故郷に帰る
姫様の部屋を出てからまっすぐ王都を出てちょうど十日、俺は寄り道することなく聖杯の国の大地を歩き続け、ついに故郷のある森を目の前にしていた。
もっとも、今はいくばくかの報酬と引き換えに商人の馬車に乗せてもらっていて、俺の足は絶賛休息中だったが。
「どうもありがとうございました。わざわざこんなところまで送ってもらって」
「いや、俺はちょっと寄り道しただけだし、もらうもんもらってるからいいんだけどよ、この辺にはほとんど人は住んでないって話だぜ?本当にこんなところで下ろしてよかったのか?」
「ええ、ここでいいんです。実は帰り道でこう言うたびに驚かれたんですけど、俺、この近くに実家があるんですよ」
「へえぇ、そりゃみんな驚いただろうな。あんたのいで立ちはどう見ても王都帰りの格好だ。見る奴が見ればすぐにわかる。こんな田舎の中の田舎に住んでるのも驚きだが、どう考えても王都の暮らしの方がいいだろうに――と、これ以上は余計な詮索だな。まあ、気をしっかり持てよ。生きてりゃそのうち良いことあるさ」
「あはは、そうですね。そう思うことにします」
何やら訳知り顔で話す馬車の男に愛想笑いで返す。
本当はそんなことないと返すべきところなんだろうが、俺が厄介ごとに巻き込まれてすごすご故郷に逃げ帰ってきたのは事実だから否定のしようがない。
「しっかし、俺も商売でいろんな国を回っているけどな、この聖杯の国ほど変な国はないぜ」
「へえ、どう変なんですか?」
「普通田舎って言ったら国の端っこ、国境沿いにあるもんだろ?ところが、今俺達がいるここは聖杯の国中部、ていうか国土で言ったらど真ん中そのものじゃねえか。そんで北部に王都、それ以外の西、東、南に王都に負けない規模の街と三公爵がいるって、どういう成り立ちがあればこんなヘンテコな造りになるんだよ?」
そう言って男が指差した先、聖杯の国の国土の中心には何もない。
いや、俺にとっては故郷以外の何物でもないんだが、この目の前にある聖杯の国の中心を占拠する広大な森を「何もない」と表現しない人は、きっとこの森の中に住む人以外には存在しないだろう。
「ここがこの国の中心だからですよ」
「――あ?何か言ったかいにいちゃん?」
「いえ、何も。ただの独り言ですよ」
「そうか?まあ、生きてりゃいいことあるさ。ほら、この干し肉でも食って元気出せ!」
小さな声でつぶやいたから落ち込んでいるとでも思われたんだろう、男はさっきと同じセリフを繰り返すと結構な大きさの紙包みを投げてよこした。
「ありがとうございます。あなたはこれからどこへ?」
「ん?俺かい?これから家のある聖杖の国に帰るところさ。聖杯の国に寄ったのはただの通り道だっただけなんだがな、正直商人としてはもうちょっと特産品でもないと、旨味も何もあったもんじゃねえな」
「それはよかった」
「あ?なんて言ったんだ?」
「よかったって言ったんですよ」
今度は気のせいで片付けなかった。
ここまで馬車に乗せてくれた男に少しだけ恩義を感じたからだ。
「この国、近いうちに荒れるかもしれませんから、一日でも早く離れた方がいいですよ」
「荒れるって、何を根拠に――そうか、にいちゃんは王都から来たんだったな。何か知ってるのか?」
「知ってるって程じゃないですけどね。ただの勘だと思ってください」
「大丈夫だ。こんな商人にとって何の魅力もない国、長居する理由なんて俺にはないからな、さっさと家に帰るさ。じゃあな、にいちゃんも達者でな」
「はい、ありがとうございました」
そう言って馬車を動かして遠ざかっていく男をしばらく見送った後、俺は懐かしき故郷へ戻るためにわずかに見える獣道から森の中へと足を踏み入れた。
「くそっ、失敗した!」
あれから三日後、森の入口から片道一日ほどのはずの故郷に、未だに俺は帰れずにいた。
「間違えたとしたら一昨日のあの目印しかない、はあ、はあ」
行けども行けども、見えるのは木々ばかりで人気など全くない。
当然そんな中を何の目印もなく歩くわけがなく、故郷の人間だけが知る森にある秘密のサインを辿って歩いていたつもりだったのだが、どうやらそのうちの一つを間違えてしまったらしい。
「もう水も食料もない。ははは、元第三王女の秘書官、誰にも知られることなく森の中で朽ち果てる、か……」
あの時もらった干し肉が無ければもっと早く力尽きていたかもなと思いつつ、独り言をつぶやき続ける。
体力の限界というならとっくに超えている。
障害物など何もない平野なら、この十倍の時間を生き延びる自信はあった。
だが、中型の獣ですら生きるのが難しいほど過酷な生存競争が行われているこの森では、普通の人間など三日ももてば生物としては優秀な方だろう。
よくこの厳しい環境を今日まで生き延びたと、逆に自分を褒めてやりたいくらいだ。
「でも、もう、げんかい、だ」
バタリ
独り言をつぶやき続けることで何とか精神力を維持して歩いてきたが、何のことはない木の根っこに足を取られて転倒してしまった。
もう立ち上がる気力も残っていない。後は弱り切ったこの体を、その内に通りがかるだろう獣に食われるのを待つだけだ。
「ははははは、まあいい、どうせ俺の役目は終わった後は皆に任せれば――」
「あら、それは困るわねセイラン。あなたの本当の役目はこれからでしょう?」
その若い女の声を聞いた時、俺の心には救いの手が来たという感情は微塵もなく、むしろ心底うんざりという言葉の方が正確に言い表していると感じた。
「そう思うんならもっと早く助けに来てくれよ。どうせ俺が右往左往するのを面白がってずっと見てたんだろ」
「そのことは否定しないわ」
未だ倒れたままの俺のもとに頭上の木から飛び降りてきたのは、赤い長髪を後ろで紐でくくった、野性的な魅力に満ち溢れた美少女だった。
「でも、あなたが王都に行くときに散々自慢してきた罰をこれくらいで済ませてあげようって思ってるんだから、むしろセイランの方こそ感謝すべきよね」
「そりゃすいませんでした!――ゲホッゴホッ」
「あら?叫び声一つで咽るくらい体力が残ってないみたいね。とりあえず里に運ぶわ」
そう言うと、この三日でいくらか痩せたとはいえ、頭一つ分は背の高い俺の体を軽々と背負って全力で駆け始めた。
彼女の名前はレイナ。俺の幼馴染にして、故郷で戦士と呼ばれる戦力の一人だ。
一時間後、レイナの無遠慮な全力疾走のおかげでさらに体力を消耗した俺だったが、無事故郷の里に帰りつくことができた。
体調を考えればこのまま自分の家に直行して、最低でも森をさ迷ったのと同じ時間の休息を緊急でとりたいところだったが、あいにく里に帰って来たからには何よりも優先すべき役目が俺にはあった。
「おお、先触れから聞いた時にはまさかと思ったが、本当に帰ってきたのだな、セイラン」
「ただいま帰りました、爺様」
里で一番大きな家にレイナに負ぶわれて入った俺は、そこにいた里長である祖父と二人きりにされた。
その時、自分の役目を終えて出ていくレイナが震えたような気配を見せたのは、おそらく里長からじろりと睨まれたからに違いない。
やはり、この三日間の俺に対する仕打ちはレイナの独断だったようだ。
「うむうむ。だが、家族の再会は後にして、まずは役目を果たせ。なにがあった?」
その里長の質問は、単に状況を知りたいというよりは、すでに俺の身に何が起こったのか察していて、最後の確認のためにあえて無駄な質問をしているように思えた。
「は、ご推察の通り、私がお仕えしていた第三王女が第二王子の失脚に巻き込まれ、カルネラの聖杯教会に幽閉の処分が下ったことに連座し、第三王女付きの秘書官の任を解かれました」
「むうぅ、やはりそうか。こんなことにならないように王族とは無関係の役職に就けるよう要望は出していたのだがな。それで、外遊中の国王はいつ戻るのだ?」
「どうやら王太子派の妨害工作に遭っているとかで、早くても三か月後になると聞きました」
「そうか。ならば、どちらに転んでもよいように準備だけはしておかんとな。セイラン外交官、最後の質問だ。《真実》は第三王女に引き継がれておるのだな?」
「確証はありません。ですが、私が第三王女付きになった経緯といい、殿下と最後に交わした会話といい、ほぼ間違いないかと」
「なんと、今の国王は外交手腕に長けておるから迂闊に《真実》を明かすようなことはせぬと思っていたのだがな」
「おそらくですが、王太子、第二王子共に《真実》を受け入れる器がなかったのではと思われます」
「……それほどに二人の王子はひどいか?」
「あれなら、まだ愚鈍であった方が為政者としてはマシだったかと」
「それで第三王女に、か」
それから里長はしばらく考え込んだ。
当然、俺の体調が限界にきていることを承知でだ。
そうなると、もちろん俺の方からいったん下がらせてくれというわけにもいかず、沈黙の時間が流れ続けた。
そして、沈黙も突然ならその終わりもまた突然のものだった。
「――セイラン外交官、お主の帰還を許可する」
「それでは」
「うむ、事態が収束するまでの間、《外》に関する一切の権限をセイラン外交官に一任する。直ちに行動に移れ」
「は、了解しました――といいたいところなんだけど、爺様、さすがにこのままはムリ」
「ん?おお、忘れとった忘れとった。まずはこれを飲め」
そう言って里長と部下の関係から家族の関係に戻った爺様は、家の中で一番目立つ祭壇から金ぴかの盃に何かの液体を入れて持ってくると、無造作に俺に突き出した。
「ちょうどいい、この杯を飲み干した時点でお前を全権大使兼最高指揮官に任命するとしようかのう」
「……任命式というには無茶苦茶すぎるよ、爺様」
そう言いつつも特に逆らうつもりもないので、大人しく金ぴかの盃の中の液体を飲み干す。
ゴク ゴク ゴク
その時、俺の体中を電撃が駆け巡った。
体中の細胞という細胞が沸騰し、生物としての根幹が作り替えられていく感覚。
こんなふうに言葉で言っても、この感覚の万分の一も表現できていないことは百も承知だ。
だからこの感覚を共有するには、俺と同じ体験をしてもらうしか方法はないのだ。
だが駄目だ。それだけは俺の魂が許さない。
この感覚を共有できるのはこの里の人間だけなんだ。
「よくぞ帰ってきたセイランよ。お前とは、できれば一生会わずに済むのが、この里にとっても、《外》にとっても幸運なことだったのかもしれぬが、賽は投げられた。これより先は一切の情を捨てて己が役目のために突き進むがよい」
「承りました」
不退転の覚悟を里長に誓い、最盛期の肉体を取り戻した俺は、早速必要な情報を集めるために里長の家を出た。