第4章 その1 紗耶香は前世を思い出した
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どういう環境に生まれるか。
それで、人生には大きく差がついてしまうと思う。
たとえば、生まれた国。
同じエナンデリア大陸であっても、エルレーン公国か、レギオン王国か、グーリア帝国か、サウダージ共和国か。極北の地アストリード王国か。平和な国か。王様は戦争好きか。豊かな国か、戦乱で荒れた貧しい国か、生活水準は高いか低いか。
たとえば、生まれた身分。
王侯貴族と平民と奴隷では、人生のスタート時点から違うのだ。どうあがいたところでひっくり返せるわけもない。
たとえば、持って生まれた容貌や才能。
きれいな顔は確かに武器の一つだ。才能があれば、許される範囲内ではあるけれども自由度が広がる。
たとえば、どんな親か。
子供を愛し育ててくれる親か。自分のことばかり優先で、子供は自分たちのために使い潰すか利用しつくす親か。
※
あたしは、親に恵まれなかった。
飢え死にしそうになっていた幼女のあたしは、絶望のどん底だった。
それまでだって、優しくされたことなんてなかった。
お腹いっぱい食べたこともなかった。薄汚れた木の器によそわれた薄い麦粥は、おいしくもなかったが、飢え死にしたくなかったから奪われる前に必死で食べた。
着るものも誰かの古着か、ゴミに捨てられていたものを拾ってきたボロばかり。
殴られたり蹴られたり罵られたり、食べ物を与えるのも忘れたか、放置されていたことも数え切れないくらいあった。
荷馬車に詰め込まれて運ばれ、どこか暗い穴ぐらに押し込められて、あたしは飢えていた。もう立ち上がることもできなかった。
穴ぐらには、あたしのほかにも何人かの子供が居た。
あたしみたいに貧弱なからだにボロを巻き付けた下層民の子供もいたし、かろうじてましな服装の子もいれば、貴族か金持ちか、きれいな服を着て、父や母を呼んで泣いている子もいた。
十数人いた子供たち。
行く末は、たぶん、みんな奴隷落ち。
ふしぎな気がした。
奴隷になって虐待されて死ぬのは、みんな平等ってわけか。
神さまも、時には粋な心遣いをするもんだな。
そんなことを、六歳にして思ったりするくらい、あたしは歪んでいた。すさんでいた。
けれど、あたしは他のみんなより早く人生が終わるかも。
もともと、もう何日も食べて無くて飢えて死にかけだったからね。
おなかが減って痛い。寒い。もう動けない。
ああ、もう死ぬんだなと、意識を手放した、その瞬間。
あたしは、すべてを思い出した。
前世の記憶だ。
西暦2020年、東京、武蔵野市、吉祥寺。
たぶん今の世界では誰に言っても通じるはずはない、日本語のことば。
今のあたしより、ずいぶん豊かな暮らしをみんながしていた世界だった。
あたしは、そこでも、やっぱり親には恵まれていなかった。
高校二年、歌手を目指していたあたし、相田紗耶香は。
親友だった月宮有栖の死因を知らされてショックを受けた。
十六歳の誕生日の前日に交通事故で死んだと聞いていた彼女が、あたしの母親に車で轢き殺されたのだと知った。
その半月後、友人のジョルジョという男の子が、同じように車で轢かれそうになった。あたしの母親が犯人だった。
母は、笑いながら、あたしに自分のしたことを告げたのだ。
「あなたのためなのよ紗耶香。有栖ちゃんは可愛すぎたわ。きっとあなたがオーディションで勝ち抜く邪魔になる。ジョルジョくんはダメ。あなたは歌も踊りも演技も最高のアイドルになるのに、彼氏なんかいたらよくないわ」
有栖はアイドルになりたいなんて言ってなかったよ、お母さん。
ジョルジョは良い子だった。彼氏にもなってなかったのになあ。あたしのせいで死にそうになって、二人には謝ってもどうやっても取り返しがつかない迷惑をかけた。
母は、あたしに自分のできなかった夢を託していた。
その夢を誰にも邪魔させたくなかった。
あたしに母より大事な人間ができることが、耐えられなかった。
とっくに壊れていたのだろう。
でも、あたしを食べさせて教育を受けさせ、養育することに心を砕いてくれた。愛してくれた。たとえ叶わなかった夢を託すための自分の分身としてでも。
だから、あたしは母を警察には断罪させない道を選んだ。
かわりに、選んだのは。
あたしが死ぬこと。
母の夢を叶えるツールだったあたしを失うことが、母への罰になりますように。
そしてあたしが死ねば、母はもう、あたしのために人を殺す必要はなくなるのだ。
あたしは高い所から飛び降りた。
その後のことは覚えていない。
※
目が覚めたとき、あたしは、信じられないことに、見たこともないような金髪の美青年に抱き上げられていた。
「もう大丈夫だよ。悪い人は捕まったんだ」
長い金色の髪、優しい目は、灰色がかった緑。神々しいような、美しい人。あたしは何も応えられず、ぼうっとしているだけ。
穴ぐらは開かれて、沢山の人が入ってきている。
檻に入っていた子供たちが助け出されていく。
「おうちにかえれるの?」
さっき泣いてた貴族の子が、今は笑ってる。
ああ、みんな、いいなぁ。
あたしは助けられても、相変わらず腹が減って、いくところもない。
「この子の親は?」
抱き上げられるって、すっごく温かいよ。こんなに気持ちよくて、いい香りのするものって。あたし、初めて。
ところで、この子って、あたしのこと?
「行くところがないのか……このままでは、孤児院に行くことになるな」
「こじいんでもいい……おやより、まし」
あたしは言葉を絞り出す。
乾ききってしわがれた声に、あたしを抱いていた彼は驚き、黙っていれば神さまみたいな超絶美形なのに、大いに怒り狂った。
「孤児院が、親よりまし!? どんな親だ!」
「エル落ち着いて。気になるなら、エルが保護者になれば? 幼児虐待だよ。親から親権を取り下げさせることもできるさ」
あたしを抱いている人にそういったのは、焦げたレンガみたいなぼさぼさの髪、茶褐色の目の、人の良さそうな青年だった。
「エルが保護者になって、ヴィー先生と一緒にうちに派遣してくれたらどうだい?」
すごくいいことを思いついたというように、彼は笑顔になった。
「わたしはエステリオというんだ。うちには六歳の姪っ子がいてね。身体が弱くて家の外に出られない。家庭教師はいるけど歳の近い遊び相手はいないんだ。友達になってやってくれないか? きみは何歳だい?」
あたしは五本の指を広げ、それに指を二本、そえた。
「七歳? それにしては小さいね」
「栄養が足りていないのだろう」
「アイリスは六歳だけど、この子と同じくらいの体格だな。きみ、うちのアイリスと友達になってやってくれないか。きみの名前は?」
「クリスタ…アンブロジオ」
それはあたしが、飢え死にするところだった日。
そして神さまみたいな二人の人が、あたしの前に舞い降りた日だった。
あの穴ぐらにいたのは、あたしの親じゃなかった。
あたしはどこからか攫われてきていたのだ。
このエルレーン公国で、子供をはじめたくさんの人間が浚われて南のほうにある国へと輸出されているという、犯罪が行われていて。
それを摘発するために、エルレーン公国の国教『聖堂』と、警察組織と、魔法使いを養成する学院とが、共同で、一斉捜査に踏み切ったのだと、あとで知った。




