種火
新年一発目、第二章開始です。
それは静かな朝だった。
ベッドから覗く空模様が絵の具を塗りたくったような灰色でも、もうすぐで夏だというのに少し肌寒かったとしたも、まだ太陽は遠くに見えるコタリカの山から顔を出していなかったとしても。
朝早くではあるが、こうして微睡みからゆっくりと浮上する感覚が、彼は好きだった。
時刻はまだ朝の四時前。
以前の環境ならまだまだ余裕があり、そのまま微睡みに身を委ねて眠りにつくところだが、生憎と今の環境がそれを許さない。
そんな生活を何年も――下手をすれば何十年も繰り返していると、自然とその生活が体に染み付き、今ではこの時間に起きることが彼の中で気持ちのいい始まりだった。
繰り返すが、窓の外は陰鬱とした鋼色で、日が昇っていないことから朝というよりもまだ真夜中だと思わせる。
お世辞にも気持ちいい朝とは言えない。
が、つい四時間前まで夜通し起きていた彼にとって、外の天気はどうでもいい事だった。
今は何より、自分が気持ちよく起きられた事がすべて。
本音を言えばもう少し眠っていてもいいのだが、この時間から始めなければ朝の日課が終わらないのだ。その日課は屋根のある室内でいつも行うので、外の事情なんてなんの影響もないのだ。
寝間着から普段の服装に着替える。
彼は黒髪で明らかに日系の顔つきをしている。その中でも彼の顔立ちは秀でていると言えるだろう。身長も百七十後半はある。体も鍛えており、筋肉質な体が服を脱げば露わになる。
ベッドの側に立て掛けてある木剣を持つと、彼は部屋を後にする。
「やっぱり、少し肌寒いな」
廊下に出ると、少し冷える風が肌を撫で、ぶるりと小さく身震いする。
この屋敷は暖房設備が乏しい。なので、冬になるといつも凍えて生活することになる。
曇りに曇った朝なら尚更で、今が春の終わりだということに少しばかり感謝したくなる。
長い廊下には人影があまり見当たらない。
手入れのされた調度品はまばらに見当るものの、数多くいる同居人達はまだ多くが気持ちよく夢を見ているはずだ。
豪華さが前面に出て、初めてここに連れてこられた時は少し恐れ多さがあったが、暮らしていくとそんな感覚は自然と麻痺していく。
今はむしろ、豪華さよりも寂しさが強く出ていた。
「そろそろ行こうかな」
一人小さく呟くと、歩く速度を速める。
階段を降りると、広いロビーが姿を現わす。
ロビーからは西と東へと続く廊下と階段がある。
今いる屋敷は西館と東館に分かれる形になっており、同居人達はそれぞれの自室で生活している。東館と西館の奥にはそれぞれ広間があり、毎日そこで同居人達が集まって会議という名の雑談を繰り広げている。
そして、玄関に人影がひとつ。
「おはようございます。ユウキ様」
「おはようございます。ケイトさん」
メイド服を着る歳若い女性と挨拶を交わした。
ケイトという彼女はこの屋敷で、悠希とその同居人達の世話を任されている女性である。
悠希が言えた義理ではないが、こんな朝早くから起きていることに少し驚く。
「お早いですね」
「いえ、ユウキ様には負けますよ。ユウキ様は召喚されてから、毎日このお時間に剣をお振りになりに行っているのですから」
「ボクはまだまだですからね。もっと強くならないと、みんなを無事に帰らせられないですから」
「無理はなさらないでくださいね。お体を壊されては、皆様も心配致しますよ」
柔らかに微笑んで忠言をくれる。
彼女には本当にお世話になっているため、頭が上がらない。
「善処しますよ。では、失礼します」
断りを入れ、その場を後にする。
屋敷から出ると、回廊が長く続く。そこを渡っていけば立派な城へと入っていく。中に入ると、迷宮の様な城内を勝手知ったる様子で進んでいく。
何度か城の兵士とも顔を合わせるが、皆鷹揚に頷いてくれるだけで何事もなく歩みを進めていった。
そして、ひとつの扉の前で立ち止まる。
扉を開けば、そこは修練場だ。
悠希はその中心に行き、持ってきた木剣を構える。
小さく息を吐き、意識を集中させていく。日頃から繰り返しているからか、淀みなく静かに呼吸が整えられる。
ゆっくりと木剣を掲げ、ぶん、と音を立てて振り下ろされる。普段の賜物か、動きは洗練されており、無駄な動作は全く無かった。
時間が経つ毎に振り下ろす数は増え、十、百と回数が重ねられる。
その時、ふとケイトの言葉が脳裏を過ぎった。
「無茶をするな、か」
心配してくれることは素直にありがたく思う。
これまで幾度も戦いに赴き、その全てで勝利を収めてきた。その全てで周りからは無茶だと言われる行動を取ってきた。だが、それが何よりも被害を減らせるから行ってきただけ。それも、その方が勝つ確率が高いから。
なにより、その程度の無茶を通せないようじゃ、最後に戦うことになる人物には勝つことは出来ないのだ。
眼前にとある敵の姿を仮想する。
その人物は悠希よりも背が高く、恐ろしく長い金髪にスラリと伸びた手足。体の線をハッキリとさせる漆黒の戦装束からは、数々の戦場を闊歩してきた歴戦の戦士という印象を受ける。その容貌は艶やかであり、凛とした見目麗しい美女である。しかし、そんな美貌は恐ろしく凍てついた眼光でこちらを見下ろしていることから、あまり感じさせることはない。
その気配は圧倒的だ。これまで対峙してきた魔族や魔獣達の誰よりも強く、肌がピリピリと粟立つ。
喩えそれが自分の記憶の中だけの相手だとしても、仮想敵なのだとしても、それが遥か高みにいる存在なのだと強く実感する。
「ふっ――!」
強く踏み込み、上段から斬りかかる。洗練された動作での一撃は、年不相応に覇気がこもっていた。
しかし、その一撃はいつのまにか取り出されていた刀によって弾かれた。
刀身は黒く、禍々しい気配が相手を中心に噴き上がる。それに伴い、相手の圧力がうなぎ上りに向上するように感じられる。
「はぁぁあああっ!!」
裂帛の雄叫びとともに、一気呵成にたたみかける。
幾重にも振るわれる剣線、幾重にも振るわれる太刀筋。数十合を越える立ち会いは、一向に戦局を変動させない。
攻めているのは間違いなく悠希の方だ。
城の兵士たちが見れば、間違いなくその術理に舌を巻くことだろう。それだけ悠希の剣技は卓越されていた。
が、それでも相手には届かない。
速さ、重さでは悠希の方が上だ。それはそう感じるように相手が防いでいるだけ。やろうと思えばそれすらも凌駕されることは想像に難くない。
稲妻の如く閃光が奔る。それをしなやかな軌跡を持って悉くを受け流していくのだ。そうして返される刃は速度を増し、突風となって悠希の首に翻る。
その一撃を紙一重で躱して一歩迫る悠希へ、躱したはずの刀が間髪入れずに返ってくるのだ。
直線的な悠希の剣筋に対し、相手は優雅な曲線を描く。その切っ先は優雅ではあるが、弧を描く以上最短距離を通っていない。
ならば、直線である悠希の剣筋に間に合う筈が無い筈なのに、その差を無にするだけの何かが相手にはあった。
「――くぅっ!」
思わずうめき声が漏れる。
攻めているはずなのに、追い詰められている矛盾に焦りが生じ始めてくる。
見惚れるほど美しい相手の剣筋は、同時に、見届けることが困難なほどの速度だった。
幾度となく繰り広げられる剣戟。機先を制するつもりで攻め方を変えるが、その度にじわじわと追い詰められてしまう。
「っ――」
気が付けば、壁際にまで後退していた。
修練場の中心から繰り広げられた剣戟は、攻めていたはずが逆に攻められていたという矛盾によって後退を余儀なくされていた。
――どうした。その程度か、今世の勇者とやら――
記憶の中の彼女が嘲るように、挑発するように口を開く。
どうやら、相手はまだ本気は出していないらしい。油断せず、しかし傲岸不遜に笑う。
それに応えず、悠希は剣を構え直す。
応じる気がないことを理解すると、つまらなさそうに肩を竦めた。
力を失い、ゆらぐ切っ先。
それを隙と見て踏み込むことなどできない。
あの女にはどのような体勢であっても刀を振るうことが出来る。そうでなければ、あらゆる武器を扱うことなど出来ない筈だ。
少し荒れた呼吸を落ち着かせ、次の瞬間、地面が弾ける。強烈な踏み込みとともに全体重を乗せて斬りつける。
それを女は柳のように柔らかな動作で受け流す。転瞬、暴風の如く苛烈に攻め立ててくる。
終始防戦一方だ。どれだけ攻めようと、どう戦術を立てようと意味を成さず、それを上回る圧倒的な技術で、彼女の飛び抜けた戦術眼をもってこちらの戦術を即座に利用され追い詰められていく。
内心歯噛みする。
どうすれば勝てるのか。彼女の剣戟の結界をどうすれば突破できるのだろうか。
初めは、強くなればいつかは届くと思っていた。
しかし、剣技を磨けば磨くほど、戦うために必要な力を伸ばせば伸ばすほど、倒すべき最終目標のあの女の技量の高さに慄然としてしまう。
これまでに、あれを越える存在を見たことがない。対峙する度に、言い知れない壁を感じて焦りを拭い去れなかった。
――もうよい。わかった――
記憶の中の彼女が、唐突に口にする。直後――
攻め方が変わる。
女は刀を霞の構えで構えた。そう思った刹那、眼前にてその黒刃を振り下ろさんとしている姿が。
「っ――こ、のおっ!!」
反射的に一撃を防ぐも、次の瞬間には第二の太刀が迫る。
それを防げば体勢が整う前に次の一撃が。後方へ逃げようにも今は壁際。逃げられない。
悠希の全身に灼熱が走る。痛み、ではなく、熱。これまでに幾度も感じてきた、地獄の苦しみ。
その痛みに耐えきれず、ずるずると壁際にもたれかかる。全身から力が抜け、呼吸も満足に出来なくなっていた。
全身を焼くような熱に呻く。熱い。熱い。熱い。
熱の発生源は自分の身体だ。左肩から右足の付け根にかけて一筋の線が伸びていた。
そこから毒々しい赤い体液が湧き水の如く溢れ出てくる。腹を見れば、本来なら見えない筈の内蔵が少し顔を覗かせている。
それが自分のものだとわかっていても、どうしても生理的な悪寒が襲う。
遅れて倦怠感が襲ってくる。失血によって、血の気がどんどん失せていくのわかる。
次いでこみ上げるものがあるが、それに従えば口から大量の血塊が吐き出される。口の中はもう血の味しかせず、その気持ち悪さが相まって、更に嘔吐感が全身を駆け巡る。それに身を委ねればまた喀血するという悪循環だ。
――無様な姿だな――
女が自分を見下ろしながら言う。
睨みつけようにも倦怠感の所為で満足に睨むこともできない。
――ここまでか。少しは楽しませてくれたが、それまでよ。その礼に、敗因でも伝えてやろう――
敗因。それは嫌という程知っている。目の前の人物に、殺される度に言われるのだから。
――貴様の敗因は、貴様自身の実力不足よ。神の祝福に頼り過ぎる貴様らならではよな?――
女はニヒルな冷笑を浮かべながら、そう口にした。
そう。彼女曰く、敗因は単純明解に実力不足。祝福に頼りきって素の剣技を疎かにしてきたからだ、と。
それは確かにそうかもしれない。そう思って、今は純粋な剣技を磨いているところなのだから。
が、敗因はそれだけではない筈。
彼女は少し――いや、かなり意地悪なところがある。自分の気が乗らなければ情報を開示しないあたり人が悪いと思う。
自己分析すれば、自分自身の対応力の低さも原因のひとつだと思う。
あの女は多彩な手段で攻め立ててくる。その全てに対応出来ることがまず必須条件だ。
その次に来るのが彼女の言う通り剣技の未熟なのかもしれない。
――ではな、勇者よ。眠れ、永久に――
言葉とは裏腹に、女は刀を鞘に納める。刹那、鯉口を切る。腕を一閃させたかと思えば、視界がぐるぐると回った。
首を斬り飛ばされた、と漠然と理解した時には視界が暗転し、意識がゆっくりと、深い深い闇の奥底へと沈み込んでいく。
深い闇は悠希を取り込み、不気味に、脈動するように蠢いている気がする。数条の不気味な黒い光が殺到し、沈みゆく首がギチギチと歪な音を鳴らして締め付けられる。
光は闇の奥から伸びており、無遠慮に、強引に悠希を引きずり込んでいく。
抵抗は出来ない。いや、首だけなのに抵抗できる方がおかしいだろう。
それを言うなら、首だけで意識がある自分もおかしいと思うのだが、これは神の祝福による影響だ。今の自分には何らおかしいことではない。
不意に、仄かな光が闇とは反対側へ灯る。光はゆっくりと闇の中に沈み、悠希の首を淡く照らし、同時に絡みついた黒い光が霧散する。
拘束が解かれたと認識すると、黒の光は次々に殺到する。だが、その全てが光に触れるたびに霧のようにかき消えた。
首が光に包まれる。
すると、光は掬い上げるように悠希の首を引っ張り上げ始める。その間にも妨害はあるが、そのどれもが靄となって忽然と姿を消した。
不意に頭上から光が覗く。どうやら、出口が近づいてきたらしい。
それに比例するように、意識が鮮明になってきたのかわかった。
そして――
「ていっ!」
どこか間抜けな掛け声と共に、ごつんっ、と頭に衝撃が走った。
突然の事態に目を瞬かせ、すぐに声のした方に顔を向ける。
「ひどいな、何するんだ」
「朝早くからこんな所で寝てる方が悪いのよ。ケイトさんも心配してたわ。あんたがいつか身体を壊すんじゃないかって」
そこで樫の杖を両手で持ち、少しふくれっ面で悠希を見下ろす少女がいた。
彼女は九重梓と言う。
悠希と同じく日系の顔立ちで、少し長めの黒髪を後頭部で結っているのが特徴だ。目鼻顔立ちも悪過ぎず、かと言って良過ぎるわけでもない。しかし、天真爛漫な明るさが彼女の強みであり、その相乗効果によって彼女を可愛く見せる要因になっていた。
「夜遅くまで起きてるからそんな事になるのよーだ」
「いやいや、別に寝ていたわけじゃない。寝ていたわけじゃないんだが……その、意識を潜り込ませたというか……」
「あぁ、悠希がよく言ってる人のこと? 確か、最後には絶対に倒さなきゃならない相手。いわゆる、ラスボスっていうの?」
「そう。その人との戦いをシミュレーションしてて……つい、その……首をバッサリとやられちゃって……」
「は?」
「それで、戻す前にその後の方にまでいっちゃって……」
「……呆れた」
梓はため息までついて、言ってみせた。
これには流石に申し訳ないと思わずにはいられない。
悠希は集中し過ぎると、色々と周りが見えなくなるタイプだ。その所為で何度も迷惑をかけていた。
よく、直したほうがいい、と忠告されるのだが、どうしてもそうなってしまうのだ。
「……なんて言うんだっけ? その人」
「あぁ……スケア・シュクレアン。後に、『戦神』と呼ばれる事になる人だよ」
「言ってたね。――でも、何でいきなり? 召喚されてから今まで、そんな人の話なんて聞かなかったじゃん」
悠希達は異世界に召喚された。よくライトノベルなどで見るあれだが、まさか自分達がそうなるとは思わなかった。
悠希はその中の勇者として、梓は優秀な魔術師として召喚された。
元々は戦いなんて縁のない平和な日本で、どこにでもいる高校生として学生生活を送っていた。
そんなある日、悠希がいたクラスがまるごと異世界に召喚された。
俗に言う勇者召喚というやつだ。
悠希達のように召喚された者は皆、女神アーネの手によって『祝福』という特殊な能力を与えられるらしい。
悠希達もその例に漏れず、祝福を与えられており、中でも悠希は歴代で最も多く祝福を与えられた最強の勇者として持て囃されていた。
そう言われたのなら、それに応えようと思うのが悠希である。
事実、これまで出没した魔獣の群れを屠り尽くし、召集された魔族との戦争では名のある魔族をも討ち取ってきた。
それが人間達の士気を底上げし、共に召喚されてきた仲間達も誇りに思ってくれている。
中には僻みや嫉妬の目で見てくる者もいるが、共に召喚された以上、その人物達も無事に元の世界に帰らせたいと思っていた。
そして、そこに必ず立ち塞がるのが、先刻口にしたスケアである。
スケアは人間に対してあまり良い印象を抱いていない。同時に、敵対者には容赦もない。
その為、いざ敵対した刹那にはその首は既に落とされるのだ。
しかし、彼女の中での敵認定は少々特殊で、一度や二度戦ったところで敵認定はされない。
彼女のことについてはわかっていることは少なかった。
どこで魔術を学んだのか。どこで剣を習ったのか。どこで体術を学んだのか。
そもそも、彼女はどこの出身なのか。
これまで幾度となく彼女の出生に関する事は必死に調べてきた。時間があれば城の蔵書に赴き、名簿などを事細かに漁ってきた。
だが、終ぞ判明する事はなかった。
決まってこの時期。何度繰り返そうと、表に出てくるのはこの時期だった。
「昨日、王様に聞いたことを覚えてるかい?」
「えっ? もちろん。確か、ルーミラの街に少し前から現れた女騎士がいて、その人の手によって街の貴族や兵士達に迷惑がかかってるんでしょ。それで、私たちはその人を立ち退かせに行って欲しいって頼まれたのよね?」
「そうだ。その通りだよ」
「……もしかしてその人が、スケアって人?」
まさか、と口をついて出た言葉に、悠希は静かにかぶりを振る。
「それは違うよ。ただし、関係者である事は間違いない。その女騎士は『戦神』の仲間なんだ。
そして、ボク達が向かうとそこには女騎士と一緒に行動する『戦神』がいる」
「つまり、これから向かう場所にその人がいるって? 戦うの?」
「うん。ボクが今まで何度言ってもみんなは半信半疑だっただろ? 今回、ボクが言ってることが何ら間違いじゃないことを知ってもらいたいんだ。百聞は一見にしかず、って言うだろ?」
「でも、本当に悠希よりも強いの? 疑いたくないけど、とても信じられない」
何度も見てきた反応だ。だから気落ちする事はない。
仲間達にとって、悠希の強さは絶対、みたいな考えが根幹で形成されつつある事には気づいている。
今の椿の反応がそれを如実に表していた。
悠希は剣技を操り、勇者にふさわしい荘厳な雰囲気を醸し出す聖剣を持つ。加え、剣士などの前衛の者が扱う秘術――限界突破などがそうだ――を見事体得し、この国一番の兵士すら圧倒する。
加えて、歴代で最も多く『祝福』を与えられている。
右も左も分からない場所で、そんな人物がいれば縋り、ついて行く気持ちもよくわかっている。
字面で見れば、なるほどさすがは勇者だ、と自分でも納得する気持ちもあった。
自分がそれを眺める側なら、そんな人物が負けるとは思えない。
しかし、やってのけることを列挙してみれば、相手の方が圧倒的に凄いのだ。
「……信じられない気持ちはよくわかるよ。でも、これだけは言わせてほしい。ボクが本気で挑んでも、あの人は軽くいなしてしまう。彼女の能力は理不尽の塊なんだ。――一瞥しただけで人を殺せるような人なんだから」
「……そんなのあるわけないじゃんっ!? ゆ、悠希……きっと疲れてるのよ」
「馬鹿なことを言ってる自覚はあるよ。――でも、本当なんだ」
これまで、何度もその姿を見た。信じたくなくても、信じなければいけない。逃げたら、勝てる戦いにも勝てないんだから。
ふと廊下の方がにわかに騒がしくなっていることに気づいた。どうやら城の人々も皆起き始め、それぞれ仕事を始めたようだ。
「そろそろ行こうか。朝ご飯を食べて、準備に取り掛からないと」
「ゆ、悠希……?」
呼びかけられ、振り返ると顔を凍りつかせた椿の姿が目に入る。
椿は言うべきか言わないべきか悩んでいるようで、悠希は不思議に思い声をかける。
「どうしたんだ?」
「……悠希、酷い顔してるよ? どこか、体が悪かったり?」
逡巡して出た言葉は、心配する言葉だった。
自覚はないが、今は相当酷い顔になっているらしい。
「大丈夫だよ」
柔らかく微笑んで、安心させるように声をかける。
その表情を見て、まるで痛ましいものを見るような目になるのがわかった。よほど酷い顔なのだろう。
しかし、自分の体の事だ。誰よりも自分がよくわかっている。普段通り、健康なものである。
「じゃあ、行こう」
「……うん」
もう一度声をかけると頷いた。
椿と連れ立って修練場を出る。
屋敷に戻るまで、思考は全てスケアのことでいっぱいだった。アレと戦うには、手段を選んでいては勝てない。
悠希は、スケアと対峙した時は手段を選ぶつもりはなかった。勇者らしくないとしても、そのほうが生き残れる確率が高いのなら躊躇わない。
城から出て、空を一度見上げた。
絵の具を塗りたくったような空模様は一面に広がったまま、雲行きが一段と怪しくなっている。
悠希はそれを見て、天が悲しんでいるかのような錯覚を受けたのだった。