第3章 その13 月宮有栖の記憶
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「待ってくれ!」
アウルの叫びには切羽詰まった響きがあった。
「アイリス? それに、有栖だって!? まさかきみは、月宮有栖さん、なのか?」
この世界に転生してこのかた、セレナンの女神さまたちからしか呼ばれたことのない、21世紀の東京で生きていた時の名前を耳にして、あたしは驚いた。
「どうして、エステリオ叔父さんが、わたしの名前を知ってるの?」
あたしは驚いて、思わず声をあげていた。
そして気がついた。急に、身体が自分で動かせるようになったことに。
あたしはどうなっていたの?
ヴィー先生に「大人のキス」をされて、気が遠くなってから、自分がどうしていたのか、覚えがない。気を失っていたのかな。
「叔父さんが知ってるわけはない……のに」
言いかけて、ある可能性に気づき、背筋が凍る。
女神さまたち以外に、あたしの名前を呼んだ存在が、一人だけ、いた。
昏い赤の獣、セラニス・アレム・ダル。または「赤い魔女セレ二ア」だ。
あの時、エステリオ叔父さんの姿を模して、あたしの記憶に侵入した、「生命あるものすべてを呪うモノ」が。
月宮有栖、って、呼んだ。
「いや!」
あたしは叫んでいた。
どうしていいかわからない。
「ねえ、ほんものだよね? エステリオ叔父さんも、ヴィー先生も。うそじゃないよね!?」
この世界に転生してから三歳になった今まで、ずっと、そばにいてくれた、エステリオ叔父さんを信じられなくなったら、いったい何を信じられるの。
女神さまと精霊たちと、後は自分自身だけしか。
「どうしたのアイリス!」
ヴィー先生が叫んで、あたしを持ち上げて抱きすくめる。
先生の胸はふかふかで大きくて弾力があって、顔を埋めていると温かくて幸せな気持ちになれる、はず、なのに。
呪詛のように、心の奥で、誰かが意地悪くささやく。
この人を信じられるの? 出会ったばかりだよね?
エルナトだって、エステリオだって、さ。
「やめて、誰なの。そんなイヤなこと言わないで」
また、心臓が凍りそうになる。
『アイリス!』
『アイリス、しっかりして』
『だいじょうぶだから』
『エステリオはずっと味方だから』
守護精霊たちが、あたしを取り巻いた。
同時に、精霊火が、ふわふわと漂い、集まってきているのが見えた。
あれ?
あたし、そんなにヤバいの?
普通なら人間に関わってくるはずもない精霊火が、助けようとしてくれるほど。
「どういうこと!? なんで精霊火がここに? 家の中なのに!」
あたしを抱いているヴィー先生の周囲を、精霊火が漂い始めた。
ヴィー先生が動転してる。
ナイスバディな大人のいい女、美人の先生が。
「せんせい、だいじょうぶです。スーリーファはこわくないの」
あたしは右の手をのばして、精霊火に触れる。
ああ、温かくて、柔らかい手触り。シューシュー、パチパチって鳴って。囁いて。これはセレナンの魂なの。
『落ち着いて、アイリス』
ジオの呼びかけが届く。
『エステリオを信用してやって。本物だよ! アイリスのことが大好きな』
「ジオ! それはいいから!」
慌てたような、エステリオ叔父さんの声が、間近で聞こえた。
「イーリス! わたしだ。信じてくれないか。言わなかったことがある。わたしは、前世で21世紀の東京に住んでいた。そのとき、きみに、月宮有栖さんに出会っていたんだ」
「え? 出会って……そんな、偶然って」
そんな都合の良い話ってないわよね。
でも、エステリオ叔父さんは必死だった。
「月宮さんは、毎朝、吉祥寺から電車に乗って通学していただろう? 駅は高架だった。よく、ホームで見かけていたよ。わたしは、きみに、ずっと話しかけたかった。できないうちに、きみはいなくなって」
「信じられない」
信じたい。
「じゃあ、もう一つ、前世の、吉祥寺にいた月宮さんだけが知ってることを、今から言う。それならどうだい」
「それは……なに?」
思わず振り向いた。
そこには、ぼさぼさのレンガ色の髪を振り乱したエステリオ叔父さんが、いた。
二十歳だよね? いい大人だよね?
情けない、表情。
前にも思った。
雨に濡れた、子犬みたい。




