第3章 その14 有栖とアイリスとイリスの間で
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「月宮有栖さん」
あたしに呼びかけるエステリオ叔父さんは、真剣そのものだった。
精霊火に纏わりつかれているヴィー先生は、その言葉を聞くゆとりがあったかどうか、わからないけど。
「21世紀の東京、いや、2020年の東京都武蔵野市吉祥寺に、きみは、いた。毎朝、電車で高校に通っていたね。そのとき、きみには親友がいた」
驚きのあまり、あたしは言葉を失った。
そこまで詳細なことを知っているなんて。月宮有栖と同じ時間に生きていたという、エステリオ叔父さんの言葉は、真実なのだろうか。
「親友の名前は、相田紗耶香さん。同い年だった。きみたちは、いつも一緒にいたね。そうだろう?」
突然、衝撃が襲ってきた。
相田紗耶香!
サヤ!
あたしの、いつも一緒に居た親友。
どうして、思い出さかったの。紗耶香のことを。
それとも、思い出せなかったの?
「……アイーダ!」
自然に、口からこぼれ出た名前。
それはあたしの声だったけれど。
その名前を口にしたのは、あたしではなかったかもしれない。
「信じてくれるかい。わたしはきみの前世で出会っていた。この世界に転生する直前に、セレナンの女神がわたしに告げた。ある女の子を助けてほしい。彼女の名前はイリス・アイリスというのだ、と。そして、思い返してみたら、こうも言ってたんだ。微かな縁に結ばれた魂だと。高校一年の半年間、毎朝、姿を見ていたけれど、思い切って話しかけることもできなかったのだ。本当だ、ほんの微かな縁に違いない……」
そこまで一気に言って、エステリオ・アウルは言葉を切り、息を吸う。
ヴィーア・マルファの腕に抱かれ、彼の顔を正面から見ている、アイリスは、ぽろぽろと涙をこぼした。
「信じるわ。おじさま。アイリスの大好きなおじさま」
小さな手をのばして、エステリオの頬に触れる。
「うたがってごめんなさい」
やさしく彼の頬を撫でる、その手をアウルは握った。
一瞬だけ、アイリスの顔におびえが走ったが、すぐに、消えた。
「さて、いろいろと聞きたいことがあったんだけども」
アイリスを胸に抱いたヴィーア・マルファは、「やれやれ」と、呆れたようにつぶやく。
その髪は、エルナトのそれに似た、輝くような濃い金色だ。
精霊火が取り囲んで、消え去ったあとには、こうなっていたのである。
「ヴィー先生の髪、きれい」
「ありがとう、でも、せっかく赤毛に染めてたのにな。まあいいわ、私の髪のことなんか大したことじゃない」
こうつぶやくと、アイリスの目を、まっすぐに覗き込む。
「エリーがあなたに会った日のことよ。エステリオ・アウルが魔力栓を溶かすために最初に魔力を手から流した。その治療は成功したように見えた、けれど、治療のあと、疲れて眠ってしまったあなたが目覚めたとき、様子が少しおかしかったと聞いたわ」
アイリスの身体が、こわばる。
だがアイリスは何も答えない。
「眠っていたときに何かあったんじゃないの? すごく怖い悪夢とか何か。でなきゃ奇妙なのよ。溶かしきったはずの魔力栓が心臓にできていて、どんどん身体中に広がっていて、生命を脅かしていたそうじゃないの」
※
「はい。ヴィー先生」
もしかしたら、誰かが、容赦なく、この事実を突きつけてくれるのを、あたしは待っていたのかもしれない。
「ごめん、なさい……せんせい。こわくて、きもちわるくて、いえなかったの。叔父さんとエルナトさんが、せっかく治療してくれたのに」
そこまで言ったとき、急に、大きく動悸が打った。
口に出せない。
言葉にできない。
涙だけが溢れてくる。
「……たす、け、て」
ようやく、それだけが言えた。
それにすぐさま応えてくれたのは、やはり、エステリオ叔父さんだった。
「きみを助けたい。どうしたらいい。なんでもするから」
ああ、また言っちゃったわこのヒトは。なんでもするだなんて。
素敵すぎるじゃない。
「じゃあ、あたしを抱いて、キスして。あのときみたいに」
エステリオ叔父さんに向かってこの言葉を口にしたのは、有栖じゃ、ない。
ふいに理解した。
あのときも。
『魅了』を発動させたのは。有栖じゃなかったの。
「なにっ! これは何、この魔力は……」
ヴィー先生の声も、遠くに聞こえる。
あたしはただ、何かに突き動かされるように両腕をのばして、アウルの首に手を回してすがりつき、顔を寄せて唇を押しつけた。
エステリオ・アウルは、抗わなかった。
唇を重ねるキスに、情熱的に応えてくる。ヴィー先生の腕の中から、あたしを引き寄せ、強く抱きしめる。
抱きすくめられると、身体が、震える。
でも、こんどは、あたしも怯えないで応える。
熱には熱を。舌には舌を、絡めて。送り込まれてくる途方もなく熱い魔力に対しては、あたしの魔力を返す。
これはもう、魔力栓治療のためでは、なかった。
自分の身体なのに、誰かに操られているような感じがした。
だって、有栖は知らないのだ。
こんな熱病にかかったみたいな激しいキスも、誰かに夢中ですがりつくなんてことも、有栖には経験がないことなのだ。
もう、頭の中はパニックで、どうなってるのかわからない!
※
レンガ色の髪の青年と、黄金の髪の幼女の、いわば熱い抱擁とキスを交わすようすを、ヴィー先生ことヴィーア・マルファは、呆然と見ていた。
「私は今、何をすべきなのだろうか」
考え込み始めた彼女の肩の上に、深紅の光が出現した。
『いいのよヴィー。もうじきに落ち着くから、待っていればいいの』
「サラ!? 今までどこにいたのよ。あんたたち精霊ってものは、よくそう言うけどね。これ犯罪行為じゃないかなー、なんて思うと、じっとしてられないわ」
『まあ待ってなって。もうじきだよ』
ヴィーア・マルファの守護精霊である、火の精霊サラ(女子)の言う通りだった。
「何よ、エステリオ・アウル! なんでキスが上手くなってるのよ! このまえはもっと慣れない感じで初々しかったのに。どこかで練習してきたの? いやらしいわね」
エステリオの首に腕をまわして抱きついていた黄金の髪の幼女は、熱く重ねていた唇を離すや否や、こう言い放ったのだった。
「な! なななんてことを、イーリス! きみはそんなことを言ってはいけないんだ」
エステリオは動転しきっている。それでも腕の中の幼女を取り落とさなかったのは褒められても良いだろう。
対する幼女の方は余裕たっぷりである。
「イーリス? ああ、ギリシア神話に出てくる虹の女神ね。そんな特別な呼び名で語りかけるとか、どんだけロマンチストなの! 悪いけど、あんたのイーリスじゃないってば。わからないの? エステリオ・アウル」
「え……」
いぶかしげに黄金の髪の幼女を見た、エステリオは、顔色を変えた。
「イリス・マクギリス!? 自称ニューヨーカー!」
また出てきたのか、と。
彼が思っているのは、誰にでも明らかだった。




