血が赤いとは限らない
氷の浮いたペールの縁にアイスピックを預けて、野崎は「探偵小説ねぇ」と呻き声を漏らした。肌青白く、頬を痩かした柳下を向かいに座らせたまま、「匂わないんだよなぁ」と言葉を続ける。
「今までのラインで続けていこうよ。社会派ミステリーでさ。他所のだけど読んだよ『土中の叫び』。子どもを学校のトイレで出産して、校舎裏に埋めたって話。五年ぐらい前に話題になった事件のヤツだろ? その生徒の担任が父親かもしんないってヤツ。アレは良かったよ」
グラスのウイスキーを呷り、空き手で髪を掻き回して、放てる言葉をほじくり出す。一方の柳下は肩を窄めたまま、俯きかげんの姿勢で、眉間に皺をよせた曇った表情を浮かべたまま。野崎の言葉には鶏のように首だけ動かして、「はあ」との生返事を繰り返だけである。
「そりゃ、売り上げは鈍いかもしれないけどさ、評価は高いじゃないか。大切だよ、そう言うの。こういうラインを真面目にコツコツ踏み固めて進んでいけば、結果は後からついてくるって」
野崎が幾ら頭を捻って言葉を絞りだしても、柳下は眉間に皺を寄せたままで変化はない。ウイスキーを喉に滑らして、顔が火照ってくる。思考は空回りを加速させるばかりだ。
新任の編集長からの厳命だった。柳下の社会派ミステリー小説を連載させる。そのための確約を取ってこい。スケジュールや原稿料については後から出もどうにでも成る。今日は彼の口から「はい」を言わせる。そのために労を尽くしている。
しかし、押しても引いても反応が薄く。アルコールの熱が頭に蓄積されていく。生来イラチな野崎の心中では苛々が腫れ上がっていっていた。
「探偵小説ってアレでしょ? 江戸川乱歩の明智小五郎とか、横溝正史の金田一耕助とか。あんなのないって。今どき流行らないって。ミステリというより、『007』じゃん。それに明智小五郎、危機一髪とかかいちゃって。あんな逃げ方ないって。後出しじゃんけんもイイとこよ」
頭が空回れば、舌も回った。野崎は捲し立てるように言葉を続けていった。
「──そうですか」
やっと耳に届くかどうかの、小さな呟きだった。頬がやや吊り上がっているのが横目で見えた。笑っているようだった。
「青い血の流れているヤツじゃなくて、赤い血の流れているハナシ書こうよ」
柳下の肩をポンポンと叩くと、突如、きつく掴まれた。ぬっとりとした感触が手の甲を襲った。冷たい汗だと気づいた。
「確かに明智小五郎は、青い血が流れているそうですね」
「おお、丸山明宏のハナシできいたよ」
呂律が辛うじて回ってくれた。
「ええ。七色の血が流れているから、見たら目が潰れてしまいますよと切り返して、乱歩先生を唸らせた逸話は大好きです」
汗が吹いて出て来ている。手は更に厳しく握り絞められる。柳下は空き手でアイスピックを手に取った。鋭利な先端が白灯を受けてきらりと光った。
「それに明智小五郎の血は青いかもしれませんけど、その犯人・異人たちの血は赤かった。そんな人たちを無碍にしてしまう野崎さんは、どんな血が流れているんでしょうかね?」
柳下は鋭角な微笑を携えて、野崎の瞳を見詰めている。うっとりとした口調に、酔いはまたたく間に冷え込んでいった。