか。」
僕は呟いた。あの少女が何者だったとて構わなかったが、ただ一言だけは伝えたかった。
「…わかった。頑張るよ。」
誰もいない廊下でそれだけを呟くと、僕はそのままその場を後にした。
胸の内のハンカチは、まるで勇気の象徴のようで。僕は、少しづつでも言いたいことを口にするよう決意するのだった。
結局、あの少女には二度と会えなかった。
苛めはなくなりはしなかったが、僕が意志を示す事で少しづつその数は減り――
やがて卒業。去ることになる学舎を見上げながら、僕はふと思った。
いつか、このハンカチを返せる日がやってくるんじゃないか、と。
懐には無くならない――もう一枚のハンカチがあるのだから。
了
小一時間程で仕上げた短編小説になります。
携帯電話などでちょっと読むにはちょうどいい文量かもしれません。
お楽しみいただけたら幸いです。