第4章 その33 マクシミリアンと前世の記憶(修正)
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「忘れないで。……くん。あなたの魂は、わたしのものなのよ。未来永劫に、離れられないの」
耳元で囁く声がする。
背筋が、ぞくっとして。
彼は目を開けた。
目の前に鏡があった。
アール・デコ風の優美な縁に飾られた、姿見だ。
そこに映し出されているのは、十六、七歳くらいの、腰まで届く長い黒髪、黒い瞳の美少女だ。美しすぎて冷たささえ感じさせる面差し。
青い小花柄の、ふわりと裾の広がったワンピース。腰に、青いスカーフをベルトのように巻き付けている。
そしてもう一人。
美少女に、背中から抱きしめられて、陶然とした表情の、栗色の長い髪の少女。年の頃は同じくらいだろう。こちらは美しいというより可愛い少女だ。
黒いメイド服に純白のエプロン。膝までの、黒いハイソックス。
履いていたであろう黒いエナメルのローファーは、ベッドの下に落ちていた。
二人の少女はベッドの上にいて、互いを映す姿見と向き合っていたのだ。
比べれば青いワンピースの少女のほうが背が高く、大人びた容貌だ。
背中に、美少女の胸の膨らみが押しつけられているので、それに結構なボリュームがあることがわかる。
(あれ? なんで背中に彼女の胸を感じる?)
自分は、どこにいる?
「ほら見て。なんて可愛いの………」
青いワンピースの少女は微笑み、メイド服の少女をかき抱く。
耳に唇を寄せ、ふうっと息をふきかける。
ぞわっとした。おかしい。これでは、まるで。
(まさか……まさか、これって。鏡の中に……映っているのは、おれ!? そんな! 夢でも見てるのか!?)
「目をそらさないで。鏡を見て。なんて可憐なのかしら」
メイド服の少女は身をよじり、背後にいる少女を見あげる。
自分の口から、見知らぬ声が、言葉を紡ぐ。
「……身代わりでも、なんでもするけど。でも、オレは……さんのことが、大好きだから。他の誰のためにも、こんな格好なんか、しないんだから」
「わかってる。あなたは神さまがわたしにくれた最後の贈り物なの」
黒髪の美少女は、二人が映る鏡を見やり、薄く色づいた唇に、悲しみをこめた笑みを浮かべて。
「愛してる。わたしを裏切ったら、あなたを殺すわ。だけど、ずっとそばにいてくれたら、なんでも、あげる」
「オレに向けてくれるのがたとえ真実の愛情でなくても、かまわない。ずっと、あなたのそばにいる」
息を切らせながらメイド服の少女は答える。
「なんてけなげな、可愛いことを言うの。こんなだから、わたしはあなたを手放せないんだわ」
美少女の長い黒髪が、メイド服の少女の頬に、腕に、まつわりつく。
固くだきしめた拍子に、メイド服の少女の頭から、栗色のウィッグがずり落ちて、少年のように短い、癖のある黒髪があらわになる。
大きな姿見は、全てを映し出す。
自分より少し背の高い少女に押し倒され、降り注ぐキスを受けながら、メイド服の少女は、ふと思う。
この人は、なぜ……こんなに悲しそうなんだろう。誰といても。きっとオレが一生そばにいると誓っても。
ふいに、我に返った。
とたんに今まで見えていた光景は、鏡が割れるように全て砕け散った。
ものすごく、頭が痛い。割れそうに、ズキズキと痛む。
それとも痛いのは心臓のほうだろうか。
知らないはずの、失った恋心に焦がれ、胸にぽっかり開いた穴が、血を流す。
『驚いたわ。前世で自分が死んだときのことを思い出す人は多いけど、あなたの場合はその場面なの? よっぽど重要な記憶なのね』
銀の鈴を振るような幼い少女の声が、胸に響いた。
『お帰りなさい、マクシミリアン・エドモント。蘇った前世の記憶から抜け出して、この世界へ帰り着いた無垢なる魂』
マクシミリアンは、何もない白い空間に立っていた。
青みを帯びた長い銀髪の、あどけない美少女が、彼の前に佇む。
『こうなるとは思わなかったわ。カルナックも思い出さなかったことを、あなたが、忘れられないなんて』
「きみは誰だ? なんのことを言ってるんだ?」
『独り言よ。あなたには前世の記憶を戻す予定ではなかったの。だけど、カルナックは、あなたの生命を救うために自分の魔力核を削って分け与えたから、あなたにも『先祖還り』を意識してもらわなくてはいけなくなった』
「待って! カルナックさんが、おれの生命を助けるために、自分の魔力核を削って分け与えたって!? どういうことなんだ」
『文字通りの意味よ。カルナックはあなたに生命を分け与えたの。あのまま放っておいたら、あなたは死んでいた』
「カルナックさんが……おれのために? 生命を? なんで、そんなことまでしてくれるんだ? 出会ったばかりの……おれみたいな、ただの子どもに」
『本当に、驚いたのよ。あの人は、人間を観察して面白がりはすれ、誰か一人に執着したこともなかったのに。たぶん、自分自身でも覚えていないけれど、あなたという魂の転生を待っていたのかもね』
待っていた。
その言葉は彼の、ある記憶を引き出す。
……あなたの魂は、わたしのものなのよ。未来永劫に、離れられないの。
銀の髪の、幼い少女は、焦りをこめた口調で言う。
『伝えなければいけないことから言っておくわ。あなたはカルナックの命の一部になった。カルナックと同じだけ生きる。あの人が死んだら、あなたも死ぬ。だけど、当分は死なないから安心して。カルナックの魔力が続くかぎりは……あの人は前世でも相当な魔法使いだったから、他の人とは魔力の桁がちがうの』
「おれは、あの人のために、なにを返せる?」
『あら、もう誓ったでしょう。カルナックただ一人に剣を捧げる、騎士になるって』
「……誓った。おれは、もう、カルナックさんの騎士だって、あの人は言ってくれた」
『だったら、応えてあげて。あの人を現世につなぎ止めるものは、何もないの。ただ、弟子たちの行く末は気に掛けているようだけど、それだけなのよ。マクシミリアン。あなたが、カルナックを人間にとどめておいて。……でなければ』
「でなければ……?」
『いつか、わたしたち世界が、セレナンが、カルナックを連れて行ってしまうわよ。助けてあげてね。あなたの無垢な魂だけが、あの人を絶望から救う』
そしてセレナンと名乗った少女は、ふわりと笑う。
『こんなことを告げても、目覚めれば、ただの八歳の子どもに戻ったあなたは全て忘れてしまうのにね。……お願いね。カルナックが贈った炎の精霊、カルナックの魔力で造り上げた剣が、あなたを導くでしょう。……そうね。最初は小さな短剣の姿をしているでしょうね。あなたの成長と共に、剣も育つ。それから、あなたには、もう一組の魂のことも、助けてあげて。アイリスと、アウルのことを……』
「おれのことかいかぶりすぎてない?」
マクシミリアンはこぼしたが、やがて、まっすぐに前を見る。
「できるだけ努力するよ」
『ありがとう、マクシミリアン。わたしは、スゥエ。いつかまた、出会えるときまで』
少女の姿は消え、しばらくして、
マクシミリアンは目を覚ます。




