第3章 その12 システム・イリス
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アイリスが二歳になって間もなく、おぼつかないまでもはっきりと言葉を口にし始めるようになった頃のことだ。
彼女はよく、明け方に怖い夢を見ると言って泣いた。
たまたま家の中で起きていて部屋の前を通りかかった叔父のエステリオは、アイリスの様子が普通でないと感じた。
世界が滅亡するのを夢で見たというのだ。色彩も音も匂いも痛みの感覚もあったという、非常に現実感を伴う悪夢だ。
しかも、夢に出てくるのは、セレナンと呼ばれるこの世界ではないと思われた。
そのことに気づいてから、エステリオ・アウル・ティス・ラゼルは、アイリスが熟睡できているか、悪夢を見てはいないかと、毎夜、部屋を訪れてみることにした。
アイリス付きの小間使いローサも、メイド長トリアも、ラゼル家当主マウリシオの実弟であるエステリオのことをたいそう信頼していた。
ラゼル家の大事な一人娘アイリスも、エステリオ叔父のことを慕っていた。
真夜中や明け方、エステリオ・アウルが姿を見せると、アイリスは、眠れないで起きていたときは、決まって彼に無我夢中で飛びついてくる。
「あのねあのね。また、ゆめをみたの」
怖い夢を見たと、怯えて、訴える。
「いつものゆめ。こわくて、すごく、いたかったの。せかいが終わっちゃうの。あたしも死んじゃうの」
エステリオはいつも、アイリスを安心させるように優しく宥める。
「だいじょうぶだよイーリス。叔父さんがついてるからね。それは夢だ。本当のことじゃない。世界は終わらない。わたしが、終わらせないとも」
エステリオ叔父さんは、可愛い姪のアイリスに、そう約束したのだ。
言葉をすっかり覚えきるより早く、夜ごとの世界的規模の破滅の夢に怯え、さいなまれていたアイリス。
多すぎる魔力に恵まれ、というよりむしろ呪われて、体内の魔力が固まって魔力栓を形成するために、疲れやすく虚弱だったアイリス。
持って生まれた魔力の輝きのためなのか、生命あるものをすべて呪う存在であるという『赤い魔女セレ二ア』に目をつけられて。
彼女の守護精霊の助けがなかったら、危うく生命を落とすところだったのだ。
そのアイリスと、ヴィーア・マルファの腕に抱かれた黄金の髪の麗しき幼女とが、同じ人物とは、エステリオ・アウルには、とうてい思われなかった。
「きみは、いったい、だれなんだ!? アイリスは、どこだ?」
「目の前にいるわよ。エステリオ・アウル。あなたは、あたしの魂の姿を見たでしょ? ほら、この幼女の姿が、成長すれば、そうなると思わない?」
黄金の髪は腰まで届いていた。白い肌に映える緑の瞳は、宝石のよう。
アイリスの魂の底まで二人で降りていったときに見た姿に、そっくりだと、エステリオも認めないわけにはいかなかった。
「ね? あなたの魂の姿もキュートだったわよ。黒髪に黒い目で、なかなかイケメンで」
「おれのことはともかく! まあ、たしかに、アイリスが成長したら、あの魂の姿に似ているかもしれないな……」
「……アウル。二人だけで通じる会話は、後にして。私は彼女と話したいの」
ヴィーア・マルファは、腕に抱いていた幼女を、ソファに乗せた。
彼らがいるのは、アイリスの自室である。
子共部屋に相応しく、可愛らしく整えられたものだ。また、部屋の主の成長に合わせて模様替えも行えるようになっている。
窓には遮光カーテンとレースのカーテンが二重に掛けられていて、今はレースのカーテンだけが引かれていた。
机と椅子があり、箪笥があり、大きな姿見、三面鏡のついたドレッサー、小花柄の大きな布を掛けた小さなソファも、天蓋付きのベッドもあり、ベッド全体には天蓋から垂れ下がる白いレースが掛かっている。そして毛足の長い白いカーペットが床に敷き詰められている。
子供部屋には本来ならアイリス付きの小間使いローサが控えているのだが、ヴィーア・マルファとエステリオが居ることで、持ち場を離れても良いとメイド長の判断がなされたのだろう。
ローサは、じきに夫人の往診に訪れる予定のエルナトを迎えるために、アイリアーナ夫人の部屋に呼ばれていた。
今、子供部屋にいるのはアイリスと、ヴィーア・マルファとエステリオ、三人だけだ。
「あなたは本当にアイリス? 私にさっき言ったことは、どういう意味」
「あなたが、あたしになにを聞きたいのかということね。そうね、さしあたって質問がないなら、あたしが先に問うわ。ヴィーア・マルファ・アンティグア。なぜ髪を赤く染めているの。本来はエルナトと同じ金髪じゃない?」
心の準備のないところへ降って沸いた質問に、赤毛の美女は、ぐっ、と喉の奥に詰まったような音を発して、何かを飲み下した。それから、深く、呼吸をした。
「それ、答える義務はないよね?」
「ええもちろん。単なる興味よ。では、わたしのことを説明しておくわね」
前置きして、話を切り出す。
「アイリスは複数の前世の記憶を持っているの。普段、表層にある意識は、有栖という女の子。この身体の持ち主であるアイリスとも相性がよくて、今ではすっかり溶け合っている。有栖は十六歳になる前の日に死んだ。彼氏もいないうちにね。だから前世の記憶を足しても、そんなに人生経験はないわ。ヴィー先生にされた大人のキスでパニック起こしたりしちゃうわけよ。有栖も、三歳のアイリスも、ショックで失神しちゃったわ」
「それは、悪かったわね」
ヴィー先生ことヴィーア・マルファの瞳が輝いた。少しばかり心の余裕を取り戻したようだ。
「まったく迷惑よ。でも、あたしが出てきたのは、あなたのおかげかもしれないわね。そこは感謝すべきかしら」
幼女は、ころころと楽しげに笑う。
「わたしはイリス・マクギリス。白人女性で二十歳のニューヨーカー」
「はぁ!? ニューヨーク!?」
思わずエステリオが声を上げると、幼女は、ぴくっと神経質そうに片方の眉を上げた。
「そこ、つっこむとこじゃないから、エステリオ・アウル。成人女性だからそれなりに男女交際なんかもしてたし、キスくらいで動じないわ。そして、あたしは、地球滅亡に立ち会った人類管理システム・イリスでもある」
「どういう意味?」
いぶかしげな表情の、凜々しい赤毛の美女に、にっこりと微笑んで。
「試しただけ。わからないならいいわ。なんだ、やっぱりあなたは『先祖還り』じゃないのかぁ。残念だわ」
黄金の髪を揺らして、幼女は、妖艶ささえ漂わせて笑った。
「あたしはイリス・マクギリス。そして人類管理システム・イリスの膨大な蓄積データにアクセスできる。今までは半分くらい眠っていたみたいな気がするけど、そろそろ起きなくちゃいけないみたいだわね」
「何を、するつもり?」
不穏な匂いを感じながら、ヴィーア・マルファは、幼女に、聞く。
「滅亡した地球から、この世界に転生した使命を果たすのよ。女神と、この世界と、あたし、約束したから」
「待ってくれ!」
アウルの叫びには切羽詰まった響きがあった。
「アイリス? それに、有栖だって!? まさかきみは、月宮有栖さん、なのか?」
「どうして? 名字の方は言わなかったのに」
顔を上げた幼女の、頼りなげな表情は。
すでに、イリス・マクギリスのそれでは、なくなっていた。
「どうして、エステリオ叔父さんが、わたしの名前を知ってるの?」




