第4章 その39 赤い陽炎の暗躍(修正)
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ゆらゆらと赤い陽炎が揺れる。
誰にも見えない。陽炎は地上の何ものにも触れられない。このひどく危険きわまりない幻影を目にするのは、非常に限られた存在だけ。
それは飢えていた。渇いていた。
求めるものは、たった一つ。
遙か彼方の古き園に、置き去られた、彼女だけ。古き園が壊れるとき共に失われた魂の持ち主だけ。
だから、セラニス・アレム・ダルの渇きは永遠に癒やされることはないのだ。
「あいつら、うまく使ってるかな。だいたい魔法なんて、昔はなかったんだしさ」
子どもが玩具をもてあそぶように。
楽しげに笑いながら、人の荒野を彷徨う。流血を求め、戦乱と嵐を求め。
呪いと穢れを呼吸して。
※
マクシミリアンは落ち着かなかった。
敬愛するカルナック師と同じテーブルで食卓を囲むのは嬉しかった。
けれど途中から不安になってきた。
カルナック師は、このテーブルでは少しだけ姿を変えている。
「魔法使いのローブを纏って招待客の席にいるのは、周囲から浮くだろう?」
黒いドレス姿の女性に見えるように目くらましをかけたと言う。
もともとの容姿はそのままだが、人目を引かずにはおかない美貌も長い黒髪も黒い目も、違う意味で周囲から浮いていた。
こんなにも注目を集めてしまっていいのだろうか。
マクシミリアンの不安は高まっていく。なぜなら、父ダンテが、酒を過ごしすぎているように思えるし、ダンテの顔が、妙に、いつもとは違って見えた気がしたからだ。
時々、首都シ・イル・リリヤで父ダンテと同じように店舗を構えている商人仲間たちがやってきては、ダンテへの挨拶がてらに、黒髪の美女へ並々ならぬ関心を寄せているのを隠そうともせずに話しかけてくる。
たとえば名前、関係、ずっと首都にいるのか等々。
ダンテは「妻と長男だ」とだけ答え、詳細は語らなかった。
「なかなか人気者だな」
商人達の流れが一段落すると、カルナックは興味深そうにダンテの表情を見る。
何かを誤魔化すように、苦笑いをした、この男は流暢に喋りまくる。まるで黙っているのが怖いみたいに。
「商売敵の動向は気になるんだろうさ。家族の名前もへたな相手に知られるのは気に食わん。あんたら正規の魔導師ならしないようなことを金で請けるヤツらもいるんだ」
言った後で、これはまずかったかとダンテがカルナックを伺う。
「ああ、それはすまなかった。悪徳『呪い師』の存在は掌握しているが、あえて泳がせているのでな。迷惑をかけたことがあるなら謝罪するし対処もさせてもらう。何かあれば言ってくれ」
「いや、まだそこまでは。けちな迷惑行為くらいだ。なんてこたない」
ダンテが言わないことまでカルナックは読み取る。
「なるほど。妻の名前も顔も首都シ・イル・リリヤでは知られたくなかった。それで息子だけを連れてきた。商売より家族をとるか。面白いな」
「やれやれ。あんたは、面白いかどうかだけで動いていそうだな」
「否定しない」
カルナックは杯を傾けた。
酒ではなく注がれているのは天然発泡水だ。水を飲むといっても口をつける程度。ダンテが沢山のグラスを並べているのを見とがめる。
「ダンテ、酒はほどほどにと忠告したぞ。特に息子が同席しているときは」
「ああ。つい飲み過ぎた」
「自分では酒に強いつもりかもしれんが、顔が赤い。おまえも本当は酒に強いわけではないのだ。悪酔いしているぞ」
「……酒が進む相手が目の前にいたのでね」
「?」
きょとんとして、カルナックは周囲を見回した。誰か美女でも近くにいるのだろうかと思ったのだ。
「まったく、あんたは……ところで、提案があるんだが」
「ふむ。何かな。私も忙しいのだ。手短に頼む」
「……オレの情夫になれ。あんたが男でも女でも構わん」
「ち、父上!? いったい何を言い出すんですか! そんな失礼な!」
がたんと音を立ててマクシミリアンが椅子を蹴って立ち上がった。
「ははあ。首都の情勢を知る、つてが欲しいわけか」
カルナック師はいっこうに動じるでもなく、得心がいったというふうに頷いた。
「そうじゃなくてだな!」
「だが、お断りだ。その提案は、私には何のメリットもない」
カルナックは、きっぱりと断った。
「そこかよ! 損得勘定じゃねえ、オレは惚れたと言ってるんだ」
しかしカルナックの顔には疑問符が浮かんでいるだけだ。
「申し訳ないが惚れたとかいうものが私には理解できない」
「察しが良いくせになんでこの方面は鈍いんだ」
「それに、ダンテ、おまえも間違っている。男でも女でも構わないというが、それは外見の皮一枚のこと。おまえは、この私の中身がなにものたるかを知らない。たとえば人間でさえ、ないのだとしたら?」
「何を言ってる。オレには、あんたはこの世ならぬ美しい生き物に見える。それだけだ」
「そんなものに、手を触れないがいいと忠告はしておこう」
グラスを手に持ち、残っていた水は料理の器にあけて、カルナック師は席を立つ。
「さて、宴もたけなわ。次の行事が始まる頃合いだ。そろそろここで、おいとまするとしよう」
「レィディ」
「だいじょうぶ。すぐにまた会える」
マクシミリアンには、極上の微笑みを返して。
カルナックは席を立った。
(そろそろアイリスの所に戻らないと)
上の空で、そんなことを考えていたせいかもしれない。
ダンテの次の行動に、対処が遅れたのは。
ガタン!
気がついたらテーブルに顔を押しつけられていた。
料理を乗せた盆や皿をすばやく押しやって場所を確保したうえで、ダンテがカルナックの腕を捕らえテーブルに押さえつけ、顔を近づけてきた。
「むだに抗うな。腕力だけならオレの方が強い」
倒れる寸前にカルナックが放った、強力な魔法が、ことごとく跳ね返されている。
ダンテが魔道具を持っていることをカルナックは確信した。
「誰の指令だ。狙いは私の命か?」
「違うって! いま別れたらもう会う機会がないから。言ってわからないなら行動で示す!」
もどかしそうにダンテは顔をさらに寄せていく。
が、突然、動きが止まった。
焦げ臭い。
ダンテの喉元に、剣先が当てられていた。
その剣は赤く輝き、彼の喉の皮膚や髪を焼いていた。
「うわ! マックお前」
息子マクシミリアンが、無言で、剣をダンテの喉に突きつけていた。
「やけどしたぞ! なにするんだ」
ダンテが手を離すとカルナック師の身体がずり落ちる。ぐったりとなった師をマクシミリアンは背中に庇って、立った。
「父上。おやめください。母上は、気分がすぐれないのです。乱暴なことはしないでください。……申し上げたはずです。この人に手を出したら許さないと」
後半は、脅しだった。
たった今、溶鉱炉から引き出されたばかりのように真っ赤に剣が燃えている。
「マック! 武器の持込は基本、禁止だ。武器をふるうのはもっとまずい」
ダンテは青くなった。自分の軽はずみな行動が、息子の立場を危うくしたことに気づいたのだ。
「それがなんです。レィディを守るためなら何もいといません!」
「マクシミリアン。もういい。私が不用心すぎた。共に食卓を囲んだとしても、そうそう気を許すものではないのに」
背後からカルナックが呼びかける。
「炎の精霊とまだ契約していないのに、力技で従えてしまったようだね。その剣はきみの身を守るために与えたのに。きみは私を守るために抜いてしまった。この段階では、まだ、伏せておきたかったのだけれど」
「後悔なんかしていません。レィディを守れなくては騎士ではありません」
カルナックは手を上げて、一番近くに居た魔法使いを呼びつけた。
それが門下生の一人だったことは、想定していなかったが。
「いったいどうなさったのです師匠。潜入捜査ですよね? 我々はコマラパ老師の指示で、ダンテに接近を図った商人達を探っていたのですが、いろいろ出てきましたよ! 後ろ暗いことが。もちろん師匠の狙いはそこだったんですよね?」
興奮ぎみに言いつのる若い弟子に、カルナックは、いい加減な返事をした。
「ああ、うん、そうだな。そういうことにしておくか」
ダンテのほうは駆けつけた使用人たちに取り押さえられていた。
「お客さま、騒ぎは困ります。夫婦ゲンカでしたら、お話し合いのために静かな部屋をご用意しますので」
有無を言わさず、息子のマクシミリアンに付き添われ、引き立てられていく。
会場では、なんだ夫婦ゲンカかと、納得して騒ぎは静まっていった。
「これでダンテ商会の信用もがた落ちかあ」
「旦那様が妙な気を起こさなければよかったんですよ。確かに旦那様好みのお綺麗な方でいらっしゃいますが」
ダンテは付きそう使用人にまで文句を言われる始末だ。
「奥さまの代理をお願いした方でしょう? 美人を見ると、すぐ口説く癖は、もうたいがいにして頂かなくては、我々が対処に困ります」
「苦労してらっしゃるんですね。上司がワンマンだと困るんですよね~」
いつの間にか、リドラが加わっていた。
ダンテの使用人は彼女好みの、渋い男性であったのだ。
「リドラ。向こうの護衛はどうした?」
「深緑の老師がいますから。それよりお師匠様! エキサイティングでしたわね。壁ドンですよ! 壁じゃないけど」
「?」
「あ~残念。ここにイリス・マクギリス嬢がいたら、一番女子力のないのは師匠だって、わかってもらえたのになぁ!」
「女子?」
カルナックには理解を超えていたようだ。
ダンテの使用人は、夫婦ゲンカだったことを周囲の客に言い訳し、後始末をすることを申しつけられて晩餐会の会場に戻っていった。
リドラは名残惜しそうだったが、そこは任務優先だ。
「この後は尋問ですね! わくわくします! 拷問の方法ならよりどりみどり。わたくしリドラにお任せあれ!」
今にもメイド服のエプロンから、あやしげな武器を取り出しそうな勢いだ。
「人選を間違った気がする……誰か、他にいないか?」
「ではわたしが!」
駆けつけたのは、ヴィーア・マルファだ。
貴族の息女だが女性らしいことは一切できず、ひたすら脳筋な残念系美女である。
「これが例の悪徳商人ですか? 近頃、首都を騒がせている輩なのですか? 拳にものを言わせるなら、このわたしにぜひ!」
「何か、もっと間違った気がする……」
思わず呟いた、カルナック師だった。




